Ⅱ.【冥王と一目惚れ】

*****


「…で、結局どうしたんです?」


そう問いかけてくる部下のヒュプノスに、ハデスは溜め息まじりに答えた。


「…無論、断ったさ。」


「そうだとは思いましたけど」


ここは冥界。地上の光がほとんど届かず、陰鬱いんうつな空気に満たされたここが、ハデスの治める領域である。


「でモ残念デスねェ、ハデス様が結婚シてクレたら、コの陰気な冥界モちょっとは華やぐと思ったんデスけど…」


そう慇懃無礼いんぎんぶれいな態度で告げるのは“死”を司る神のタナトス。彼の言葉に“冥府の渡し守”カロンも同意する。


「そうそう!ハデス様が結婚してくれなきゃ、部下であるおれ達もいつまで経っても結婚できねぇよなァ~」


「…お前たち、相手もいないくせによくそういうこと言えるな」


ハデスの傍らに立った“眠り”の神ヒュプノスがばっさりと言い捨て、兄弟たちを黙らせた。タナトスとカロンは少しばつが悪そうな表情を浮かべてそそくさと自分の持ち場に戻っていく。二人の背中を見送るヒュプノスだったが、今度は少し心配そうな顔であるじへと向き直った。


「…でも、あいつらの言い分はともかくとして、オレもハデス様は結婚なさるべきだと思いますよ?大体、昨今では地上の人間の数が一気に増えて、それに伴う死者の数の増加で正直冥界ココは手一杯じゃないっすか。今のように、来た者から順に一人ずつ話を聞いてから、住まわせる場所を決めるってゆーのも効率悪くてあまり得策じゃないっすね…。オレ達もそれぞれの“役割”があるんで、ハデス様の裁判を手伝えないし…、せめてあと一人、常にハデス様をサポートできるような人物がいれば…」


「…もういい。お前たちの言いたいことはわかった。人員のことは検討する。しばらくひとりにしてくれないか」


主のその言葉を受けてヒュプノスが立ち去ろうとしたところへ、先程自分の持ち場に行ったはずのタナトスが慌てた様子で戻ってきた。そして、ドタバタと落ち着きなくハデスに報告する。


「ハデス様っ、ハデス様大変デスよっ!」


「いったい何だ、騒々しい」


「女の子っ!地上と冥界の境目の、『大地の裂け目』のトコロに女の子が来てるんデスよ!多分あのコ、デメテル様の娘のコレーです!地上で何度か見掛けたんで、間違いありマせん」


「…コレー…だと…?」


何故こんなタイミングで、よりによってあの子がこんなところまでやってくるのか…と頭を抱えるハデスの隣でヒュプノスが呟く。


「コレーって…ハデス様がお見合い相手に薦められたコっすよね?しっかし、不用心ですねぇ…。この辺り日が暮れてくるとケンタウロスもでるし、女の子が一人きりなんてめっちゃ危ないと思いますけど…?」


意味ありげなヒュプノスの視線を受け、ハデスは深々と溜め息をつくと腰かけていた玉座から立ち上がった。


「…あそこは一応冥界の領域だ。何かあってこちらの責任を問われてはかなわん。行って追い返してくる。」


ハデスは夜空の色の外套マントひるがえし、『大地の裂け目』と向かう。そんな主の背を見ながらヒュプノスはこっそりと呟いた。


「…追い返すだけならオレたちの誰かに行かせれば済むことなのになあ…。やっぱ気にはなるんすね…。」


*****


「………」


さて、不用心な姪っ子を追い返すべく、『大地の裂け目』へとわざわざ自らがおもむいたハデスだったが、目の前の少女にどう声をかけるべきか分からず、しばしの間その場に立ち尽くしていた。


いや、正確にいえば…ハデスは見蕩みとれていて、その場から一歩たりとも動けなかったのだ。今、ハデスの視線の先にいる少女はハデスの知っている幼いコレーではなかった。


風に揺れるやや茶色みがかったローズブロンドの髪、慈愛に満ちたライトグリーンの瞳、白くゆったりとした絹の衣服に包まれていながらもわかる女性らしい胸や尻の膨らみ、裾や袖口から伸びるすらりとした手足、そして楽しげに歌を口ずさむ薔薇色の唇…そのどれもがハデスの中にいつまでも残っていた幼きコレーの姿イメージを急速に塗り替えていく。しかしながらどこかあどけなさの残る表情は幼い頃の面影を少なからず残しており、目の前の美しい少女こそがあの時のコレーが成長した姿なのだとはっきりと物語っていた。


そんなコレーが花とたわむれている姿はまさに女神と形容すべき美しさだった。いや、実際にコレーは女神の一柱に違いないのだが、単にそうというわけではなく、彼女の明るく朗らかで健康的な美しさは、暗い冥府に閉じ籠るばかりだったハデスの心を一瞬でほだし、鷲掴みにした。俗にいう、一目惚れというやつだった。


「………」


「……あら?」


注がれる視線に気付き、先に声をかけたのはコレーの方だった。


「…もしかして…、ハデスおじさま?」


「……コレー…」


「やっぱり!ハデスおじさまなのね!まあ!なんてこと!まさかお会いできるなんて!ああ、いったいいつぶりかしら?」


嬉しそうに声を弾ませて駆け寄ってくるコレーを見て、ハデスは少し気まずくなり、なんとなく視線を逸らしたまま会話に応じた。


「…久し振りだな。コレー…その、元気そうでなによりだ」


「ふふ、ハデスおじさまもお変わりなく、元気そうで安心したわ」


「ところで…こんなところで一体何をしていた?ここには其方そなたが興味をもつものなど何もないだろう…」


そう問われてコレーは、「ああ…」と言って懐から何粒かの種を取り出した。


「あのね、ここは少し寂しそうだったからお花を植えようと思ったの。でも…なかなかうまくいかないの…。お花は咲くけど…すぐ枯れてしまって…」


そういいながらコレーは先程戯れていた花を指差した。見ると、先程まで美しく咲き誇っていた花が茶色くしおれかけている。悲しそうに肩を落とすコレーと枯れかけた花を交互に見て、ハデスはやれやれ…と溜め息をついた。


「この辺りは長年冥界の空気に触れているからな…生命は育ちにくい土地なんだろう…。」


そういいながらもハデスは、枯れかけた花に歩み寄り、自らの懐から瓶を取り出す。そしてその栓を抜き、中身の液体を花の根元の土にかけた。


すると、土に液体が染み込んだのとほぼ同時に萎れていた花が色づき、元の輝きを取り戻す。それを見てコレーは瞳を輝かせた。


「すごいわ!どうやったの?」


「…神酒ネクタルだ。神酒はすべての生命の源。我々神もこれのお陰で永遠に変わらぬ若さと無限の命を保っている。…この土地の土は長く冥界から漏れ出る空気を吸っていたので他の生命のもつエネルギーを急速に吸収してしまう。神酒を与えてやれば…少しはマシになるだろう…」


「じゃあ、ここに神酒を撒いて、お花を植えればいいのね!私、頑張るわ!」


俄然がぜんやる気になった様子のコレーに、ハデスはなかば呆れながら問いかける。


「…何故そこまでしてこの土地に花を植えようとする?神酒を撒いたからといってすぐに土が豊かになるわけではない。効果は一時的なものだ。花が咲き続ける土地になるには何十年…いや下手をすれば何百年とかかるだろう。花を咲かせられる土地なら他にいくらでもある…何もこんな…冥界の…、暗く淀んだ地にこだわる必要はあるまい…」


「あら、でも冥界もこの世界の一部だわ。世界中に花を咲かせることを“役割”とする私がこの土地にだけ花を咲かせない理由がある?」


「…だが、冥界は地上とは違う。地上は“生ある者の国”、冥界は“死の国”だ。生ける者の生命を吸い取り、魂を縛りつける、そんな恐ろしいところだ。そんな場所に花は似合うまい…」


「…そうかしら?私は冥界を恐ろしいところだなんて思わないけれど。」


「…何?」


「冥界は土と同じなのよ。地上で咲いていた花がその役目を終えると、虫や小さな生き物たちの力を借りて分解され、土に還る。そうしないと地上は、朽ちた花と花びらですぐにいっぱいになってしまうわ。それでは新しい花も草木も、それを食べる生き物も育たない。有限の命ある者たちがその役目を終えて最期に辿り着く安息の地、それが冥界なんじゃないかしら?」


「安息の地…」


ハデスはその言葉に驚きを隠せなかった。今まで、誰一人として冥界のことをそのように表現した者はいなかった。ハデス自身を含めて、みな冥界を寂しく暗く陰鬱で恐ろしく楽しいことなど一つもない、そんな場所として忌み嫌っていた。そこに住むハデスら冥界の神々もまた、地上や天上の者たちからまるでそれらの神々とは全く異なる者のように敬遠されるのが常であった。だから、ハデスもいつの頃からか地上と冥界はまったく別の世界と考えるようになっていた。地上で当たり前のように手に入る幸せは自分とはまったく縁のない遠い世界の出来事だと。それを裏付けるような出来事があってから、本気でそう思い、諦めていた。


―もう二度と、おのが身より大切に想える者など作るまい…


そう自分の心に打ち立てた氷のくさびがコレーの言葉の暖かさに、彼女が放つ光にいともたやすく溶けていく。


もしもハデスが理性よりもおのれの欲望に忠実な神であったのなら、この場で彼女を連れ去り、二度と冥界から出さなかったろう…だが、ハデスには己の欲望を抑える理性があった。己の勝手な振る舞いが他者に影響を与えてしまうと考える知性もあった。加えて相手からも同じように自分を想ってほしいという純朴さも持ち合わせていた。


「…ここに花を植えたいというのならば止めはしない。だが、ひとりきりでは危ない。この場所に来た時はその『大地の裂け目』に向かって私の名を呼びなさい…」

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