レナ ~episode 14~
玄関の鍵が開く音が聞こえる。この時間帯は花蓮だな、と私は思う。
「おかえりー。」
問題集から顔を上げると、体中に水を滴らせた花蓮が突っ立っていて、私は度肝を抜かれた。
「ちょっと花蓮、びしょ濡れじゃん!傘持って行ったはずじゃ…。」
途中まで言って私は口を閉じた。花蓮の表情から考えて、今言うべきことはそれじゃない。
「お湯いれるね。」
私は椅子から立ち上がると、お風呂に向かって歩きながら言った。お風呂の栓を閉め、お風呂用のマットを敷き、換気扇を止める。
『お湯張りをします。お風呂の栓は、しましたか』
「体冷えるよ。」
私はリビングに戻ると、なんでもない風を装って言った。
「洋服持ってくるから、花蓮はお風呂入っちゃいなよ。」
「ありがと。」
花蓮が床をぼんやりと見つめたまま、ぼそっと呟く。そして、思っていたよりも大人しくお風呂場に向かった。
私は花蓮の部屋にすっ飛んで行き、下着をタンスから引っ張り出す。少し悩んだ末、今度は自分の部屋に駆け込み、柔らかい手触りのゆったりとしたワンピースを取り上げた。これは花蓮がよく家で着たがるやつだ。でも私のお気に入りでもあるから、普段はあんまり貸さない。今日という日のためにあるんだな、と私は一人頷いて、お風呂場に抱えて行った。
「置いとくね。」
「はーい。」
湯船の中の花蓮に外から声をかけると、くぐもった声が中から聞こえた。私はほっと息をついてリビングに戻る。そしてドサッとソファーに座り込んだ。
花蓮は感情をあまり表に出す方じゃない。真綾は人前で泣いたり怒鳴ったりすることは決してないけど、機嫌が悪いときは自分の部屋に閉じこもったり口数が減ったりするから意外とすぐ分かる。私は自分でも分かってるけどすぐにキレて周りにあたるし、思ったこととか愚痴とかはすぐに声に出して言ってしまう。でも花蓮はそんなことがない。いつも穏やかににこにこ笑っていて、たまに毒舌になったりするけど、それは本気でキレている、というより冗談っぽいときがほとんどだ。だから、あれだけ感情をむき出しにしている花蓮を見るのは久しぶりだった。
なにかに絶望しているらしい、というのはすぐに分かった。ただ、同時に悲しんでいるのか、はたまた怒っているのか、そこらへんはよく分からなかった。本人も分かっていないのかもしれない、とも思う。真綾は放っておくのが一番だし、私は吐き出すのを聞いてくれればいいんだけど、花蓮の場合はどうするのが正解なのか私には分からない。私はちらっと時間を確認した。早く真綾が帰ってきてくれればいいのに。
有難いことに、花蓮は随分長い間お風呂に籠っていた。途中で追いだきをする音が聞こえた。私は物理の問題を解こうと試みては諦めた。全然内容が頭に入って来ない。
どうしようもない私は真綾の部屋に向かった。本棚から『ハリー・ポッター』を引っ張り出す。ハリーが落ち込んだとき、皆はなんて励ましてたっけ―
玄関の扉が開いて、真綾が「ただいまー」と言う声が聞こえる。私は慌てて本を元に戻し、状況を説明しようと階段を駆け下りる。と、真綾の声が聞こえて立ち止まった。
「あれー、花蓮、もうお風呂入ったの?」
いつの間に上がったのか、花蓮が服を着替え終えてダイニングテーブルの隣に突っ立っていた。
「真綾」
花蓮が呟くように言う声が聞こえる。
「んー?」
突然、わっと花蓮が泣き出した。私が恐る恐るリビングの方を窺うと、真綾が落ち着いた表情で花蓮をソファーに座らせ、背中をさすっていた。ちらっと顔を上げた真綾と目が合う。真綾がにっこり微笑んで、こちらに手招きした。私は指示通り真綾と花蓮を挟む位置に腰かける。
花蓮が大きくしゃくりあげた。肩を震わせて泣く花蓮をじっと見つめる。花蓮ってこんなに小さかったっけ、とぼんやりと考える。
「どうしたの?」
真綾が優しい声で聞いた。真綾だって弓道が上手くいってなくて辛い時期なはずなのに、妹が困っているときはお姉ちゃんを発揮できるんだなあ、と少し感心する。
「颯真の」
花蓮が泣きながら言う。
「颯真のばかぁー!」
ああ、颯真くんか、と私は納得する。私は花蓮に腕をまわしてぎゅっと抱きしめた。真綾がそんな私たちを見つめて微笑む。花蓮がそのまま、私に身体を預けてくるのを感じた。
これでいいんだ。私は思う。人のことを慰めるなんて得意じゃないし、今は花蓮が何で泣いているのかも分からない。でも、これでいいんだ。私が傍にいて、絶対的な花蓮の味方で。それが伝われば今は十分なんだって、そう気が付いた。
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