カレン ~episode 3~
私は村上春樹の短編集を片手に図書館のカウンターに座っていた。私は図書委員で、毎週木曜の昼休みと放課後はカウンターで仕事をしなくちゃいけない。でもそのほとんどの時間が暇だから、いつもこうして何か図書室の本を読んでいる。今日もいつもと同じく本は開いているけれど、内容はちっとも頭に入ってこない。私は文字の羅列を見つめて、ぼんやりブレーンくんのことを考えていた。
あのときは突然のことに驚いて気が付かなかったけれど、今から考えると不思議だ。どうして彼は私の名前を知っていたんだろう。私が他クラスの人を知らなさすぎるのは確かに認める。でも目立たない私の名前を知っているなんて驚きだ。もしかしたら持っていたプリントに名前が書いてあったのかもしれない。もしそれを見て咄嗟に名前を呼んでくれたのだとしたら、彼は本当に良く出来た人だ。人に好かれる才能を持った人、というべきかもしれない。それに彼くらいすごい人ならもう学年全員の顔と名前が一致しているのかもしれない。そうだとしても本当にすごい。そんなことを考えていると、手に持っていた本に人の陰がかかった。
「あの、これ借りてもいいですか?」
ぼんやりしすぎていた。
「あ、はいっ。すみません。」
慌てて顔を上げて、私は目を見開いた。今の今まで私の頭の中にいた人が、目の前に立って微笑んでいる。
「ブレーン…」
あまりにも驚きすぎて頭で思ったことがそのまま声に出てしまった。
「ブレーン?」
ブレーンくん、いや橘くんがきょとんとした表情で繰り返した。
「あ、ごめんなさい。そうじゃなくて…。だから、その、Brain!Brainの電子辞書欲しいななんて考えてたら、ついうっかり声に出ちゃって―…。」
何言ってんのよ、私。全然意味わかんないじゃない。もうちょっとましなごまかし方あったでしょうに。こんなの橘くんが困るに決まってる。
「ああ、そうなんだ。僕もね、Brain使ってるよ。うん、使いやすくてお薦めだな。」
橘くんは流石で、こんなことで動揺したりなんかしなかった。にっこり笑って受け流してくれた。
「本、借りたいんだよね。ごめんなさい、時間取らせちゃって。」
私はうつむきながら慌てて本を受け取り、バーコードを読み取った。顔が真っ赤になっているのが分かる。あー、もう、私ってどうしてこんなにドジなんだろうか。
「ううん、気にしないで。全然急いでないから。何なら少し栗原さんとお話しできたらな、なんて思ってたし。」
本当に良い人だ。こういう人のことを真の『良い人』って言うんだと思う。相手への気持ちの配慮も忘れない。真似しなくては。
「ありがとう。はい、返却日は二週間後です。」
手渡す際に本の題が見えた。パウロ・コエーリョの『アルケミスト』。うん、本の趣味も合いそう。一週間前の今日、私がここで読んでいたやつだ。
「それ、おもしろいよ。私のお薦め、です…。」
本当に、何を言っているんだろう。橘くんを前にすると自分の言っていることが全て変なことのような気がする。誰か私を黙らせてくれないだろうか。
「そうなんだ、良かった。こちらこそありがとう。」
橘くんが微笑んだ。でもブレーンにはとどかない控えめな微笑み。またあの笑顔が見たい、と私は思った。
「いいえ…。」
小さな声で私は応える。顔の赤みもさっさと引いて欲しいのに。
橘くんは私に背を向けちょっと止まって、それからまた私に向き直った。
「図書委員の仕事って忙しい?」
「え?あ、ううん、全然。休み時間終わる十分前くらいに何人か借りに来て、でも本当にそれくらい。だからいつもここでこうして本を読んでいるの。」
緊張しているせいか私はこれ以上ないくらいお喋りだった。いつもは話を聞く側だからすごく変な感じがする。
「そっか。じゃあ、もうちょっとここにいてもいい?」
私の心臓が大きく跳ねた。駄目よ、そんなの!私の心臓がもたないじゃない!
「ええ、勿論。図書委員に興味があるの?」
「え、あ、うーん、そういうわけじゃ…。あ、でもそれも良いかもな、うん。」
橘くんがちょっと慌てて、それから困ったように頭を掻いた。それを見て私も少し微笑んだ。こういうところを見ると彼はブレーンではなくて、ちゃんと私の前に実在する同級生の男の子なんだという感じがする。何がそんなに彼を困らせているのか分からないのは、問題だけど。
「本当に僕、冗談じゃなく栗原さんと友達になりたくて。その、栗原さんが良ければ、なんだけど…。」
私は目を見開いた。今、彼、私と友達になりたいって言った?私の妄想じゃなく?聞き間違えでもなく?栗原さんとって?本当にそう言ったの?
「そんなの、ええ、勿論喜んで!でもその、私、橘くんのご期待にそえるほど面白い人間ではないと思うけど…。」
少し顔を曇らせて顔を上げると、橘くんがブレーンの笑顔で笑っていた。私は宝物を見つけた探検家の気分になった。最近の雨ばかりの天気なんて、吹き飛ばすような明るい笑顔だ。
「ありがとう!そっか、良かったぁ。あ、でも僕もね、栗原さんのご期待にそえるような面白い男ではないと思うな。それでもいいかな?」
すごい、ユーモアのセンスまであるんだ。私ははにかみながら頷いた。
「あのー、返却したいんですけどー…。」
二人同時に振り返ると、大人しそうな男の子が困ったように私たち二人を交互に見つめていた。
「「ごめんなさい。」」
二人同時言って、橘くんが横にずれた。そして二人で顔を見合わせ、ちょっと笑った。男の子も困ったような面白がっているような表情で少し微笑んだ。
「返却、ありがとうございます。」
私がそう言うと男の子は少しお辞儀をして歩いて行った。と、予鈴が学校中に鳴り響く。
「もういいわよー。お疲れ様。」
司書さんが奥から出てきて私に言った。
「ありがとうございます。この後よろしくお願いします。」
私も司書さんにお辞儀をしてカウンターの外に出た。橘くんが隣に歩いてくる。これは流れ的に一緒に教室に戻る感じだろうか。
「来週この本返しに来るから、そのとき別のお薦め教えてくれないかな。母親にさ、野球ばかりじゃなくて本も読め!って怒られちゃって。でも何を読んだらいいか良く分からないんだ。」
「それはもう、喜んで。完全に私の趣味になっちゃうけど。」
「ありがとう。」
嬉しそうに橘くんが言った。また話せると分かって私の心は浮き立った。
「あ、僕次の授業当たるんだった。しかもね、吉田先生。」
「ああ、あの先生答えられるまで容赦ないよね。」
「そう、そうなんだよ…。しかも僕古文が一番苦手なんだ。」
「そうなの?私は物理の方が嫌。」
「えー、物理面白いじゃん!ちゃんと答えがあるからね。古文は読んでも、読んでもさっぱり。」
「そう?物理はどう考えればいいか閃かないんだもん。古文は現代文と一緒で話を楽しめばいいのよ。たまにとんでもない内容のとかあって、そういうの読むのは面白くない?」
「あー、でもそれはあるな。現代じゃあり得ないようなことが書いてあったりしてさ。絶対盛ってるじゃん!って思う。」
「そうそう。」
橘くんとこんなに普通に話せているのが嬉しかった。顔ももう火照ってはいない。こういう他愛もないことを話しているなんて、本当の友達みたい。
そうこうしているうちに教室についた。
「僕はC組なんだ。」
私のクラス、A組の前で立ち止まって橘くんが言った。
「それじゃ、また。」
橘くんが手を振って、私も振り返しながら教室に入った。嬉しい。もう関わることなんて一切ないと思っていたのに、また、なんて。
「みーたーぞー!」
愛莉が駆け寄って来て言った。
「ほーんと、いつの間に仲良くなったの?」
私はどっちつかずに微笑んだ。私だって現実かどうか判断しかねているのに、人に説明なんて出来るわけない。
「橘が話しかけたんでしょ。花蓮が男子に話しかけるわけないもんね。」
「失礼ね。」
私は言ってわざと不貞腐れた顔をした。
「でもそうでしょ?」
愛莉が私の顔を覗き込む。
「まあ、ね…。」
「やっぱり!ふうん、橘ってこういう子がタイプなんだ。見る目あるじゃん。」
「だから、橘くんに失礼よ。彼は、本当に優しいだけで…。」
そう、本当に優しい人なのだ。そしてそんな彼とお友達になれた私は本当にラッキー。
なんだかブレーンからデートに誘われたときの、アンディになった気分だった。
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