第77話 擦り切れそうな先輩
「ふふ。ねえ、ハジメくん。君は、私のことを可愛いと思う?」
思わず転んでしまいそうになる。もっと真面目な話をしているのだと思って身構えていたら、そんな言葉が聞こえてきたせいで。
「綺麗な人だとは」
九十九くんも何を言っているんだ。いや、内容には全面的に同意するけれど。
君は、先輩の心の深いところに踏み込んでいくつもりではなかったのか。だから、ドキドキするのか聞いた時、君の言葉は嘘だったのではないのか。進藤くんの気持ちとは別の意味で。
だけど、それでも、私が隣にいると、落ち着くと言ってくれたから。あの時間は、勇気を持って踏み出す君に必要なものだと思っていたのに。
「ふふ。もっと真剣に言ってくれてもいいんだよ?」
「それが嫌なんじゃないんですか」
私の憤慨とは関係なく、話は進み、そして止まる。ちゃんと真面目な話ではあったらしい。やや間を置いて、先輩が答える。
「やっぱり、わかるんだね」
今度は九十九くんが黙る。また目で何か語っているのだろうか。ここからでは、表情まではよく見えない。二人の心の様子も。
「私はね、自分で言うのもなんだけど、利口な子だったよ。周りが自分に求めていることが分かったから、いつもそれに応えられるよう、いい子でいた」
先輩の子供の頃の話だろうか。想像できる。可愛くて、気さくで、柔らかく微笑みながら、困っている子に手を差し伸べられる、小さな冬紗先輩。
「可愛いね。いい子だね。優しいね。優秀だね。そんな言葉は、飽きるほど言われた。親はもう少し、わがままを言って欲しそうだったけど」
私もきっと、眼の前にその頃の先輩がいれば、同じように褒めると思う。先輩は、褒められるのが嫌だったのだろうか。
「それは、してあげなかったんですか」
「出来る時は、したよ。でもね、喜んで欲しい、嫌な思いをしないで欲しい、っていうのが私の一番のわがままだったから。両親が望んでいたのとは、違っていたかもね」
それは、その思いは、まるで私が、九十九くんの中に見たもののようで。
「……それが、気持ち悪かったんですか」
「気持ち悪い。はは、そうだね。それが適切だ」
九十九くんが、先輩の心の芯を捉えた、と思った。先輩の声も話し方も、これまでの綺麗なものではなかった。
もっと、腹の底から染み出るようなものだった。
「周りの目ばかり気にして、上辺を取り繕って。取り繕った表面ばかりが褒められて。しかもそれで、一番大切な人たちは、心からは喜んでくれない」
先輩は、それが苦しかったのだろうと思って、そしてすぐ、違うと思った。きっと、進藤くんでは駄目で、九十九くんでなければならなかったのは。
「だから、自分が嫌だったんですね」
先輩は、根っこの部分が九十九くんとよく似ている。
「……うん。そうだよ。薄っぺらい自分が嫌い。自分でそれを選択しておいて、本当の自分を見てくれないなんて、勝手に拗ねるところが気持ち悪い。それも我慢して、必死で望まれた形を取り繕って、そこまでやっても大切な人の本当に欲しいものをあげられない自分に価値を感じない」
一心に人のことばかりを想って、自分をすり減らして向き合って、その結果の全てを一人で背負おうとしてしまうそれは、九十九くんがしてきたことと、よく似ている。
「そこで、お兄さんの写真なんですね」
「うん。そうだよ」
私がここに着くまでにしていた話だろうか。先輩には、お兄さんがいるのか。知らなかった。
「あの時何があったのかも、何を話したのかも、覚えてないんだけどね。その写真を見たときの衝撃だけは、今も覚えているよ」
もう暗いのに、ここからでもはっきり見えるほど、強い色。あの時、私が撮った先輩の写真を見たときと似た、でも、もっと強い感情。
「あんなに大嫌いだったのに、そこに写った自分はとても可愛くて、好きになってしまった。まるで魔法にかけられたみたいに」
「それが、あなたの原点」
「うん。そう。あの日の兄の魔法を私も使いたくて、私はカメラを手に取った。それが、人に依存しない、私の唯一のわがままになった」
ちら、と隣を見る。きっと、彼が一番先輩の気持ちがわかるのだろう。カメラを取った日の気持ちも、それからもずっとカメラを手にし続けてきた気持ちも。
だからこそ、尚更。
「どうして、それを手放してしまうんですか」
息を呑む。私も。進藤くんも。皆、その答えが知りたかった。そして、叶うなら、ずっと。
「カメラくらい、って言ったからだよ」
え。
「誰がですか」
「誰も彼も、ね」
まさか、と思い、横を見る。進藤くんも呆気に取られている。胸に満ちる猜疑心は、自分はそんなことを言ったことがないから、周囲の心当たりある人間に向いているものに見える。そうだと思いたい。
「お兄さんもですか」
「ハジメ君。私はさっき、私には兄がいた、って言ったよ」
それも、私が聞いていない話。いた、ということは、今は。
「亡くなったんですか」
「さあ。行方不明だから。あと一年したら、そういう扱いにも出来るらしいけれど」
血の気が、引く音がした。心臓がバクバクと暴れだす。手が、震える。
「カメラを手に海外を渡り歩いて、その結果がそれだったから。家族は私に同じ道を辿ってほしくなくて、カメラを手放して欲しいみたい」
「先輩、進路は」
「……普通の、四年制大学の理学部だよ。君たちが入学してくる前にはもう、こっちの道は諦めたんだ」
手元のカメラを撫でているであろう先輩を見て思わず、ポケットの中のスマホを確かめて、強く握る。諦めた、なんて言うけど、そんなはずない。本当に諦めていたら、あんな顔でファインダーを覗いたりしない。
あんなに優しい手付きで、カメラに触れたりするはずがない。
「両親はね、写真なんて、仕事にしなくたって撮れるでしょうって言うの。あなたは成績も優秀なんだから、いい大学にもいけるんだし、って。成績なんて、あの人たちに安心してほしくて取っているだけなのに。ねえ、どう思う?」
先輩のその声は、何かに縋るみたいだった。
「こんなにいい子にしてきたのに。喜んでほしくて、安心してほしくて、頑張ってきたのに。尽くしてきたのに。私の一番のわがままは、聞き入れて貰えない。おかしいって、思う? 私の人生は私のものなんだから、親なんて関係ないでしょ、って思う?」
先輩は、なんだかそう言って欲しそうに見えた。
「それは、誰が言った言葉ですか」
「友達や、先生かな」
肩透かしを食らったように、でもまた、同じように、先輩は聞く。
「あんたの人生なんだから。お前の人生なんだから。本当にやりたいことは自分で決めていい。そう言ったのに。だから、決めたのに。親を大切にすることも、カメラの道に進むことも、どっちも本当にやりたいことだから、両方叶えたい、って、決めたのに。最終的に、私に諦めさせることを諦められない親の味方になって、私に諦められないものを片方選ぶよう迫って、諦めたらまた、写真なんていつでも撮れる、だって。ねえ、君もそう思う? 写真なんていつでも撮れるんだから、夢になんてしなくていいんだって思う?」
やはり、先輩はそう言って欲しそうだった。いや、そう言わせたいみたいに聞こえた気がした。
「そう思うって、言って欲しかったんですか」
同じものを感じ取ったのだろう。九十九くんは、そう聞いた。
「先輩が、俺に何かを求めているのは分かっていました。だからそれが何か、ずっと考えてた」
思えば、先輩は九十九くんに会えるのを楽しみにしていた。期待していると言っていた。ずっと、何かを探るみたいに、九十九くんの側にいた。
今、こうして二人の時間があるのだって、必ずその時間が作れるよう、先輩の提案を計画に組み込んだからだ。
「俺が、先輩の人生なんだから親なんて放っておけ、と言っていたら、どうしたんですか? 写真なんていつでも撮れるんだからそれでいいだろ、と言っていたら、どうしたんですか?」
先輩は諦める理由を探しているんじゃないかって、九十九くんは言っていた。もし本当にそれを、九十九くんに求めているのなら。
「俺に、諦める後押しをして欲しいのは分かりましたけど。その後は? 諦めて、それでどうするんですか?」
「死ぬよ」
時が止まった。九十九くんも、私や進藤くんも、固まってしまった。
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