第2話


さて、いくら原作が乙女ゲームだったからといって、ここはただの現実である。


たっぷり泣いてわめいた記憶などどこかへやってしまったのか、あれから母であるクロワ侯爵夫人はエクトルを置いてさっさと王宮に戻ってしまった。もう戻ってこないだろうというのは、リュシヴィエールに前世の記憶がなくても使用人たちの態度でなんとなく察せた。


父であるクロワ侯爵はリュシヴィエールが床に転げて抗議したことなど意に介さず、エクトルを北の塔に入れてしまった。二百年も前に建てられたおんぼろの、かろうじて雨漏りは修理されたけれど日当たりの悪いじめじめした、ぜったい赤ん坊の環境としてはよろしくない場所へ。使われてないけれど地下牢まであるのだ。リュシヴィエールとしては許せないことだった。


そんなわけだったので、リュシヴィエールは強行突破を図ることにした。つまり家庭教師やメイドや侍女が口をすっぱくして遠ざけようとする北の塔に、こっそりと足繫く通っているのだった。


「エルちゃーん、こっちおいでぇー」


と、パンパン手を叩く姉に弟はきゃらきゃら笑いながらはいはいして近寄る。その下に敷かれた絨毯も窓のカーテンも壁のタペストリーも、リュシヴィエールが自分の部屋で使ったあとのをひそかに侍従に運ばせたものだった。代金として装飾品やお小遣いの一部をくれてやり、他言無用を誓わせた。


父がどう思っているのかはわからない。元々あまり屋敷に寄りつかない人ではあったけれど、ひどく存在感が希薄になってしまった。一応毎日寝に帰ってきてはいるらしいけれど、廊下ですれ違っても、かつてのようにリュシヴィエールに元気かと笑ってくれることもない。……母のしでかしたことに、心を閉ざしてしまったようだった。


リュシヴィエールとしては父に優しくしてあげたいが、父に会いに行ってもすげなく追い返されるだけ。リュシヴィエールの顔は、母にそっくりである。今はまだ、顔を合わせるべきではないのかもしれない。


(わたくしが大人の記憶を持っていてよかった。心身ともに子供だったら、互いに耐えられなかったでしょう)


淑女としての教育が終われば自由時間だ。リュシヴィエールはそのほとんどを赤ん坊の相手をして過ごす。おしめも替えるしガラス瓶からミルクも飲ませる。すっかり母親気取りの様子は、ある人が見れば失笑したかもしれないし、別の人は痛ましげに眉をひそめたかもしれない。何かの代替を得ようとして必死な子供の姿、そのものだったから。


「おう、お嬢さん。今日も来てたんですか」


キイ、と音を立てて部屋の扉が開き、ティレル・コガンが笑った。


偽名なのかもわからないほど特徴のない名前と、見た目。中肉中背に誰の印象にも残らないような平凡な顔のティレルは、北の塔周辺の庭の管理を任されている庭師だ――というのは名目で、実は多数の部下を束ね侯爵に情報を提供する密偵頭である。


他の密偵とティレルが違うのは、彼が実際に何人も人を殺したことのある暗殺者だということだけだった。


リュシヴィエールはとびっきりの笑顔をティレルに投げかけた。


「うん。エルちゃんね、ときどきたっちするのよ。もうすぐ歩き出すかしら?」


「ははあ。ま、そろそろじゃありませんかね」


「なんでティレルがそこをわかってないのよ。わたくしはこられるのは一日数時間しかなくて、とくに夜はおまえが添い寝してあげるしかないんだもの、おまえが一番この子のことをわかっててくれなきゃ困るじゃありませんか」


まるきり乳母に文句をつける若奥様である。


降参降参、とティレルは両手を挙げた。


「悪ぅございました。ご心配になるようなことはございませんよって。――といっても俺ぁ妻子がおりませんからねえ。たまたま弟妹が多うございましたんで、子供に慣れてて、旦那様からお世話を命じられただけですんで」


「信頼されているのね。いいことよ」


と言うだけにとどめた。本当は信頼どころか、ティレルはクロワ侯爵家になくてはならない人材である。密偵を束ねる彼がいなければ、クロワ家はたちまちのうち政治競争に負けてしまうだろう。政治の戦において、情報は黄金より価値がある。


リュシヴィエールが抱き寄せると、エクトルは大喜びで姉の髪の毛で遊び始めた。小さな手が金の髪を掴み、引っ張る。小さな口からよだれが垂れるのを拭いてやる。


「エルちゃん、痛いからやめなさい。――そうだ、今日は絵本を持ってきてたんだった。はいこれ。ティレル、字は読める?」


「はいぃ? え、まあ読めますが」


「今日から夜寝る前にこれを読み聞かせてあげてね。字を覚えるのにいいのよ」


「は、はあ。なんですって?」


彼は薄っぺらい絵本を矯めつ眇めつしたあと、


「お貴族様はこんなもんを使うんですねえ……」


と感心する。リュシヴィエールは胸を張った。


「そうなのよ。わたくしも使っていたものなの。――本当はエルのために新しく買えないか、予算は組まれていないか家令に聞いてみたの。でも、ないのですって。そんな余裕は。失礼しちゃうわ。クロワ家は名門よ。領地も広い。どうして子供に使う程度のお金もないと申すのでしょう」


リュシヴィエールは悔しさのあまり爪を噛んだ。


「忌々しいったら。わたくしが成人して、自分で管理できる財産ができたら、エルの欲しがるものはなんでも買ってあげるつもりよ」


ティレルはちょっと面白そうに眉をあげる。やれやれ、と思っているのが子供心に感じ取れるほどだった。お嬢さんが物珍しいおもちゃに興奮していなさる、いつまでこの関心ももつことやら、と。


リュシヴィエールは作り物めいた笑みでにっこりした。ティレルには悪いが、これからも当面お邪魔させてもらうつもりだった。


「わたくし、なんとかお父様にお願いするつもりなの。この子をお屋敷に入れてあげてくださいって。お父様はエクトルを侯爵家の一員として戸籍登録してくださったんですって。まだ少しは希望があると思っていいと思わない?」


「いったいどこでそんなこと知ったんですか、お嬢さん?」


原作ゲームで見たもの。と思いつつ胸を張った。


「侍女たちの噂話を盗み聞きしたのよ!」


「そりゃあ、怖いお嬢さんだ」


と彼は苦笑するのだった。


そうして矢のように月日は過ぎていった。子育ては毎日が戦場、と呟いた前世の姉の気持ちがよくわかった。それでもリュシヴィエールがエクトルに関わったのは休日や授業の合間だけで、そのほかの時間はティレルやその密偵仲間らしい使用人姿の誰かしらが見ていてくれたのだから、頭が下がる思いである。


お茶会デビューも社交界デビューも果たした。王宮から侍女の誘いが来たこともあるが、クロワ領キャメリアを離れようなんて気は起きなかった。ただエクトルの傍にいたかった。


父は一年の大半を愛人の家で過ごす。母も王都で大切な恋人と、もしかしたら新しい子供たちと仲良くしているようだった。


そんな父母の現状を見ても、リュシヴィエールの胸に悲しみは訪れなかった。そんなものが入る隙間がないくらいエクトルが可愛かったのもあるし、八歳のあのときの諦めが――大人だった頃の記憶が、すっぱりと全部に軽蔑という名の別れを告げてくれていたのもある。クロワ侯爵夫妻よりも前世の独身女性の方が、よほど仕事や大人としての責任感があったとリュシヴィエールは思う。


仕方ないことなのかもしれない。父母はどちらも十代で親に結婚させられ、愛どころか恋も知らないままリュシヴィエールを産んだのだ。ようやく自由になったように感じているのだろう彼らを、まあ普通その幸せは子供を(特に男の子を)産んで成人するまで育ててから味わうものだよ、とは思うものの、憎んでいると言えば嘘になる。


もうなんの期待もしていない。それだけ。


十二年が過ぎ、リュシヴィエールは二十歳に、エクトルは十二歳になった。


アルトゥステア歴七百十二年の、五月十二日。さわやかな風の吹く午後の中庭でリュシヴィエールは憂鬱なため息をついた。いやな客を出迎えねばならなかったのだ。


中庭にしつらえられたテーブルセットは貴族令嬢たちのお茶会のときそのままだったが、出されている食器や花瓶の質で使用人たちがお嬢様の気持ちを察しているのが見てとれた。


いやな客、というのは求婚者だった。どこかの子爵家の放蕩息子。本来ならリュシヴィエールに求婚できる立場の青年ではない。彼と生家に借金があることも、領地経営が破綻し農地が抵当に入っていることも貴族社会では公然の秘密だ。普通なら父親が断るべき相手だった。しかしながらリュシヴィエールには、守ってくれるべき親がいない。


乙女ゲームに限らず恋愛ゲームって都合よく親がいないことが多いよね……と遠い目をして、とはいえ実際そうなのだから仕方がない。そして現状、メリットよりこういうデメリットの方が多いのだった。


「こんにちは、リュシヴィエール嬢! 今日もあなたは水晶の珠のごとくお美しい」


と、第一声がそれである。きらきらしい装いをしているが、上着はどう見ても父親のお下がりらしい古めかしさだし、シャツの前面が絹で背面が安い綿である。頭も整髪料をつけすぎててらてらしている。のっぺりしたほの白い顔には、こちらを見下しすぎて子供扱いした笑顔が張り付いていた。


「私の恋文は読んでくださいましたか? ぜひともお返事をいただきたく、居ても立っても居られず参上したのです」


「左様ですのね……」


と、気のない素振りを見せ、リュシヴィエールは扇で顔の下半分を覆った。社交界であれば察した男はこれだけで離れるところだ。放蕩息子もそれはわかって、あえて無視をしてまま天気の話など始めた。すでに退屈だ。顔見知りの貴婦人からの紹介なので、断り切れないのを知っているのだ。


「最近、雨が多かったですねえ。令嬢はどのようにお過ごしでしたか?」


「特に何も」


「ははあ、雨音を聞きながら家でくつろぐのも良い時がありますもんねえ」


「左様ですわね」


自然、会話もこんな調子である。


リュシヴィエールは扇で表情を読ませず、足を組み、視線を外し、言外に早く帰れと告げているのに、だ。


それでも彼はまだましな方だった。何せ無理やり迫ってこないのだ。


家に親がいないという目に見えた欠点のせいで、リュシヴィエールには変な縁談ばかりくる。いわく、すでに内縁の家族がある成り上がりの商人の妻だの、没落した伯爵家の七十の当主の後妻だの。いつぞや無理に手をとられ、手首に痣が付くほど引っ張られたときは思わず悲鳴を上げてしまった。それからだ、あの子が困ったことになる前に飛んでくるようになったのは。


「――姉上ぇ! 見てください、こんな綺麗にピン留めができました! 見てください、これ!」


と、元気な、元気すぎるくらいの元気を装った声がした。


男女は揃って屋敷の方を振り返った。丁寧に手入れされたバラの花壇を猟犬のように飛び越え、エクトルは俊敏にテーブルに駆け寄ってくる。


十二歳のエクトルはすんなりした少年に育っていた。この年頃にしては体格がよく、十五歳にも見える。手足は伸びやかでしなやかだ。短い銀髪がさらさら揺れ、日光を反射して冠状にきらめいた。


放蕩息子は身構えたが、すぐにエクトルの顔が少女じみた美貌であることに気づき、侮った表情を浮かべた。


(馬鹿男)


リュシヴィエールは音を立てずにソーマ茶を啜った。ほっと胸を撫でおろしている自分がいた。十二歳の弟にそんなふうに頼り切るなど、父母を軽蔑できない。


「姉上、これ……あれ、お客様でしたか。失礼いたしました。リュシヴィエールの弟で、エクトル・ド・クロワと申します」


「あ、ああ。よろしく」


「姉上、ホラ。どの蝶々かわかります?」


と手渡されたのは、蝶々の標本である。きちんと乾燥され、ガラスの封がされた標本ケースに入れられている。虫食いや湿気崩れのひとつもない、見事なものだった。


「ロクス蝶ね。よく捕まえたわね」


「みんなで追い回したんです。姉上に見せたくてみんな頑張ったんですよ」


「ふふ。ありがとう。頑張ってくれたのね。嬉しいわ」


父がいなくなっても屋敷には警護のため残ってくれた少数の騎士たちがいた。エクトルは最近、その鍛錬に混じったり、騎士見習いである盾持ちの少年たちと交流を深めている。


「あー、エヘンエヘン」


と放蕩息子は咳払いして、


「弟御は姉上思いなのですな。すごいことです。うちの弟にも見習ってほしい……」


と、再び長い話をはじめた。姉弟は揃って同じ青い目でその話を拝聴し、男が話し終わると再びきょうだいだけに通じる会話をし始めた。使用人の誰が誰とああした、こうしたといったいっそ下世話な話を。


男が鼻白むのはせいせいした。できるだけこの無礼な小娘と小僧の話を広めてほしいものだ。その方が困りごとが少なくてすむ。


苛立った男が乱暴に席を立ったのは十分もしないうちである。最後に、


「人が優しくしていれば付け上がりおって。そんなんでは結婚できんぞ!」


と叫んでいったのはいっそ滑稽である。


リュシヴィエールは扇の裏でその背中に舌を出してやった。片手ではしっかりとエクトルの手を掴み、彼がつまらない喧嘩を買わないように留めていた。


「……やっと行った。遅くなってごめん、姉上」


「いいえ。来てくれてありがとう。助かったわ」


エクトルは拳を握りしめて俯く。リュシヴィエールは遠慮なくその銀髪を撫でてやった。そうして悔しさを噛み締めた顔をしていても、エクトルの顔はどこか女性的で――どことなく母に似ていた。スカートを履かせたら女の子に見えるだろう。ようやく筋肉がついてきたところだけれど、まだ硬い線には程遠い。本人はそれを嫌って銀髪を短く切り、わざとむっつりした表情を作って女の子らしい雰囲気を出さないようにしているが。


屋敷からメイドたちがぞろぞろ出てきて、てきぱきとテーブルを片付けた。


当主に新調の許可を取りようがないので屋敷のものは徐々に古びていっていたが、それでも使用人の給料などは銀行の担当者がきちんと処理してくれているし、父に入る領地からの収入から姉には予算が割り当てられる。……弟のぶんは、結局一度も出なかったけれど。


それだけでもありがたいと思わねばならなかった。母の王宮から出る侍女としての給金は全部彼女の衣装や化粧品に消えてしまい、一度も持ち帰ってくれなかったのだから。


姉弟は手を繋いで北の塔に帰った。そこにはティレルがちょっとしたスープを作って待っていて、じきに係のメイドがパンとなんらかのおかずを持ってきてくれる。


「よーう、お帰りなさいまし、お嬢さんに坊ちゃん。スープが煮込み上がってますよ」


「やったァ。今日はティレルのスープだったのか。ティレルは具材をケチらないから好きだ」


「おお、嬉しいこと言ってくださるねえ」


目を細めて笑うティレルは十二年分年老い、エクトルという赤ん坊を少年まで育てた経験あってかずいぶんと丸くなった、ようにリュシヴィエールには見える。これが十二年前だったら鼻で笑いつつごく慇懃な文句で歌うように返答していたはずだ。


もう父母は家にいないのだからとリュシヴィエールは何度もエクトルを屋敷に誘ったが、彼が首を縦に振ることはなかった。


「もうここに慣れちゃった」


のだという。


「そんな悲しいこと言わないで」


とリュシヴィエールが言ったら、きょとんとした顔をした。


「ここが俺の家で、ティレルが親だ」


ときっぱり言い切るエクトルの後ろ、ティレルは苦笑いをしていた。


原作通りであれば、エクトルは今頃リュシヴィエールに蝋燭の火で炙られ、汚水を浴びせられ、母を父を返せと怒鳴られ続けていたのだ。姉に抱いた正当な子供への憧憬は彼とヒロインが結ばれても溶けることはなかった。


リュシヴィエールが冬を前にした小動物のようにせっせとものを運び込んだおかげで、いつの間にか北の塔全体が大き目の子供部屋のようになっていた。天井からはカラフルなシャンデリアもどきの玩具が吊り下がり、本棚には絵本から初歩の教本からリュシヴィエールの趣味の恋愛小説までが立ち並ぶ。コップや食器は必ず四、五組ある。エクトルのとリュシヴィエールの、それからティレルの、ティレルに会いに来た『使用人仲間』――つまりは密偵の部下が来た時に出すためのもの。


ここはリュシヴィエールが作り上げ、ティレルが運営するエクトルの家なのだ。


メイドがやってきて一階の玄関口の鈴を鳴らすので、ティレルがよっこらしょと立ち上がり急な螺旋階段を降りていった。吹き抜け構造の北の塔は大部分が石が剥き出しのまま、最下層の地下にはまだ牢の名残りの鉄格子さえそのままにされている。最上階にあたるこの部屋だけが、家庭らしい温かさと色彩に満ちていた。――原作通りであればティレルは今でも、父である侯爵に姉弟の様子を報告しているのだろう。それは彼の生き方だ。止める権利はない。けれど……。


リュシヴィエールは暖炉の火を調整するエクトルのまだ細い背中を見た。火かき棒を片手に鼻歌を歌って、食事を楽しみにする普通の少年のよう。貴族の血を引くだけの、何の責任もないただの庶子のようだ。


(この子にティレルがただの庭師じゃないって、ばれないようにしないと)


リュシヴィエールは目をつぶって考えた。


(父親とも思っているんだもの。それが裏でお父様と繋がっていただなんて。きっと悲しい思いをするわ)


「姉上? 準備できたよ。座ってください」


「ええ」


彼女は頷いて、粗末な木の椅子に腰かけた。ティレルがゆっくりと階段を昇ってくる足音。


「ねえエル。ティレルにはもう、ここの階段は辛いんじゃないかしら? 昔より音がゆっくりだわ。この前も膝が痛いと言っていたし」


「え? ええ……ううーん、どうだろう。ティレルはまだ健康体だよ。今は気が抜けてるからゆっくり動くだけで」


「誰でも寄る年波には勝てないものよ。ね、エル? だからね、あなたもそろそろ屋敷の中に住んで……」


「ああーっと、はいはい。ティレルが来たよ、姉上。――ようティレル、ありがとう。スープよそったよ」


「ああ、ありがとうございますわ、坊ちゃん。戸口までお出迎えたあ嬉しいねえ。猫でも犬でも出迎えは嬉しいもんなのに、主君筋の坊ちゃんがとはねぇ」


「はいはい。そんなに言っても肉はやらないよ」


と、親子のようにエクトルとティレルは笑い合う。リュシヴィエールはこれ以上何も言えず、ただティレルのぶんの椅子を引くのだった。


もしクロワ邸にエクトルを引き込んでしまえば、名目上とはいえ庭師のティレルとは離れて暮らすしかなくなる。また、こっそり騎士見習いたちとつるんで街に出かけるのも難しくなるだろう。


エクトルが頑なに屋敷に住むのを拒むのは、案外そんな理由が主なのかもしれない。


まだ温かいパンと肉団子を串にさして焼いたもの、サラダがあって、スープは魚の骨で出汁を取ったところに大き目のにんじんと玉ねぎの削ぎ切りを加えたものだった。塩味が、肉や野菜の旨味が冷えかけた身体に染みた。


食事中は身分や立場の差など忘れ、人目を気にせず三人ともがはしゃいだ。リュシヴィエールは屋敷では行儀が悪いと叱られるのでできないスープのおかわりと試み、エクトルと競うようにして食べた。ここで食べると普段よりたくさん食べられるし、お腹も苦しくならないのだった。


口うるさい家政婦は引退し、貴族の誇りだけで生きているような侍女も次々いなくなり、リュシヴィエールは子供の頃に比べてかなり自由になっていた。もちろんそれは、はたちにもなって婚約さえ決まらない『親なし令嬢』の称号と悪い噂話と引き換えだったが――一生独身で過ごすことくらいでこの時間が手に入るなら、五十まで独身でも構わない。どうせ前世だって処女のまま病死したのだもの。


楽しい時間は過ぎ去り、夜の小道をリュシヴィエールは屋敷まで帰る。もちろんエクトルが屋敷の裏口まで送っていくのだった。


「静かに、静かによ。誰かに見られたら大目玉だわ。おまえはここにはいないことになっているのですからね」


「俺のことはどう見えるんだろう? 逢引相手の騎士? 秘密の命令を受けたばかりの魔法使いかな」


「背が高いから厩番かも」


「どうしてさ!」


と冗談を言い合い、けらけら笑い、姉弟は夜風から互いを守るようにして道を急いだ。


使用人用の通用門は北の塔から丘をふたつ、越えた先にある。粗末な木の門の戸は壊れたままになっていて、誰かが装飾を剥がした後も生々しい。


「おやすみなさい、エル」


「うん。おやすみなさい。リュシー姉上」


別れ際の一瞬。エクトルは素早くリュシヴィエールを引き寄せると、唇に口づけた。


「あ、」


と諦めの声が小さく漏れる。


「やめなさいと言ったでしょう」


「でもしたかったんだ。仕方ない」


エクトルの手の力は強かった。吐息はこの距離だからわかるが少しだけ速く、きっと心臓の鼓動も速い。決して逃がすまいとしてくる気迫に、内心リュシヴィエールは怯えた。


――これは決して収まらない彼の悪癖のひとつ。母親に捨てられたからだろうか、姉以外の年頃の女をあまり見たことがないからだろうか。エクトルは一日の終わりにこうして口づけをする、といつからか決めてかかり、決してその誓いを破ることはなかった。


やめさせようとするリュシヴィエールの抵抗も説得も、残念ながらこれに関してだけは成功しなかった。ほかのことならいい子に従順にするのに。


十二歳にしては背が高い彼に掴まれてしまえば逃げられないまま、他人には決して見せない暴虐を見ないふりするしかない。明日には何もなかったかのように笑うしかない。


エクトルの青い目のふちに銀色の光が浮かんで、消えた。それはロンド王国の貴族に流れる古い血の証のひとつ。七百年前の建国王の目にもあったという銀色だ。


リュシヴィエールは突き飛ばすようにしてエクトルから離れた。あは、と調子はずれな声で弟は笑い、


「また明日、姉上」


と穏やかに微笑んで屋敷に入る姉の後ろ姿を見送った。リュシヴィエールの金の髪の残滓が消えるまで、彼がそこを動くことはなかった。


自室にひっこんだリュシヴィエールは、鍵をかけてようやく一息ついた。心臓がばくばくと音を立てる。使用人の物音は聞こえない。屋敷は静まり返っている。


使用人たちはみんな知っている。リュシヴィエールお嬢様がこっそり北の塔に通い、なんなら半分住んでいることも、そこには奥様が産み捨てた男の子がいることも。なんならほっそりした身体を保つためといっていつも夕食を食べないお嬢様は、屋敷の食事より北の塔のごっちゃ煮を気に入っているということも、公然の秘密だった。


知っていて、何も言わない。彼らにとって大事なのは勤め口と給料である。それがなければ生きていけない身分の人間たちだから。


リュシヴィエールは音を立てないように寝支度を整えた。そのうちに頭が冷えた。エクトルのあれのことを強いて思い出さないようにする。考えをうつろわせるのは得意だった。頭の中をからっぽにするのだ。別のことに集中するのだ。


壁の前に立つと、水魔法盤を見つめて頭の中で日付を整理する。


アルトゥステア歴七百十二年の、五月十二日はあと数時間で終わる。今はまだ、五月だ。


しかし約半年後、エクトルはおそらくゲームの時間軸に入る。新年を前にした十二月の末、突然クロワ侯爵が家に戻ってきて、エクトルの王立学院入学を決定したと告げるのだ。


翌年の四月から物語は始まる。


「ヨーロッパふうの世界なのに、新学期は春なのよね」


リュシヴィエールはひとりごちた。ヒロインとエクトルの初対面のスチルは、ピンクの花びらが舞い散るどう見ても桜吹雪の中、すれ違って振り返る少女と少年……という一瞬を切り取ったもので、とても綺麗だった。


(ヒロインと出会えば不埒な行動は収まるでしょう。そしてもし彼女と結ばれてくれるのなら、ラストでわたくしは邪魔なんてしないのだから、二人は幸せになれるのだわ)


うん。と頷きをひとつ。


(ぜったいにそうなってほしい――人の血なんて、浴びなくていいの、エクトル)


不思議なことにゲームのストーリーの中でエクトルが暗殺術を使う描写はなかった。おいしい設定なのに、尺の都合だろうか。つまりエクトルの暗い過去は全部キャラづけのための設定であって、物語の進行に必要不可欠ではないのだった。なら、そんなものはエクトルにいらない。そうでなければ生きられないならともかく。


今のエクトルは人を殺したことはない。あの子がそんなことをしていたらリュシヴィエールには分かる。それに――政敵が次々暗殺されるのだったらクロワ侯爵家の暮らし向きはもっとずっといいはずだ。


原作のクロワ侯爵は政治闘争のため妻をいやいや許し、彼女の侍女としての立場も利用して、宰相の地位にまで上り詰めるのだ。ところが今のクロワ侯爵は、愛人宅に入り浸るただの腑抜けた没落寸前貴族である。


財産の管理はなんとかリュシヴィエールがこなしていたが、見様見真似の帳簿付けはいかにもおぼつかない。家令は助けてくれるものの、やはり当主である父が農地の見回りにさえ行かないのでは管財人や地主たちの横領もかなりの額に上るだろう。


それに――父が送金を止めようと思えばいつでも止められるのだ。そんな不安定な基盤の元に生きていくのはあまりに心もとない。


財産はおそらく、エクトルの成人くらいまではもつ。けれどそのあとのことは……またそのとき、考える他ない。


エクトルはごく普通の、騎士に憧れる少年だ。手のまめだって剣のそれしかない。このまま普通の少年になる方が、ヒロインと一緒に市井に戻り、平民として生きていく方がいいのかもしれなかった。


(王立学院を出たといえば引く手あまたでしょうし。きっとあの子ならうまくやっていけるはずだわ)


かつては真面目な研究機関でもあった王立学院の存在意義は、何世代も前から失墜しつつあった。今となっては尊い身分の方々の子弟子女の経歴に、箔をつけるための数年間を提供する施設に成り下がったと聞く。


(一昔前は海外にさえ通用するりっぱな大学だったのに、いつの間にか一部の学部が飲みサーヤリサーだらけになっちゃったとか、そういうのに近いのよね)


やっと親の目を離れることができた甘やかされた子供たちの、運命の恋愛ごっこ。あの乙女ゲームはとても楽しかったけれど、現実として見てしまえばその一言に尽きる。


子供の世界は大人の世界の鏡だから、王立学院の現状はある程度、王宮や貴族社会の硬直っぷりを映しているのだろう。支配階級とはいつの世も内部抗争をするものだ。クロワ侯爵が王宮の政争に参入しなかったことは、原作の流れに何か意味をもつのだろうか。


リュシヴィエールは魔法灯を指先で消すと、寝台に入った。朝の執務は頭が痛いばかり、午後の求婚者はとんでもなく面倒だったけれど、それ以降は全部が楽しかったから――楽しい夢を見られそうだった。


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