同人誌試し読み

瀬名那奈世

短編集『さかなのあしあと』試し読み

※短編集『さかなのあしあと』から抜粋です!


◎収録されている同人誌

→『さかなのあしあと』/A5判/900円


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【ディア・マイ・デビル】 


 私の隣に、少年がいる。

 桜の色がにじんだような妖艶な紫に染まった空気が私と少年の周りを包み込んでいる。視界の先で無人のブランコがきぃと鳴いた。さらにその先にある歩道を黒いスーツを着た中年サラリーマンが横切っていく。車道に面する飲食店は黄色い明かりをきらめかせ、そこに入る車もあれば真っ直ぐに我が家を目指す車もある。鼓膜を震わせる音も網膜に焼き付く色も何もかもが曖昧で、互いに打ち消し合って波のように静かにひいていった。私と少年はペンキのはげかけた鉄の孤島に取り残される。

「あずちゃん大丈夫?」

 沈黙する私に少年は手を差し伸べた。しかめっ面の私の手を強引に掴んで、規則正しく組まれた棒を登る。両手に刷り込まれる血の臭い。頭に鈍痛を覚える私などお構いなしに頂上に立った少年は、うっとりと顔をほころばせて黒く沈みかける夕空を見上げる。つられて顔を上げて、それから視線を縫いとめられた。

 少年は「月だ月だ」としきりに騒いだ。しかし私は、少年の横顔に釘付けだった。生ぬるい春風にゆらりとなびく毛先と伏せがちの長いまつげ、それに囲われているのは透き通っているのに複雑に輝く不思議な球体。薄い唇のラインを降りた先には細くて白い首がある。シャツの襟から伸びる滑らかな肌に私は右手でついと触れた。

 少年は初め、笑いかけた。どうしたんだいと普段通りの柔らかい声で言って、うつむく私の前髪を指で梳き、直後、目をぎょっと見開いて後ずさろうとした。加わる左手を振り払おうとするが足場が不安定なせいで失敗する。きつくなる首元をどうにかしようと必死でもがいても、浅いひっかき傷がむなしく残るだけで効果はない。私の耳には自分の心臓の鼓動だけが鮮明に響いていた。ただひたすらに自分の願いを叶えようとして、全力で血液を押し流している。

 少年が足を滑らせた。辺りに赤い命のにおいが拡散する。

 落ちていく二人の子供の影をおぼろげな月の光が照らしだした。


「あずさ」

 意識が段々とはっきりしていく。電灯にくらんだ視界の先で、母さんがふすまを開けて仁王立ちしていた。

「夏樹君が来てるわよ」

「ああ……うん」

 額に張り付く前髪を整えながら立ち上がる。体が急激に冷えていくのを感じた。頭は風呂でのぼせた時のようにぼーっとしていて、上手く仕事をしてくれない。一瞬の記憶の空白の後、自分の部屋で寝てしまっていたということ、そんな私を夏樹が訪ねてきたということをかろうじて認識する。

「ちょっと、危ないわよ」

 母さんの心配に気のない答えを返しながら表通りに面した小窓を開ける。暗く沈むアスファルトにこちらを見上げる白い影が浮き彫りになっていた。近所に住む古賀夏樹だ。シンプルな白いパーカーに黒いウィンドブレーカーを合わせた彼は、長い腕を車のワイパーのように大きく振って私の注意をひきつける。

「春祭り行こうぜ」

 ぼんやりとした闇の中に笑いの気配が浮かび上がるのを感じて緩慢に首肯し、窓を閉め、クローゼットから白いワンピースを抜き取る。

「お祭り?」「うん」「夏樹くんもいるなら安心ね」

母さんはこの幼馴染を信頼しすぎるきらいがある。

春用の編み上げサンダルを履いて玄関を抜けた私に、夏樹は目を見開いた。

「あずちゃん、寒くない?」

「大丈夫」

 吹き付ける夜風にくしゃみがでた。夏樹の羽毛のように柔らかい笑い声が辺りに広がる。

「耳真っ赤だ」

「……うるさい」

 差し出されたパーカーに袖を通す。まだ強く残る体温にまごつき、自然と足が速くなった。足の長い夏樹はすぐに追いついて静かな空気に耳を澄ませる。生まれた沈黙に微かな祭ばやしが流れてきて、坂を上った先の道沿いに立ち並ぶ屋台の喧騒を伝えた。春祭りは十年ほど前から地域活性化のために始まった祭りだ。この辺りで桜が満開になる四月中旬の一週間、商店街の店が全て屋台に変わって客を出迎える。初めは地元の人間だけが訪れる小規模なものだったが、数年前からネットで口コミが広がり、年々来場者数を伸ばしている。

「空腹かい?」

 夏樹はひょいと首を伸ばして私の顔を覗き込んだ。反論しかける私の頬を両手でつまみ、愛おしそうに眺めて押したり引っ張ったりを繰り返す。

「着いたら兄ちゃんがなんでも買ってやるからな」

 完全に妹扱いだ。

「親の金で何言ってるの」

 首を振って手を振り払い、腹いせにたっぷり子供扱いをしてやると、一つ年上の幼馴染は特に気を害した様子もなく歌うように口を開く。

「残念。バイト始めたんだな、これが」

「バイト?」

「うん」

 駅の近くの喫茶店、と言う声は誇らしげだ。

「あずちゃん?」

 立ち止まった私を振り返る。「なんでもない」と答えて彼に追いつけば、いよいよ赤い提灯と人だかりが見え始めた。夜の間だけ歩行者天国になった東西に延びる商店街は黒々とした人影であふれ返っている。祭りには様々な場所で暮らす様々な人間が集まる。多くの人間の人生が狭苦しい路上で交差して、一瞬だけ触れ合い、泡のようにはじけて通り過ぎる。この奇妙な高揚感が私は好きだ。どんどん大きくなる光に心がざわざわと囁きだす。

 祭りでは、夏樹は私に食べ物ばかり買い与えた。屋台の一番東端から人混みに流されるように西に向かい、ぼやっと歩く私の手を引いて片っ端から屋台のおじさん、おばさんに声をかける。最初に自分の分の焼きそばを買った後はクレープ、ワッフル、ラムネなど、なぜか甘いものばかり買って私に食べさせた。フルーツ飴にいたっては売られていたりんご、みかん、いちご、ぶどうの全種類を買おうとしたのでさすがに止めた。

「そんなにいらないから」

 とっくに胃袋は限界値だったし、ただの幼馴染みの夏樹にこれ以上奢ってもらうのははばかられた。「そう?」とそっけなく笑った夏樹はべっこうに閉じ込められたみかんを一つだけ買って私に持たせる。

「あずちゃん今日はずっとお腹空かせてそうな顔してるから」

「それは……違う」

 心当たりはあった。なんてことはない、私の昔からの癖だ。私を見つめる瞳から目を逸らした先で、小さくきらめく銀色に目を奪われる。ほら、また。

「欲しい?」

 子供用の指輪だった。シンプルなデザインで、中心に付けられた透明の小さなガラスがちらちらと光を反射する。そのちゃちさが、かえって純粋でまぶしい。欲しいと思った。それこそ喉から手が出るほど。見かねた夏樹がいそいそと店に近より、百円玉四枚と交換して戻ってくる。決まり悪くて再び視線を逸らすと、夏樹は案の定「わあ、真っ赤」と声を上げ、例の柔らかい笑みをもらした。二人で並んで横路に出て近くの公園を目指す。祭りの喧騒はしだいに背後に遠ざかり、大通りにでた。祭りに人が集まっているせいか人通りもまばらだ。温度差でいっそう寂しく感じられる歩道をぼんやりとかすれた月の光が照らしだす。

「あずちゃん」

 呼ばれて、止まった。右手の小指にはめられた指輪は淡い光を鈍く反射して薄闇の中に夏樹の瞳を浮かび上がらせる。深く甘く澄んだその色に、私は自分の舌から唾液が出るのを感じた。

 危ない。けれどもう遅い。

 そっと夏樹の首筋に触れる。みかん飴が地面に落ちて、解けかけのべっこうが血痕のように広がった。両手を伸ばしても彼は浮かべた笑みを絶やさない。滑らかなその肌にじわりと爪を立てる。私の耳には、やはり自分の心臓の音しか聞こえなかった。限界値だった胃袋はいつの間にか大口を開けていて、その中心で熱がくすぶる。

さっきの夢がよみがえった。

 私には昔から奇妙な破壊衝動がある。自分がきれいだと思ったものを、好きだと思ったものを、欲しいと思ったものを、ことごとく壊したいと思うのだ。粉々に砕いてぐちゃぐちゃに混ぜてこねくりまわして握り潰したい。危険なこの衝動はどういうわけか空腹感によく似ている。もしのっそりと首をもたげるそれに身を任せれば、一瞬の興奮の後に果てしない空しさだけが残るのだ。

「いいよ」

 ひっそりと目を閉じて、彼はさらに優しく笑った。

「あずちゃんなら殺してくれてかまわない」

 愛しくてたまらないというような声で夏樹は囁いた。かっと背中が熱くなる。腹立たしくて両手に力がこもる。ぐっと折ろうとして――やめた。私に、私が戻ってくる。

 私に殺されそうになる直前、夏樹はいっそう深く笑ったのだった。

 いつもこうだ。私は今までもこうやって夏樹を殺しかけた。そのたびに夏樹はあっさり受け入れて、本当の妹に向けるような愛しそうな笑みを浮かべる。この笑顔が駄目だ。私の中の醜い悪魔は、その透明な光にあたると霧散する。

「さ、ベンチまで行こう」

 呆然と立ち尽くす私に、何事もなかったかのように夏樹が微笑む。鳥肌が立った。この人こそ悪魔なのかもしれないと思った。私を惹き付けて離さない悪魔。決して報われない恋を強いる悪魔。この人がいるから私の悪魔はのらりくらりと生き延びる。おぼろ月の夜に私を狭間へと引きずりこむ。


 あの日越えられなかった境界線の上を、私は今も漂っている。

(二〇一六年 文化祭に向けて)


(試し読みおわり)

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