第13話


リュシヴィエールは知った。エクトルの、乙女ゲームで執拗に描写されたほどひどくはないけれど、よくもない、あらゆることを。


ティレルとの修行と称した肉体を魔力で改造していくような悲惨な格闘の日々、そうでもしなければ耐えられないほど爪弾きがいやだったこと、貴族でも平民でもない身分のはざまに生きる苦しみ。


そして侯爵と契約し、王立学院に向かったことを。


「あの男は姉上の容体を見もしなかったよ。それでも嫁にやると言ったらやっただろう。ずたずたに傷ついたあんたに申し訳程度の花嫁のヴェールをかけて、侯爵家の婿の称号が欲しい下種男にもののようにくれてやっただろう。俺は耐えられなかったんだ。だからいう通りにした」


息を詰め、吐き、ようやく、リュシヴィエールは言った。


「あ……の、男、殺してやる」


「どうやって? まともに歩けもしないのに」


とくすくす笑うエクトルの声は柔らかく、冷笑的でさえある。相反するものが両立した、悲しい思いをした子供だけが出せる声だ。リュシヴィエールは気づいた。彼もまたたくさんのものを諦めて――諦めて諦めて、ここまでやってきたのだ。


「お金をかき集めれば暗殺を請け負う者を雇えるはずだわ」


「いいじゃない。やってみなよ。ちなみに俺ならタダだよ」


リュシヴィエールはよほど傷ついた顔をしていたのだろうか、エクトルは気まずげに視線を逸らした。彼は彼女に優しくしたいのだ。目の前の女を傷つけたいわけじゃない。けれど結果としてそうならざるを得ないほど、二人は隔たっている。


「あなたはそんなんじゃない」


とだけ、リュシヴィエールは言った。言えた。息も絶え絶えに。


「『そんなん』だよ、俺は」


とエクトルは優しく告げる。残酷なほどに微笑みは微動だにせず、なんの動揺も見受けられない。


エクトルの中では、もうすんだことなのだ。その道を選んだことも、それに姉が嘆き悲しむだろうということも。織り込み済みの、自分で選んだ自分の人生。それが今のエクトルなのだ。


エクトルの知る地獄をリュシヴィエールは知らない。同情も共感も彼の決意への侮辱だった。


とうとう彼女は手を伸ばしてエクトルの手に重ねた。がさがさしてまだらに赤黒く、爪が変形した手を。彼が目にするたび自分の罪を思い出す手だ。


「許してね」


「許すよ」


リュシヴィエールはエクトルの顎の線が男のそれになっていることに気づいた。なめらかな線から徐々に硬くなりつつある顔は、それでも左右対称に美しく整ってそら恐ろしいほどだ。


もはや彼は子供ではなかった。奇妙な沈黙が満ちた。二人にもう少し経験があれば、それが恋愛沙汰の探り合いに似ていることに気づいただろう。


エクトルはリュシヴィエールの手を取ったまま、その崩れた手を離せないでいる。引き抜くのもおかしい気がして、彼女は黙り込む。どきどき、場違いに胸が高鳴った。彼はリュシヴィエールがどんな姿でもそうなる。


リュシヴィエールの欠損はエクトルの責任ではない。


それはお互いわかっていた。けれどもし、もし――わたくしの顔を返せとリュシヴィエールがエクトルを責め、彼がそれを受け入れていたら、ことはもっと簡単だったろう。代償に、行く場所のひとつもなくなってしまっただろうけど。


「姉上」


エクトルはリュシヴィエールの目を覗き込んだ。とろけて垂れた瞼の向こう、空の目が心許した女が男を見る色をする。


「なあに」


「――子供の頃、どうして俺が姉上について屋敷に行かなかったかわかるか? あんなに姉上が好きだったのに。一緒に行くと俺は言わなかっただろう。決して」


「そ、れは……」


リュシヴィエールは黙り込んだ。それを口にするわけにはいかなかった。


「誘われたって行かなかった。ティレルが止めるからだ。でもそのうちにどうして止められるのか自力で気づいた。自分で言うのもなんだけど、感覚は鋭いからね、俺は」


リュシヴィエールは肩を震わせた。弟であるエクトルが同じ屋敷の中にいてくれたら、と思っていた。いつだって心配していた。でもいないでくれてほっとしてもいた。


彼に死ぬほど傍にいてほしかったが、いてくれない方がよかった。具体的なことは何も思い出せず、ただ感傷が、リュシヴィエールの胸の中を荒れ狂う。もう終わったことだ。終わったこと……。


せめて彼がこう言ってくれるのを待った――だからねリュシー、俺はあんたのそういう独善的なところが嫌いなんだよ。


リュシヴィエールを嫌うくらいで済んでくれれば、それが一番よかった。


「聞こえていないとでも思ったか?」


エクトルは吐き捨てるような声で言う――リュシヴィエールは死刑宣告を受けた、気がする。


「あんな小さな屋敷で、古いばかりの隙間風の入る部屋から、なんで聞こえてないと思ったの。北の塔はすぐ裏手だったのに」


間近にある彼の身体がカッと熱くなったのがわかった。背筋がぞわっとする匂いがして、リュシヴィエールにはそれが激怒した男の体臭だとはわからない。手を取られ、逃げ場はない。それでもエクトルの顔が美しいから、銀の髪がさらさら揺れるから、誤魔化されそうになってしまう。


エクトルは一切何も気づいていないのだと、信じたい。


「悲鳴も、逃げる足音も。扉に閂をかけて立てこもっていたのも。聞こえていたよ。俺が出してたのとは種類が違う……アハ。全部知ってるよ、リュシー。俺は全部わかってる」


青い目のふちに銀の輪が、再び、これ以上なくクッキリと浮かび上がる。冴え冴えとした美貌はむしろ澄み渡るように白く血の気が失せて、時が止まればエクトルはそのまま彫像になるほど美しい。この世のものではないほどに。


途端、リュシヴィエールの中で記憶の蓋が空いた。クロワ侯爵家が、あれほどまばゆかった失われた屋敷の思い出が、ぱっと切り替わる。


虚飾が剝がれていく。


豪奢なシャンデリアには埃が積もり、使わない部屋のものからクリスタルごと売られていった。銀食器とティーセット、飾り用の絵皿はどんどん消えた。百年前のよく手入れされたテーブルと椅子、キャビネットが姿を消した。壁に掛けられた水魔法盤と絵画が売られたあと、壁紙にはそのあとがいつまでも残った。


母の残していった、また祖母の宝石類。図書室の図鑑や詩人直筆の貴重な詩集たち。


給料に不満を持つ使用人からやめていったこと。質の悪い使用人を雇うしかなくなり、その侍女はリュシヴィエールの髪をひどく引っ張りながら櫛を入れた。


記憶の化粧に覆われて、霞んだ目で見た荘厳な屋敷。慕わしく愛していたそこが、ただの貧乏貴族のおんぼろ屋敷に過ぎなくなっていく。


リュシヴィエールは呆然とした。視界にはただエクトルの青い目がある。自分のそれより色が濃くて、海のようだ。動かそうにも指すら上がらない現状に、内心困り果て、けれど傷だらけで焼けたあとの身体は少しも反応しない。


エクトルはリュシヴィエールの肩に腕を回し、引き寄せた。優しい父親か――恋人のように馴れ馴れしく。


リュシヴィエールの背骨は少し震えたけれど、それだけだ。時間が過ぎるのを、待つ。時間が過ぎたら終わる。なにもかもそう。


「使用人が貴族の身体に手をかけたら重罪だよね。でも姉上は奴らに抵抗しなかった。どうして?」


「お母様が……」


「あのババア。あいつを庇ったの? 何故」


リュシヴィエールは子供のような口調で訴えた。エクトルのシャツの胸元を無意識に掴んで、かつて甘えたくても甘えられなかった子供の仕草で。


「だってみんながお母様を侮辱するから、そんなこと言わないでと言ったの。それだけよ。わたくしの周りで侯爵夫人の噂話をすること自体を禁じたの。それで、――それでも」


「クロワ侯爵家が落ちぶれたのはリュシーのせいじゃないよ」


エクトルの声は毒のようにねっとりと甘かった。彼の声は低く淡々と落ち着いていて、胸の奥でゴロゴロ音が反響する。


彼の腕が優しくリュシヴィエールを囲んだ。すでに抱き寄せられていると言っていい姿勢、誰かに見られたら言い訳のしようもない。


腕の輪っかに捉えられ、エクトルの唇がリュシヴィエールのひしゃげた耳に触れた。そこに耳朶はもうなくて、ぽっかりと穴が開くばかり。頻繁に起こる耳鳴りの原因だった。


「でもクロワ侯爵の面目を潰すのには貢献したね。娘が使用人に蔑ろにされ、管財人や地主に財産を奪われ、右も左もわからないままおろおろしているのを放っておくなんて、ロクな父親じゃない。あいつの悪口を色んな階層に振りまいてくれたんだから、リュシーは俺の役に立ってくれた」


リュシヴィエールはエクトルを振り仰ぐ。彼は爛れた顔面にひるむ様子もなければ気持ち悪がる様子さえない。かつてとまったく同じ反応であることが不思議な気さえした。


「――求婚者たちから金をもらった使用人が、夜の屋敷に成金商人を招き入れた。あんたは裸足で逃げ出して、使われない小部屋で一晩じゅう震えていた」


リュシヴィエールは――反射的に行動してしまった。手近なぬくもり、エクトルの首に腕を回して抱き着いたのである。縋りつきたかったのだ。なんでもいいから、信頼できるぬくもりに。そしてその人はすぐそこいた。


一番知られたくなかったことだった。一番言われたくなかったことだった。隠し通せたと思っていた。全部間違いだった? どうして。いつから?


「リュシーが一人で耐えている間、俺は助けにいけなかった。罪滅ぼしがしたい」


「違……」


エクトルのせいではない。ティレルとの訓練があったのだろうし――ああ、今となっては得心がいった。暗殺、のために出払っていたのかもしれない。


エクトルは両手でリュシヴィエールの両方の二の腕を掴み、にっこりした。完成した美貌の凄みを把握した顔でそうされると、それはいっそそら恐ろしいほどに美しい。


「そいつは俺が殺しておいたから、安心して。二度と近づいてきやしないよ。もう土の下だから!」


リュシヴィエールはぽろぽろ泣き出した。涙は不規則に顎まで滴り落ちる。顔が、デコボコしているものだから。


エクトルのまっすぐで長方形の爪の乗った指が、涙をぬぐった。


「今は、何もかも足りなさすぎる、姉上。リュシー。あなたを守るのには力も金も時間もなさすぎるから、俺がきちんとした大人になるまで待っていてほしい」


エクトルはリュシヴィエールの頭を離した。


「ね?」


笑いかけられる。リュシヴィエールはくらくらした。エクトルの匂い、エクトルの手、エクトルの胸、エクトルのまなざし。


――リュシヴィエールはエクトルを愛しているので、諭されれば言いなりになるしかない。


エクトルが屋敷を出て行ったのはその夜のうちだったが、リュシヴィエールがようやく動けたのは翌日の朝になってからだった。アンナは夜の間じゅう何度もうろうろと心配げに応接間を出入りしては、暖炉に薪を足し、肩掛けや毛布をかけてくれ、女主人を気遣った。


玄関の両脇の飾り窓から朝日が差し込んでリュシヴィエールはゆっくりと動き出した。緊張や凍結がとろけ、身体じゅうに分散されていく。もういないエクトルの髪の香りが自分の頬に残っているのを撫でた。


身体はまだ震えていた。背筋はまだ緊張していた。エクトルの目を思い出すたびに、身体じゅうの肉が知らない感触に疼いた。


エクトルが永遠にリュシヴィエールの弟に戻らないことを思い知った。



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