虐げられモブ令嬢ですが、義弟は死なせません!

重田いの

第1話


(この世界ってもしかして『ヒトキミ』!? リュシヴィエールってもしかしてあのリュシヴィエール!? エクトルの姉モブキャラ? 弟を虐待してた!?――その復讐に殺される……わたくしが?)


というところまでリュシヴィエールは思い出した。高熱から回復しかけた頃のことである。


天蓋つきの寝台、暖炉で燃える火、まだ微熱があるのに暑苦しくて仕方がない。窓を開けてほしくても枕元で椅子に座ったメイドは眠りこけている。


(信じられない……なんでよりにもよってリュシヴィエール。ワガママで性格が悪くて、最悪なキャラクター。違う、わたくしはキャラクターじゃない、人間だわ。人間……なのにキャラクター……)


ううーん。と思って、目が回った。


(いやっ。そんな死に方はいやっ。そんな人生、いやだわっ)


と狂おしく思ったところまでは、覚えているのだった。


目が覚めたときには二日が経っていた。記憶と記憶は完璧に入り混じり、違和感のひとつもない。


彼女――前世の記憶を持ったリュシヴィエール、八歳の侯爵令嬢はむくりと寝台の上に起き上がった。手をぐーぱーぐーぱー、動かしてみた。なんの齟齬もなく動く。これが私の……わたくしの身体、なのだ。


リュシヴィエールはすぐ横の壁に掛かった鏡を覗き込んだ。渦巻く金色の髪、空のような青い目。レースのネグリジェ。すっきりした鼻筋とさくらんぼ色の唇、睫毛はふさふさして目はぱっちり、ぴかぴかの美少女である。


ゲームでは顔がシルエットになっていて、詳細な容姿はわからなかった。リュシヴィエールはそのくらいモブキャラだった。エクトルの乗り越えるべき数ある障害の一つに過ぎなかったのだ。


鏡の隣の水魔法盤を見た。アルトゥステア歴七百年の、一月十日。暦は十二か月で、だいたい地球と同じ。季節の移り変わりも日本とほぼ似たようなものだ。窓の外には雪が降っていた。


ここはロンド王国クロワ侯爵領キャメリア。リュシヴィエールの父親であるクロワ侯爵が統治する領地だ。


「状況、整理しましょうか……」


リュシヴィエールは寝台の上のクッションにもたれかかった。


今朝診察しにきた医者は医療魔法で彼女の身体を診たあと、しばらくは安静にするようにと言い渡した。だから今日は淑女になるための勉強も、刺繡もお作法も何もない。……両親の間に割って入る必要も。


朝食室からけたたましい悲鳴が上がった。母の声だった。一階の騒ぎが二階のここまで聞こえてくるだなんて、ひょっとしてクロワ邸は安普請だったのだろうか。


――ここは病気で死んだ前世、日本人だった頃プレイしていた乙女ゲームの世界だ。『一つの冠をいっしょに~キミと運命の分岐点~』略称ヒトキミ。


国の名前から領地の名前、人名まで覚えがある。ヒトキミは王立学園に入学した平民の少女が王子や貴族や魔法使いや教師と華やかな恋をするゲームで、その攻略対象の内の一人にエクトル・ド・クロワがいる。リュシヴィエール・ル・ゼア・クロワの弟……異父弟だ。


「だぁって仕方なかったんだもぉん!! 断れなかったんですものぉお!!」


と、再び階下から絶叫。ガシャンと食器の割れる音。八歳のリュシヴィエールの胃がしくしく痛んで、お腹がきゅるきゅる音を立てた。ストレス性の痛みは子供の身体にきつい。


リュシヴィエールの母は長い間王宮に伺候して、国王の妾の侍女をしていた。侯爵夫人であれば珍しいことではない。高位貴族の奥方の仕事はもちろん家の中を取り仕切ることだが、他家の貴婦人と交流したり王族に気に入られ夫を売り込むことも重要なのだ。


母は家の中よりも外で活躍することを好む人だった。だがその実、人に頼らなければ生きていけない弱さがあった。要するに田舎のクロワ領で引きこもって夫と子供だけを相手にするよりも、王宮で着飾って同じ立場の貴婦人や貴公子と遊びたい、でも責任は負いたくないという人だったのだ。


その結果がこれである。一月の新年の祭りのために王宮から人が消えるとき、母は赤ん坊を腕に抱いて帰還した。父と母はこの一年くらいすれ違いが続いており、会っていない。


父のもはや何を言っているのかわからない怒鳴り声がして、今度は窓が割れたらしい音。家令の諫める声がする。


まあ……そりゃ、そうだろう。領地で仕事する自分を放って王都にいた妻が、どこの誰とも知れない間男の子を連れてきたのだから。


リュシヴィエールの半分、八歳のこの世界生まれのリュシヴィエールは母を庇ってあげたいと叫び、もう半分、三十歳手前で病死した日本人の記憶の方はほっときなさいよと呆れ返る。割って入ったところで父親にひっぱたかれるだけでしょ、リュシヴィエール。


「そうだよねえ」


クッションの上、リュシヴィエールは首を傾げた。心の中にあった必死さが、なんとか両親の仲を修復させなきゃという使命感みたいなものが、だんだん消えていった。


(……そもそもあんな親、仲良くさせる必要ある?)


と思った。それは人間が自然に何かを諦めるときの心の動きに、とてもよく似ていた。


リュシヴィエールは新年で母に会えるのを本当に楽しみにしていたのだ。コックに教わって占いクッキーも作った。お母様、褒めてくれるかな。喜んでくれるかな。わくわくどきどき、滅多に会えない母親を想って胸をときめかせていたのに。


「どうしてあんなに心が弱いんだろう、お母様……」


と呟いて、リュシヴィエールはクッションの上でごろごろする。もう熱は引いて、けれど頭痛の尾が頭の後ろに残っている。知恵熱だ。やっと会えた母親が自分以外の赤ちゃんを抱いているのを見たから。そして楽しみにしていた新年なのに、父母が大喧嘩を始めたから。


新年の祭りは月の前半の間じゅう続き、初めの一週間は家族だけで過ごす。その次の週は親戚や親しい友人の家を訪問する。十日ともなればそろそろそうした人たちがクロワ邸を訪れ、またこちらも訪ねていくはずだったが、今年はどうやら無理そうだ。


この醜聞は瞬く間にクロワ侯爵領キャメリアとその周辺を駆け巡るだろう。


「――よしっ」


悩んでいてもしょうがない。リュシヴィエールはむくっと起き上がった。お腹の痛みはもう無視できるくらい。病み上がりの身体に子供には大きなショールを巻き付け、裾を引きずりながら、そうっと部屋を抜け出す。使用人の目を盗んで廊下に出る方法なんて物心つく前から習得している。


赤ん坊は育児室にいるはずだった。エクトルに会うのだ。


ゲーム内のエクトル・ド・クロワは銀髪に青い目、ほどよく筋肉がついた身体の線の細い美少年だ。ゲーム開始時点では十六歳で、ヒロインと同い年。いわゆるツンデレキャラで女嫌いだが、実は幼い頃から特殊な訓練を施され、父侯爵の敵を殺す任務を請け負う凄腕の暗殺者でもあった。


彼のルートに入ると徐々にその全貌がわかってくる。エクトルは母の不義の子であること。そのせいで父に北の塔に監禁され、密偵頭に育てられたこと。たまにやってくる姉にいじめられ、自尊心を破壊されたこと。母は泣くばかりでちっとも庇ってくれやしなかった。侯爵はいやいや彼を戸籍に入れたがそれ以上のことはせず、王立学園に入れたのも厄介払いであることなど。


ヒロインは不遇なエクトルの境遇に涙し、そんなのあなたのせいじゃないわと憤慨する。自分のために怒って涙してくれる人に彼は衝撃を受け、愛し合うようになる。しかしエクトルを憎む家族がそれを邪魔してきて……と、大体がそんな話である。ゲーム内で一番血生臭いのもこのルートだ。


廊下の果ての育児室の中に滑り込んだ。部屋の真ん中で八年前にリュシヴィエールも使ったゆりかごが揺れている。


リュシヴィエールはそっと、ゆりかごの中を覗き込んだ。


「わっ」


――天使がいた。ふわふわのほっぺ、むちむちの小さいまあるい身体、うごうご動く手足、眠っているのに瞼ごしにぴくぴく動く眼球。銀髪はまだ生えてない。ぽやぽやした頭は他と同じく真っ白で、いいようによってはハゲのエイリアンであるけど、めちゃくちゃかわいい。誰だ今うちの弟をハゲとか言った奴出てこい。


「ふわああああ……」


リュシヴィエールは崩れ落ちた。ゆりかごを揺らさないように手を放し、絨毯の上に蹲り悲鳴を抑える。


「なにこれぇ……かわいいぃ……」


もう一回覗き込んでみた。かわいい。


「あっむりかわいい」


(これがあの立ち絵になるの? うそ。今こんなにかわいい上に成長したらあんな触れたら切れる美少年になるの?)


えっ。


(かわいいんですけど。最高なんですけど)


リュシヴィエールはそうっと手を差し出し、エクトルのちっちゃな握り拳をつついた。きゅっ。赤ん坊は反射的に指を掴んだ。


(あ。無理。これはいじめられない)


何を隠そう前世においてぶっちゃけ、最推しだった。エクトル。一見ショートカットの女の子にも見える立ち絵も好きだったし、そのくせ声優が渋い声の演技なのもギャップがたまらなかった。のちに販売されたドラマCDでは彼の受けた過酷な虐待をほんのさわりだけ聞くことができて、前世のリュシヴィエールは泣いた。


(殺されるのはいやだけど……いやだけど、そんなのが吹っ飛ぶくらいにかわいい)


心の片隅にあった計算がぼろぼろに崩れていく。エクトルがもうちょっとリュシヴィエールのことを愛していたら、あのラストはなかったんじゃないかと思っていた。そうならないように自分に懐かせたらいいんじゃないかって――しかし、こんなかわいい生き物をそんな理屈で育てるなんて、神様に怒られる。


原作のリュシヴィエールは弟に殺される。エクトルは最初、両親とリュシヴィエールにされた仕打ちを許そうとしたのだ。しかしエクトルとヒロインが結ばれたのを知ったリュシヴィエールがそれを妬み、弟を幸せにさせまいとヒロインを亡き者にしようとしたため、やむなく手にかけることになる。


ヒロインはこのロンド王国に平穏をもたらすとされる伝説の【癒しの歌の聖女】だった。エクトルは愛する人を守るため、そして国を守るため姉の殺害を行う。ヒロインはそんな彼の壮絶な決意に同情し、一緒に泣いてくれる。抱き合って泣く二人のスチルでエクトルルートは終わりだ。


(原作をプレイしたときは、そんなにエクトルに同情するなら姉を【癒しの歌】で生き返らせてあげればいいのにと思ってたけど……、こんなのをいじめたんなら死なせたままにした方がいいと考えた理由は、すごくわかるわ)


うむうむ。リュシヴィエールは一人で納得した。半分とはいえ血がつながっているからだろうか。それともこれは人間の、女の子の本能なのかしら。


「決めたわ。エクトル。おまえのことはお姉様が守ってあげるからね!」


とゆりかごを覗き込んでリュシヴィエールは誓った。ちょうどエクトルがふにゃあと声を上げて目を覚まし、青い色の目でリュシヴィエールを見つめる。くあくあ言いながら手足をぱたぱたさせて、なんとも元気な男の子ぶりだ。


「きゃあっ」


とエクトルは笑った。リュシヴィエールはへにゃあっと笑い返した。かわいい、かわいい。


「おまえがあんな悲しい思いをしないですむように、わたくしが守ってあげる。わたくしを愛してね、エクトル」


リュシヴィエールは手を伸ばして赤ん坊を抱き上げる。ふにゃふにゃした身体は熱くて湿気てミルクの匂いがした。壊さないように慎重に腕の中に収めるまで、エクトルは暴れも泣きもせずにじっとしていてくれた。


――前世では病気で子供が持てなかった。けれど甥っ子や姪っ子を抱っこするたびに湧き上がったあの思いは、今この八歳のリュシヴィエールの胸にある思いと同じものだ。


「いい子、いい子。もう世界で二人っきりよ。わたくしはおまえの味方。だからおまえもわたくしの味方になるのよ、よろしくて?」


同じ青い色の目がかちんと視線を結び合う。このロンド王国では青い目が古い時代から脈々と受け継がれてきた。空の色だ。海の色だ。


エクトルはきゃはあっと笑った。それが誓いの代わりになった。



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