エピローグ:名前
文化祭がつつがなく終了し、月曜日の午前中に片付けまでしっかりと済ませて、今日は火曜日。文化祭の代休日。
昨日、相沢さんによって突然決められた、約束の日。
「九十九くん、ごめん。待った?」
「……いや、今来た」
定番のやり取り。ちょっと間があったのはきっと、分かってやっているからだろう。
「んふふ。似合わないね」
「そうだな」
やっぱり。本当はどのくらい前からいたのだろう。気になるけれど、聞くのは野暮かな。
「九十九くん」
「ん」
それよりも、もっと聞きたいことがある。これもまた、きっと、定番のやり取り。
「どう?」
あの時みたいに、くるりとその場で一回転。細身のデニムパンツ。白いゆったりとしたシャツ。上から羽織った、薄手のロングカーディガン。
特別気合の入った服ではないけれど、私の手札の中で、ちょっとだけ綺麗なコーディネート。
「……ああ。そっちの方がお前らしい」
「うん。私も、そう思う」
「いくぞ」
「うん」
九十九くんの隣に立って歩き出す。行き先は知らない。今日の全部は、九十九くんプランニングだ。
−−−
「美味しそうだね」
「ああ」
九十九くんが連れてきてくれた喫茶店。古き良き隠れ家的お店、と言えばいいだろうか。そこで頼んだフレンチトーストのセット。見た目も勿論、香りがいい。
そう言えば、「こういうことをしな」と相沢さんからアドバイスを貰っていたっけ。
「九十九くん」
「ん」
「あれ、やってる? あの、写真の、SNSの」
「うろ覚えが過ぎるだろ」
そう言われても。見本の写真は見せてもらったけれど、アプリの説明は受けていないのだから仕方がない。
「やってる?」
「やってない」
「私も」
「だろうな」
どうしよう、口実を失ってしまった。もういいか。素直に頼もう。
「写真、撮っていい?」
「……好きにすればいいだろ」
「ありがとう」
席を立つ。九十九くんの向かいから隣に移動して、スマホを高く掲げ、起動したカメラアプリをインカメラに切り替える。
「……料理じゃないのか」
「違うよ。文化祭の時、撮れなかったから」
「……そうだな」
勿論、料理もなるべく写るようにするけれど。そうすると画角が難しい。
なんとか調整を終えた画面で、九十九くんがいつもの仏頂面をしている。
「九十九くん、笑って」
「見えてるならいいだろ」
からり、と音がする。音のした場所には、つい一昨日、一緒に作ったマーブル模様の結晶がある。
「写真には映らないの」
「そうなのか」
「うん」
「……」
う、わ。初めて見た、九十九くんの表情。
「……おい、撮れよ」
「ごめん、見とれてた」
「もうしない」
「九十九くん」
「もうしない」
「ごめん」
「しない」
−−−
「九十九くん」
「ん」
九十九くんが連れてきてくれた日本庭園を歩く。こういう場所に来るのは初めてだった。
秋の様相を見せ始めた植物たち。趣深い建物。平日だからか、人は少ない。流れる時間がとてもゆっくりに感じる。
聞いてしまったのは、その独特な空気で心が緩んでしまったからか。
「これは、〝支払い〟ですか?」
それでも。
「……デートじゃなかったのか」
それでも、君はそう、答えてくれた。
「んふふ。そうだね」
「ああ」
「そうだったね」
「ああ」
きっと全部、見透かしていて。それでも茶化さず、答えてくれる。彼はいつも、私の気持ちに応えてくれる。
「九十九くん」
「ん」
「やっぱり名前、呼んでもらわない? 他の人にも、ちゃんと」
君のそんな所を、他の人にも知ってもらえたら。君がもっと、皆に認めてもらえたら。そんな風に思って言った言葉だけれど、野暮だったかな。
「いい」
「でも」
「別にいい」
「もう」
だって、不満そうな、そんな声が自分の口から溢れてから、気づいたんだもの。
〝なんでもいい〟じゃ、なくなっていることに。
「……お前が」
「一透が、呼んでくれるから、別にいい」
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