禍兎

北見崇史

禍兎(マガト)

「禍兎(マガト)は喰うな」

 囲炉裏の炭火に手をかざしながら、老婆が言った。

「でもばあちゃん、禍兎を食べれば無敵になるって話じゃないか。オオカミにもクマにも襲われないし、野盗たちも怖くないって」

 まだ十六になったばかりのムサシだが、負けん気の強い男の子である。

「禍兎は喰うな」

 炭を足すために老婆が上体を逸らした。後ろの陰影の中に半身を沈めて、少しの間をおいてから燻った顔を晒した。

「俺は、おびえて暮らしたくないんだ。この村のみんなが安心して暮らせるようにしたい。母ちゃんみたいに死んでほしくないんだ。妹にだって」

 兄は、部屋の隅っこで小さく丸まって寝ている女の子を見ていた。

「アレはな、この世のすべての狂いを一身に受けた化け物だ。魂のな、根っこが爛れきったんじゃ。あんなモンに手を出しちゃイカン。あんなになったら、地獄に落ちたくても落ちていかねえ。あれ自体がなあ、呪いの彼岸なんじゃ。喰うなんて、とんでもねえことだ」

「父ちゃんだって、やろうとしていたじゃないか。なによりも強くなって、俺たちを守る気でいたんだ」

「そんで親父は無敵さなったか。帰ってきたか、どこにいるんじゃ、あのバカ息子は」

「それは」

「いなくなった者の話をすんな」

「・・・」

 話が中断して気まずい空気となった。しんしんと燃える炭火がたまにパチパチ鳴って、なんとか間を保っている。

「俺は明日、{狂い野}に行く。止めたってムダだ。そう決めたんだから」

 ムサシは精いっぱい力んでいた。薄目の少女が寝返りを打って背中を向けた。老婆の顔は火照った炭の色を映している。

「そうか」

 引き止められると確信していたが、老婆の態度はあっさりとしていた。

「出ていく前に、妹っこにあいさつしておけ。二度と会えんかもしれんからな」



 ムサシは日の出とともに{狂い野}へ出発した。老婆に声をかけると弁当を渡された。まだ寝ていた妹に、「必ずまた会えるからな。その時は、あんちゃんは無敵になっているさ」と耳元で囁いてから小屋を出た。

 禍兎がいるのは、ムサシの集落から真北へ三か月ほど歩きとおした荒地だ。赤く焦げた砂と礫しかない乾ききった北の大地に、その獣がいた。

 すべてが崩壊した後、信じられないくらいに狂暴となったオオカミやクマ、野犬を警戒して、かなり遠回りをしたために、到着したのは五か月後だった、集落でもっとも生きる術に長けた若者とはいえ、常に命の瀬戸際を体験しながらの長旅だった。赤茶けた荒地に立って、その景色をしばし眺めていた。疲れ果てていたが、休むことはしなかった。

 まだらに散らばった雲を圧倒するように、沈みかけの夕陽が強烈な色を発していた。赤子の鮮血をぶちまけたような赤方偏移が、はるか地平線から天空の全てを支配している。

 夜になる前に禍兎を仕留めたいと、ムサシは焦っていた。食い物も水もないこの荒地で、夜を明かしたくはなかった。なによりも一刻も早く無敵になりたかった。

 ムサシは禍兎の姿を知らない。彼だけではなく誰も見たことがない。だが{狂い野}に必ずいるとされている。見た瞬間に、それとわかるほどの狂った存在だと伝えられていた。

「ひょっとして、あれか」

 夕陽が沈む方向に動くものが見えた。駆けだしたムサシは、それの姿がハッキリと見えるにつれて、走るのを止めてゆっくりと近づいた。 

「こいつは、いったいなんだ。禍兎か」

 不格好な肉の塊があった。どの動物でもなく、まして兎とは似ても似つかぬ複雑な形状をしていた。大きさは人が膝を抱えたほどで、濡れた野良犬のような臭気を放っている。

 奇怪なのは肉の塊から触手のような手足がとび出して、そして瞬時に戻ることだ。その際に、「ギャッ」とか「キャン」とか、どんな獣にも似ていない悲鳴をあげていた。一度に五、六本の手足がとび出し、指らしき突起を広げたと思うと瞬時に引っ込む。甲高く叫びながら、コンマ数秒ごとに繰り返していた。しかも、それらの手足が肉塊からとび出る箇所は毎回違っていた。

 狂ったように叫び発作的に手足を出し入れする獣を目前にして、ムサシは確信した。

「禍兎だ。間違いない」

 その騒々しくも滅茶苦茶な生き物を、殺す決意を固めた。武器は持参していたナタである。旅の途中で、かなり使用してしまって刃がボロボロと欠けてはいるが、叩き殺すには頃合いの重さがあった。

「とりゃあ、とりゃあ」

 良心の呵責が沸き上がってこないうちに、力いっぱいの殴打を加えた。その最中も禍兎の動きは止まることなく、むしろ激しくなった。二十七回目にようやく静かになった。時をおかず、ムサシは躊躇うことなく肉に喰らいついた。ひどく脂っこくて酸っぱい味の肉を、もうこれ以上はムリだというほどの量を腹の中へ落とし込んだ。

「どうだ、俺は無敵になったのか」

 だが、十六歳の体に変化はなかった。すぐにはあらわれないと考えて、その場で寝ることにした。ひどく疲れていたから、奈落の底へ落ちるように眠った。

 ずいぶんと長い時間寝ていたような気分で、ムサシが目覚めた。辺りを見回すが、眠る前と同じ光景があった。赤茶けた荒地、朱に染まっていまにも暮れてしまいそうな夕陽、まだらな雲。喰いかけの獣も、そのままの状態だった。

「おかしい、おかしいぞ」

 ムサシは気づき始めた。

「いつまでたっても夕陽が沈まないし雲も流れない。なんだ、ここはどうなってるんだ。時が止まっているのか」

ムサシの目から見た、{狂い野}の情景がまったく変化しない。

「時が進まない。俺はどうしたんだ。ここはどうなってんだ」

 ハッとして、傍らにある肉塊を見た。

「ここに着いたとき、あの雲は動いていたんだ。かすかに風もあった。それなのに、いまはまったく動きがない。禍兎を喰ってからだ。こいつを喰ってから、なにもかもが止まったしまった」

 ムサシは走った。自分以外のすべてが止まってしまった原因を、禍兎を殺して食べてしまったことにあるとは考えたくなかった。

「この荒地から出ればいいんだ」

{狂い野}から出ることができれば、元の世界に戻れるはずと信じていた。

「ちょくしょう。どこまで行っても変わらないぞ」

 しかし、どの方向へどれだけ走っても、彼が目の当たりにする情景に変化はなかった。いつまでも、どこまでも、まばらな雲と朱に染まった夕陽、焼けただれた大地しか目に入らない。数万歩、数百万歩と進み続けようが無駄だった。ただ不思議と空腹にはならず、水も欲しなかった。排尿・排便することもなく生き続けることができた。

「ああ、なんで、ここに戻るんだ」

 どれくらいの時が経ったか定かではないが、歩いた距離は計り知れなかった。

 結局、ムサシは禍兎を叩き殺した場所にいた。喰いかけの肉塊を見つめたまま、ぼう然とするしかなかった。

「きっと、まだこいつが残っているからだ。全部食べれば、このわけのわからないことから抜け出せるはずだ」

 腹は減っていないが貪り喰った。肉塊の中には出鱈目に配置された骨があったが、丈夫な奥歯で砕きながら飲み込んだ。すべてを喰いきれば元通りの世界になって時を進むことができる。そして無敵となって村へと帰れるのだ。

 必死になって咀嚼していると、どうしても歯では砕けない箇所があった。特別に硬い骨かと思い、つまみ出してよく見た。小指の先っぽ程の翡翠であり、それはムサシの家に代々伝わる宝石だった。最後の所有者は彼の父親である。

 ムサシは悟った。途方もない絶望感が彼の背骨に、べったりとまとわりついた。

「うおおおおおー」

 喉の柔らかな粘膜から出血するほどに叫んだ。知っているすべての罵詈雑言を吐き出し、力の限り地団駄を踏んだ。何十回、何百回とやるうちに足首の骨にヒビが入った。さらに、その場に伏せて拳で地面を殴った。指の皮がずるりと剥けてしまったが、かまわなかった。とにかくジタバタと激しく暴れて、この大地を呪いながら自らを傷つけた。そして血だらけになりながらも歩き出し、限界まで咆哮しながら彷徨い続けた。

 日時は無意味なものになったが、時の経過は感覚的ではあるが存在している。

 百年ほどが経過した。変わることのない世界でムサシは生き続けていた。擦り切れた衣服はボロ雑巾となり、その姿は荒地にふさわしく幽鬼そのものとなった。尽きることのない悔恨と圧倒的な暇に押しつぶされ、精神がガリガリと削られていった。

 岩に頭を打ちつけ、尖った礫で喉を切り裂いたりして、何度も自殺を試みたが死ぬことはなかった。強烈なる痛みにもだえ苦しんでも、傷はゆっくりと治癒していった。ムサシは四六時中叫び続けた。変わらぬ地において、怨嗟の雄叫びだけは途切れることはなかった。

 数万年、数百万年の後、ムサシが身に纏うに足る布は切れ端すら消滅していた。むき出しの肉体が甲高く叫びながら、狂ったように手足を突き出していた。正気とはかけ離れた衝動だけが、彼を動かしていた。

 ムサシが禍兎を喰ってから四十億年が経っていた。彼の体は進化とも退化とも呼べない奇妙な変容を遂げていた。凸凹だらけの一つの肉塊となり、よく根の張った樹木のように、その場から離れることはなかった。ただし、静かに佇んでいるのではない。常時、金切り声のような叫びを発し、手足とも触手ともつかぬものを何本もとび出させていた。{狂い野}で生きるのに相応しい化け物となっていた。



「これが禍兎か」

 一人の少女が狂った兎の前に立っていた。まだ若く、十八くらいである。

「父ちゃんも、兄ちゃんも、こいつを喰うために戻ってこなかった。きっと見つけられなかったんだ。だけど、わたしは見つけた。殺して喰って、無敵になってやる」

{狂い野}で、ムサシが動かぬ時を過ごす数十億年の間、外の世界では十年ほどが経過していた。久しぶりの侵入者を迎えて、隔てられていた異なる時間軸が同期し、時を刻み始めた。

 まばらに流れている雲と朱に染まった夕陽。その情景を心に焼きつけて、少女は大きなナタを振り上げた。禍兎は甲高く叫びながら手足を出し入れしているが、いつもよりも少し早く動いていた。

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