第12話


使っていなかった部屋を開けさせ、質素だが頑丈な寝台に毛布を敷いて眠りについたのが昨日。翌朝には台所番の女がやってきて、


「閉じ込めなすった人たちに、食事はどうするね、お嬢様?」


慇懃に訪ねる。


「一日一回、パンと水をやって」


と答える。アンナも門番の老爺も台所女も厩番も、皆リュシヴィエールに従っているわけではない。いざというとき責任を取れる相手を探しただけである。


アルトゥステア歴七百十五年、三月十五日。春の気配が濃い、風の冷たい日だった。【暁の森】がざわめいている感じがした。


リュシヴィエールが目覚めると、屋敷の中は奇妙に静かだった。使っていなかった部屋はまだ、人間に馴染んでいない気がする。寝台の上に起き上がったリュシヴィエールは、部屋の隅でアンナが小さく膝を抱えているのを見つけた。


「まあ、どうしたの」


「おょ……っ、おはっ、おはようございます、お姫様」


「おはよう」


と、戸惑いながらも返事をする。アンナは着替えを手伝ってくれ、暖炉の火を温かくかき立て、お湯を沸かしてくれた。そのまま白湯を飲む。しん、と静まり返った屋敷。母の悲鳴もサンドラの泣き声も聞こえない。


「おまえはここにいなさい」


リュシヴィエールは一番奥の部屋へ向かった。そこが一番、しん、が強い気がしたから。


窓のない広い部屋の扉は開いていた。内側に仕込まれたからくり、分厚い壁、鎖と錠で閉ざされた部屋だったのに、すべての封鎖がなんなく切られ破壊され突破されていた。


寝台から絨毯にかけてが血の海だった。


エクトルは母とサンドラの死体をシーツにくるんでいる最中だった。人の形をしたシーツのかたまりは、寝ているときの彼女らよりもいっそう生々しい。だらりとシーツの間から垂れ下がる、二度と力が入ることのない手と足の落とす影……。


「おかえり、エクトル」


ほとんど反射的にリュシヴィエールは言う。


「ただいま、姉上。――だめじゃないか」


とエクトルは応えて微笑んだ。彼は十四歳。まだ法律的に成人もしていない。あどけない美貌にはごく普通の、ありきたりな感情があった。久しぶりに家族に会えて嬉しい、とだけ伝えてくる表情。


反対に青い目には銀のふちが浮かびあがり、冬の湖面のように冷たい。エクトルの怒りより強い失望と悲しみがリュシヴィエールを焼いた。身体じゅうの肌が、火傷あとが疼くよう。


「どうして俺に教えてくれなかったの? こういうのが乗り込んできてるって」


こん、とエクトルが見慣れないブーツのつま先で小さい方の死体を小突いた。


「やめなさい!」


反射的にリュシヴィエールは叫んだ。


「子供を! あなたの妹を!――死者に敬意を払いなさい。それは、その線を越えては、ならないわ」


エクトルはふふっと吹き出し、くすくすと少女のように笑い出す。声がサンドラに似ている気がした。ぐらぐらと地面が揺れていた。彼女らの死体に取り縋るべきだろうか? しかし冷え切った身体は思うように腕の一本も動いてくれない。


前からなんとなく、わかっていた。違和感があったのに、見て見ぬふりを続けてきた。


リュシヴィエールは――しくじったのだ。どうして信頼していたのだろう? あんな家の連中のことを。密偵なんかのことを。


リュシヴィエールは糸が切れた人形のようにずるずるとその場に座り込む。寝間着の裾に血がしみて、膝にぴちゃりと濡れた感覚がする。鉄臭い匂いがとたんに鼻に届き、血のむわりとした温度に目まで潤んだ。


「うぅ」


泣き声が口の端から洩れる。リュシヴィエールはぽろぽろと涙をこぼし、嫌がって首を横に振る。それでも現実はひとつも変わらないし、終わらない。


エクトルの腕が伸びてきて、肘を掴み彼女を立ち上がらせた。大きく強い手だった。すでに彼は姉より背が高く、肩幅も身体の厚みも比べるまでもない。戦うことを知っている硬い皮膚の肉刺の感触に、ひたひたと絶望が湧いてくる。


「ティレル、頼めるか」


「へいへい、頼まれました。それはそうと、一度手を付けたら最後まで全部やるのが俺らの流儀ですよ、坊ちゃん」


「わかってる。こっちは俺がやる」


リュシヴィエールは背後に現れた体温を振り返った。ティレルは記憶にある顔より年老いて、しかし人好きのするこれといって特徴のない顔かたちはそのままだった。


「何を言っているの?」


「エクトルは自分の仕事の始末をつけますから。お嬢さんはこちらで、ああ、歩けますか?――おい、そこの女中。反対側支えてくれ」


小動物のように飛び出してきたアンナが左を、ティレルが右を支えリュシヴィエールを応接間に連れ込んだ。ソファに座らされ、粗末だが頑丈な天井の梁を眺めているうちにお茶が出てくる。一番奥の部屋の物音を、リュシヴィエールは必死に聞かないように努めた。


それを聞いたら叫び出してしまう気がした。


お茶を啜るとお腹が温かくなり、ようやく少し、落ち着いた。胸に手を当てるまでもなく、心臓の鼓動もゆるやかになっている。こんな状況でも落ち着いてしまえる自分が、ひどく申し訳なかった。


リュシヴィエールは壁際に立ったティレルに自分の前のソファを示した。身分差から言えば二人が同じ席で対峙するなどあってはならないことだったが、そうも言っていられない。


リュシヴィエールははっきりさせたかったのだ、すべてを。目を逸らしてきたことの結果を。


「――あの子が人殺しを覚えたのは、いつからだったの」


とカップの中を見つめながら聞いた。アンナが震えながらも健気にティレルの方にソーマ茶を出した。彼はそれに口を付けた。


「もうずっと小せえ頃からですよ。むっつかななつか。短剣を持てるようになってすぐ訓練をはじめましたから」


「何故? お父様がそう命じたの」


「うんにゃ。あいつ自身がそうしたいと希望したんです。俺たちの特訓でも覗き見したんでしょう。最初はちょっとしたお遊びの延長のはずでした」


リュシヴィエールは膝の上で組み合わせた手を強く握りしめた。痛みが現実を直視させてくれた。


まさか――ティレルが原作通りエクトルに暗殺術を仕込んでいるとは、思わなかった。


だって原作のティレルは、エクトルのことを馬鹿にしていた。それこそ初対面のとき、赤ん坊を押し付けられ困惑していたときの態度のまま、彼に接していたのだ。エクトルはだから、あまりに激しい訓練を施され、それはきっとティレルの悪意だった。だから……。


「どうして、それを止めなかったの。どうしてそんなことを彼にしたのよ……」


変わったのだから、大丈夫だと思っていた。リュシヴィエールは勝手に一人でそう納得していた。


「あなたはあの子を愛していたじゃないの」


「――愛!」


と、ティレルは大げさに目を見開き驚いてみせた。まるで初めてその単語を聞いた、というように。


リュシヴィエールは太腿ががくがくして、とても足を閉じていられない。がっくり項垂れ、だらんと身体じゅうから力が抜ける。彼女はかろうじて体面を保てるギリギリの角度で上半身を起こし、それでもスカートの形はずたずたに崩れた。


「わたくしはあなたを信頼していたわ。エクトルはあなたが育てたようなものじゃないの。そんなことを……どうしてそんなことが、できたの」


ティレルは頭をかいた。小さくハハ、と喘ぐように笑う。彼が心底困り果てているのは、リュシヴィエールに手を焼いているのは、それだけでもよくわかった。人生の苦しみを知った苦い低い声が、なめらかに嚙んで含めるように、


「お嬢さん……戦う力がないってことは、辛いもんですよ」


彼はごく平凡な目を瞬かせた。野生動物に忍び寄る猟師じみてゆっくりと目をリュシヴィエールに合わせると、


「エクトルが普通に盾持ちとして平民仲間とつるんでたと、本当にそう思っていましたか?」


リュシヴィエールの時が止まった。


「あいつは集団の中で常に最下層の立場にいました。いじめられてるときもありましたよ。やり返してましたがね。どのような状況であれ、跳ね返すには力と頭の切れが必要です。どちらかだけではいけない。あいつは頭が切れた。でも、力がなければされるがままだった。あいつは自分で自分を守ったんだ。そうしようと決意して、身近にある使えるものを使った、例えば俺とかね。たいしたもんですよ」


「だからといって……、人を殺す技術なんて、教える必要なかったわ。体の動かし方や、躱し方、そう、殴られるのを躱す方法だけ教えればよかったじゃないの」


ティレルは肩をすくめた。目の前の女には何を言っても通じないのだと、わかり切った態度だった。


「そんなんじゃ身を守り切れないんですよ。そういう場所でした」


「どうしてわたくしを呼ばなかったの。言ってくれたらそこに行ったわ。わたくしが、侯爵の娘であるわたくしが庇えば平民の子供なんて、」


「そして子供の輪に入れなくなり、騎士に遠巻きにされどこでなんの仕事もできなくなる。そういう結末をお望みでしたか? 貴族の館で仕事も使命もない庶子、しかも父親じゃなく母親の血筋の庶子がどんな目に遭ったと思います? お嬢さん、あなた本当に想像できるんですか?」


リュシヴィエールは何も言えなかった。


集団から弾き出される苦しみは前世で知った。肉体の痛みとはどういうものなのかを今世で思い知らされた。


けれどエクトルの、彼だけの苦しみも痛みも何も知らない。リュシヴィエールは彼を守れていると思っていた。表面上の振る舞いや、愛していると告げてくる青の目だけを見て。その内心に何があるのか、考えもしなかった――。


膝の上で頭を抱えてしまったリュシヴィエールの頭巾を見つめ、ティレルは目線を玄関に戻した。どこから出ていったかはともかく、帰りは堂々と表からくるのだからエクトルは肝が据わっている。


彼は冴え冴えとした目でリュシヴィエールを見つめた。慈愛と冷徹さが綯い交ぜになった目だった。


「姉上。ティレル、お前何言った?」


「なんでもないわ。――エル、お茶のお替りを頂戴」


エクトルは可憐な少女に似た美貌で小首を傾げ、ポットを片手に台所へ立ち去った。


ティレルはリュシヴィエールに一礼し、ゆうゆうと応接間を立ち去る、間際、


「ティレル。……わたくしに誠実にしてくれて、ありがとう」


と囁き声でリュシヴィエールは告げた。


ティレルが振り返ると、リュシヴィエールはソファの背もたれごしにまっすぐに彼を見ていた。身体に力が戻っている。無惨に焼け崩れた容貌で彼女は背中を伸ばし、髪の毛が失われ不格好な頭巾に覆われた頭はすうっと首の延長にある。足は適度に崩され、質素なスカートの裾は薔薇の花びらのように膨らむ。


「お嬢さんに失礼な口をきいて、申し訳ありませんでしたよ。処罰されますかね?」


リュシヴィエールは小さく笑った。


「しないわ。お下がり」


「――まったくだ。俺の姉上なのに、あいつ」


とエクトルはポットを置きながら口を尖らせた。少年の仕草、信頼する大人へ向ける顔だった。ソーマ茶の香りがふわりと机の上に満ちる。


二人きり、応接間に残されリュシヴィエールはわけもなく緊張した。泣きたい気分は去ったが、さて、エクトルにどんな態度を示せばいいのだろう?――母と異父妹を返せと掴みかかる? どうして。彼もまた母の子供であったのに。


結局のところリュシヴィエールはまばたきをして涙を追い払い、


「親を殺した子供は地獄に堕ちるものよ。どうしてくれるの」


「どうって?」


エクトルは視線を彷徨わせつつ、リュシヴィエールの隣にどさりと腰かけた。体重でリュシヴィエールは少し、跳ねた。お茶を淹れてやり、カップを手渡すとエクトルは嬉しそうにはにかんだが、すぐに仏頂面をつくって口をへの字にする。


「わたくしはおまえのいくところにいきますからね。地獄まで一緒よ」


カップに口をつけたまま、エクトルの動きがぴたりと止まった。


「なあに? 思いもよらなかった?」


「そんなはずないだろ。わかってたよ。姉上ならそう言うだろうってのは」


「エクトル、全部話して。最初からよ。全部。誰をどんなふうに殺して、ここまで来たのかを」


銀の髪は肩まで伸びていた。括りもしないそれはさらさらと顔の周りを覆い、ますますエクトルを少女めかせる。青い目に銀のふちは浮かばず、彼が落ち着いていることはわかるのに、リュシヴィエールには目の前にぽっかりと口を開けた崖があるように思われた。


「……ちょっとした話だよ?」


そうして弟は口を開く。苦い笑みの裏側に広がるものを、リュシヴィエールはまだ知らない。



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