第6話 狂気じみた鍛錬
「
ピエールがクラインに向かってそう言った。
ジークフレアが二人に用意させたのは、枝葉を切り落としただけの細い木々だった。Xの形をした二つの脚に、その木材を何本も横たえていく。
ジークフレアが立木と呼んでいるそれは、確かに見た目は横に寝かせた横木であった。
屋敷の裏庭──
クラインがちらと当の本人を見やると、ジークフレアは椅子に腰かけ、ナイフで棒切れを削っていた。
丸太と呼んでも差し支えの無い真っ直ぐな木の棒で、木剣というよりも棍棒と呼ぶ方が相応しい代物である。
彼はどうやら握りの部分を丸く削っているらしい。
「準備出来ましたけど?」
「よし、始めるか!」
丸太を片手に、ジークフレアが立ち上がる。
立木の前に立つと、腰を落として両手でその丸太を握った。持っているだけで、ふらついている。
武器種で言えば、両手剣に該当するだろう。クラインとピエールの二人は、主に片手剣と槍を使っていた。重量のある両手剣は一定の技量と腕力を要するためだ。
当然のことながら、これまで何もしてこなかったジークフレアに、両手剣など扱えるはずもなかった。
木製とは言え、長さがありそれなりに重量もあるのだ。ジークフレアの重心は安定せず、足元も覚束なかった。
「キィエ゛エ゛ア゛ア゛ア゛───ッ!!!!」
だが彼は昨晩同様の奇声を上げて、全力で目の前の木の束に丸太を叩きつけ始める。
身体は左右に揺れ足元もフラフラとしてきて、すぐに腕が上がらなくなった。それでも、ジークフレアは鍛錬を止めない。
呆れた眼差しで、しばらくクラインは見ていたのだが……。
ぶしゅっ!!
突然何かが噴き出す音がして、彼の鼻先に饐えた臭いが届いた。
ジークフレアが嘔吐したのだ。
「ちょ、大丈夫ですか!? もう、その辺で止めた方が」
ジークフレアが口の中のものを吐き捨てる。
「なまくらな身体よ!!」
近くに用意された樽から水をひと掬いすると、口をゆすぎ立木打ちを再開した。
「今まで剣術の稽古なんて一回もやったことないのにな」
ピエールも不思議そうにつぶやいた。横のクラインを見やる。
「気が変わったのかな?」
「俺が知るかよ」
冷めた目でジークフレアを見ながら、クラインは低い声で返した。
この程度の【貴族の頑張りアピール】で、ジークフレアに人望など集まらない。だがジークフレアはその後も、足を滑らせて尻もちをついたり、膝の力が抜けて転んだりしながらも、一向に鍛錬を止める気配がなかった。
手の皮が破れたのだろう。握っている部分から血がねっとりと染み出している。
やがて、辺りに異臭が立ち込めてきた。嘔吐とはまた別の生臭い異臭である。
(っ!? こっ、この人……!!)
クラインはギョッとした。
ジークフレアは、失禁していたのだ。
だが、ジークフレアの顔を見て、クラインは更に戦慄することになる。
彼は、笑っていた。
「まだだ。狂え……。狂え……」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、彼はそう言っていた。
その後、ある時を境にしてジークフレアに変化が訪れる。
もうとっくに限界を超えているはずなのに、なぜか一打一打の重みが増していくのだ。更に回転数も上がっていく。
バスン!! バスン!!
木と木がぶつかる音も、明らかに変わった。
「やっと来たか! これだ、この箍が外れる感覚……」
彼は、笑っていた。
深い紫色の瞳が、妖し気に光る。
「
銀髪を振り乱し、狂ったように丸太を立木に打ちつけていく。
打打打打打打打打打打打打打打打打打打打!!!!!!
暴風のような打撃は、屋敷を越えてロアの村まで響き渡った。
限界を超えたジークフレアのどこに、これだけの力が眠っていたのか。いや、剣など数日前まで握ったこともなく、肉と酒と女に溺れて、自堕落ですぐに癇癪を起す幼児の如き彼のどこに、こんな力が宿っていたというのか。
誰もその答えを知らなかった。
ジークフレアが作り出す風圧は凄まじく、彼の肉体が放出する熱と共に、血と汗が周囲に飛び散る。
それに圧倒され、そばにいたクラインは後退りした。
(なんなんだよ、この人……、本当に狂ってんのか)
見ながら、クラインは恐怖さえ覚えていた。
だが、終わりは突然訪れる。
どさっ!!
ある瞬間、糸が切れたようにジークフレアが崩れ落ちたのだ。彼は、気を失っていたのだ。
「またかよ……」
クラインとピエールの足元に丸太木剣が転がってきた。その握りの部分は血を吸って真っ黒になっていた。
「っ!!」
クラインの表情が凍り付く。どれ程の力で握っていたのか、その木剣にはジークフレアの手形ができており、指の形に凹んでいた。
「くっさ」
ピエールが鼻摘まんで笑う。
「いいから運ぶぞ……」
ジークフレアを見ながら静かに言った。
「おう」
ピエールがうなずく。運びながら、難しい顔をして首を傾げた。
「けど、本当にどうしちまったんだろうな、この人」
「知るかよ」
「記憶を失ったんじゃなくて、まるで人が変わったみたいだよな」
「確かにな」
翌日、またしてもジークフレアはあの天井で目が覚めた。全身が痛くてでベッドから起き上がることさえできない。
「くっ! あれしきのことで……。無念!」
「あんなことしたら、そうなりますって」
「クラインか」
クラインがベッドサイドに座っていた。その顔は呆れ果てていた。
「どうやら俺は、剣さえまともに握って来なかったようだな」
手を開く。ブニブニと脂肪の付いた柔く薄い皮膚だった。
「軟弱な手だ。甘えに甘え、苦労を知らず、弛んだ生活に溺れた手だ」
だが昨日できたはずの手の傷は消えている。手の平の皮はズル剥けになっていたはずだった。
「ポーションをかけて直しました」
不思議がっていると、クラインがそう答えた。
「くだらん真似を」
「飲めば身体の痛みもすぐに癒えますよ」
「要らん!」
起きようとして、「うぐ」と苦痛に腰を折る。ベッドから転げ落ちてしまった。
全身が軋んでいる。足に力が入らなかった。
「ほら、言わんこっちゃない」
クラインが呆れる。
彼はまるで生まれたての仔羊のように床に這いつくばった。
「トイレですか? 手ぇ貸しますよ」
「稽古に行く」
「はぁ!?」
驚く。思わずしかめっ面になった。
「無理だって! 馬鹿ですか、あんたは!」
クラインは思わず怒鳴っていた。言ってからヤベっという顔をした。
「どけ!」
だがジークフレアは重たそうに身体を起こし、ゆっくりと彼の前を通り過ぎた。
「マジで無理ですって!」
肩を貸そうとするも、突っ撥ねる。足を引き摺りながら寝室を出ていった。
結局、彼はその日もまた立木打ちをおこなった。そしてその日も、失禁し気を失うまで鍛錬を続けたのだった。
そんな日々が、毎日繰り返される。ほんの数日だけではなく、それ以降も続いたのだ。
その狂気じみた鍛錬は、彼の単なる日常に過ぎなかった。
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