マーメイド・エスケープ!

シューガン

揺蕩う鰭は深い藍

忘るべからず夏の日よ


 愛知県は知多半島。

 日本六古窯にほんろっこようのひとつに数えられる常滑焼や、幕末から明治にかけて人気を博した知多木綿を始め、この地域は古くから”ものづくり”が栄えていた。


 だが、半島全域で陶器等のものづくりが行われていたかというと決してそうではなく、ごく普通に近海で漁をして生計を立てている家々もあった。半島最南端に位置する羽豆岬はずみさきと小佐漁港の間にある〈美波〉という小さな地区もその一つだ。


 大して目立った特産品がある訳でも、また県内はおろかこの知多半島地域に限ってみても知名度は皆無に近い。

 また住民もほとんどは高齢者か、それに片足突っ込んだ中年の男女ばかりで、未成年の子供なんて両手で数える程しかいない。


 かといってこれといった魅力のない片田舎にやってくる物好きな若者がいるはずもなく、それまでは一個の村として存立していたにも関わらず、その他ほとんどの地方自治体と同じように平成の大合併では真っ先に吸収されて、今では南知多町美波地区へと名前を変えた。


「あ”ぁ”ぁ……隕石降ってこねぇかなぁ」


 そんな所で生まれ育ったものだから、”志水セイジ”という青年は毎日が退屈で退屈で仕方がなかった。早朝、目が覚めて開口一番に隕石落下を願うくらいには物足りなさを感じて生きている。


 時代も悪かったのだろう。

 いかに何も無い田舎暮しといえど、スマホくらいは彼も持っている。だからソーシャルメディアを通じて、都会で楽しげに暮らす同世代の少年少女たちを目にする機会は必然と多い。


 心底羨ましいと感じたし、なぜ自分はこんな所にいるのだろうと疑問に思ったことは一度や二度では無かった。


 中学生になったある日、セイジは育て親である祖父母に訪ねたことがあった。

 自分は何故ここにいるのか、と。

 父も母も居ない生活。実の両親の存在があやふやなのは明らかにおかしい。母に関しては仏壇の傍に写真が立てかけてあったことから、小学校半ばくらいには居ない理由を察していたが、それにしても父はどこに居るのかと訪ねた。


「あの子はね、最後までとても悩んでたよ」


 悲しげに眉尻を下げた祖母はそんな言葉から始めて、セイジがこの村で育った経緯を彼女は丁寧に教えてくれた。

 端的に言ってしまえば、セイジを産んですぐに母親が亡くなり、仕事が多忙で育てる余裕のなかった父親が実家に彼を預けただけの事だった。


 てっきり愛想をつかされて捨てられたのかと思っていたセイジは、少し驚いたものの祖母の言葉を素直に飲み込んだ。


 もう何年も顔を合わせていない父親は、最愛の妻を亡くしたショックを乗り越えて、セイジの為にと東京の方で汗水垂らして働いているらしい。


 十何年も顔も出さず連絡さえも寄越さないのはどうかと思ったが、どうやら父も父なりにセイジとの距離感を測りかねているようだった。


 父は荒れた海の男ばかりのこの町では珍しく知性的な男で、国立大学を卒業したあとは、国内有数の大企業に勤めるエリート街道を進んでいた。


 セイジを養う金なら大量に用意できても、それを使って育てる時間の余裕は彼になかったらしい。

 土下座をする勢いでほのぼのと暮らす実家の両親に頼み込み、まだ言葉も喋らぬ幼いセイジを預け──はや十八年の月日が経とうとしている。


 彼の父と亡き母はセイジに、真面目で真心のある人間に育って欲しいとこの名前を付けたが、さて彼の現在を見てみると二人のその思いとは裏腹に、セイジは不真面目で真心の欠けらも無い不良少年となっていた。


 喧嘩は日常茶飯事だし、未成年のくせして煙草は吸うし酒だって飲む。自分たちも大して育ちが良いとは言えない祖父母はそれくらいなら可愛いものだと言って幅からなかったが、『イジメ・クスリ・性犯罪』の三つだけはするなと厳しく言い付けていた。


 いくらセイジとてそれらへの忌避感は人並みにあったので、幸か不幸かヤンチャなガキで片付けられる程度に収まっている。


 美波に住む同世代の男たちもセイジと似たり寄ったりで、休みの日にはバイクを出して名古屋まで繰り出すのが彼らのお決まりだった。


 早朝に出て、翌日の明け方に帰ってくる。飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎは楽しいものであり、それは田舎の退屈さからセイジたちを解放してくれる唯一の時間だった。


 今日から始まる今年の夏休みも、きっと遊び漬けになるのだろう──とセイジは思っていたのだが……。


「──はぁ? パクられた?」


 壁にかけられた時計の針は11時を指している。夜中まで一人でゲームをやっていて途中で寝落ちしたらしく、テレビは付けっぱなしだった。


 散らばった部屋の中、窓を開けて一服していたセイジのスマホが着信音を鳴らした。


 誰かと思って画面を見れば仲間の一人であった。みんなからは”タク”と呼ばれている気の良い奴である。スマホを耳に当てて話を聞けば、どうやらタク以外の他の仲間がほとんど警察に捕まったらしい。


 まさに寝耳に水というか、セイジは眉を顰めながら”いやどうしてそうなった”と反射的に聞き返した。寝起きというのもあって、全くもって意味がわからなかったのだ。


『昨日お前全然起きんかったから、まあいいかって他の皆で栄に行ったんだけどよ。酔っ払い集団に絡まれてさ。一緒にいた女の子たちにちょっかいかけられたもんで、もう皆カッとなっちゃってさぁ。俺は手出してないから帰れたけど、事情聴取ってことで親と一緒に朝から警察署さね』

「……アホ。そういうのはスルーしとけって何度も言っただろ」


 セイジはため息と共に紫煙を吐いた。

 先に手を出した時点で、どんな理由があろうともアウトである。

 だから誰かと喧嘩をする時は、まず先に相手に手を出させるのがセイジたちのグループの共通認識としてあった。今までもそうしてきた。


 恐らく仲間たちもその時酒を飲んでいたのだろう。女も連れて気が大きくなっていたに違いない。


 手を出さずに静観していたこいつは間一髪のところで逮捕を免れたようだが、彼も彼で親にこっぴどく叱られたらしく、電話の声はいつもより覇気がなかった。普段は耳を塞ぎたくなるほど喧しいというのに、ボソボソとした話し声は聞いているこちらまで気が滅入いりそうになる。


「相手の方はどうなっとんの。てか何人?」

『滅茶苦茶ボッコボコしてたからな、知らねぇよ。多分骨は折れとる。たしか八人くらい居たなあ、こっちは五人だったけど…』

「クズ」

『言われ慣れてる』


 セイジは自分の寝起きの悪さに感謝した。

 そんな面倒事に巻き込まれるくらいなら、家でダラダラとゲームをしていた方がまだマシだっただろう。


 ただでさえ地元の警察には顔も名前も覚えられているのだ。よく遊びに行く名古屋で問題を起こして、あちらでも警察や変な連中に目をつけられることは避けたかった。


 幼い頃から喧嘩は滅法強かったが、喧嘩はあまり好きではないセイジは常日頃から血気盛んな仲間たちを一歩引いたところで眺めていた。


 やはりその判断は正しかったようだと確信する。それと共に、昨日起きなかった自分に対してセイジは感謝した。もう高校3年生だというのに停学なんてアホらしくてやってられない。


「で? アイツらどうなりそう?」

『さぁ? でもお袋から聞いた話じゃ、アイツらの親はみんな”絶対少年院に行かせてやる”とか息巻いてたらしいぜ』

「ほー……じゃあもうアイツら退学確定かよ、勿体ねー」


 セイジ達はみな同じ高校に通っている。

 名前を書けば受かるとまではいわないが、それでも偏差値はかなり低いであろう隣町にある定時制高校だ。

 彼らの高校は四年制なのでセイジたちには一応まだあと一年ある。外国系の生徒が多いので髪型を始め偏差値が低い割には校則も緩めだが、こと問題を起こした生徒に対してはそれなりに厳しい対応が取られる。


 初犯というとあれだが、最初の1回は反省文で済ましてくれるものの、それが2回3回と続くと内容によっては停学どころか退学もありうる。


 セイジは上手いこと立ち回っていたので、これまでに1度しか罰則を受けていないが、あまりにも実直すぎる他の連中はそうもいかず、これまでに何度も罰を食らっていた。


 それでも退学にならなかったのは授業だけは真面目に受けていたし、教師たちとの仲も良かったからだろう。


 しかし、補導程度ならともかく今回は逮捕されてしまっている。酒と煙草も同時にバレているだろうし、既に学校には警察あるいは親たちから連絡がいっているはずだ。

 これでも退学にならなかったら、もう校内でタバコ吸ってもスルーされそうな気がする。


『俺も退学かね?』

「まあ一緒に居ただけだし、停学くらいじゃないの。知らんけど」

『いやー、大変なことになりましたなぁ』

「ほんとだよ。俺の夏休み計画どうしてくれるんだよたーけ」


 海水浴にキャンプ、BBQなど色々夏休みの遊びの計画をしていたセイジであるが、残念なことにこれでおじゃんである。

 何度目か分からないため息が漏れた。


『じゃ、そういう事なんで。また追々連絡するわ』

「ん」


 電話を切り、スマホをベッドに投げ捨てた。ようやく夏休みだー、とウキウキしていたのに仲間がほとんど逮捕されて出鼻を挫かれるとは思いもよらなかった。


 今年の夏休みは暇になりそうだ。





 ◆◆◆





 ──仲間たちが逮捕されて、はや二週間が経とうとしている。


 その間、特に目立った事はなかった……とはいえない。まず逮捕された連中に関しては、既に退学が確定的となったことを担任から聞いた。

 そして幼時から仲良くしている彼らの親に聞いてみれば、タクが言っていたように少年院にぶち込む気満々だったので、『これはもうだめかもわからんね』とセイジは思わず頭を抱えた。


 暇すぎる。

 スマホのカレンダーに記された本来の予定では、本日はBBQをするはずだったのに、友人たちはみなお縄につかれていた。

 唯一それを免れたタクも両親によって自宅に箱詰めされ、とてもじゃないが遊べるような自由は与えられていないようだった。彼の母親から、しばらくは遊ぶのを控えて欲しいと頼まれている以上、それを無視して誘うのも憚られる。


「……釣りでもするかぁ」


 ゲームも気が乗らない。かといってバイクをわざわざ出して一人で遠出するのも味気なかったので、漁港の辺りで釣りでもして暇を潰そうとセイジは考えた。

 運が良ければ漁港のおじ様方から魚の一匹でも貰えるかもしれないし、と玄関に立てかけた釣竿を持って外に出る。


 日差しはまるで肌を突き刺すように暑かった。近年、ニュースでも取り沙汰されているように今年の夏も酷暑となるだろう。近所の自販機で麦茶を買って、その足で港に向かった。


 歩いて三分もかからない場所に、美波の漁港はある。こじんまりとした漁船を横目に埠頭へ向かって進み、コンクリートの上に胡座をかいた。釣り餌はゴカイ、特に何を狙って釣ろうとかは考えておらず、ただ時間を潰すために釣竿を投げた。


「あっちぃ…」


 日陰も何も無い埠頭は、太陽の光がモロに当たる。竿を投げて10分程度しか経っていないが、既にセイジの額には汗が流れていた。


 ふとスマホを見れば気温は30度を超えている。まだ昼にもなっていないのにこの暑さとは、近年の酷暑は文字通り酷い。

 流石に何時間もこの暑さに耐える理由も気力もなかったので、あと一時間ほどしたら帰ろうと決めた。


 これで隣に誰かしら居れば駄べりながらいくらでも時間を潰せたのだろうが、生憎今後しばらくセイジは一人きりである。学校にはタクたちの他にも友人は居るが、かといって夏休みに遊ぼうと誘うほど深い仲でもなかった。


 なんで夏休み直前に暴力事件なんて馬鹿なことをしたのかと仲間たちに恨み節を呟いていると、セイジの握る竿に僅かな反応があった。


「お」


 ピクピクと竿が揺れる。何も考えずに適当に投げたので、まさか魚が食いつくとは予想外だ。慎重に立ち上がり、セイジは竿の様子を伺った。


 恐らくまだ餌に食いついてはいない。チョンチョンと突いているだけだろう。ここで焦って引き上げるのはご法度。もっと強い引きが来てからだ。

 テトラポッドに波が打ち付けるのと同時に、釣り糸が強く海中に引っ張られた。


 ”食った!”と判断し、強く海中へ引っ張る魚に負けじとセイジも竿を上げてリールを巻いた。

 あまり大きなサイズではないだろうが、食べれる魚ならなんでもよかった。ベラやクロダイだったら尚良いだろう。


 キュルキュルと紐が巻かれていくが、しかし途端に反応が鈍くなる。

 セイジは舌打ちをした。食い付きが甘かったのだろうか、釣り上げている途中に針から外れて逃げ出したようだった。


「……」


 結局、なんの魚が釣れそうになったのかは分からずじまい。照り付ける太陽もあってか、セイジは途端にやる気が削がれてしまった。


 これで今の時間が夜だったらいくらでも再チャレンジしただろうが、まだ昼前である。

 これから更に暑くなってくることが分かっていて、まだ釣りを続けようとするほどセイジは釣りに熱心な人間ではない。


 そもそもただの気まぐれで始めたのだ、終わるのも彼の気まぐれなタイミングなのは当然だろう。


「タバコ買って飯食って……どうしようかねぇ」


 近所にカラオケやゲームセンター、欲を言えば大型のショッピングモールでもあれば良かったのだが、そんな大層な店はこの美波にはない。

 あるのは暇を持て余した老人たちが世間話をしている築90年ほどの古ぼけた集会所と、昭和初期から続いている古臭い商店が数件くらい。あとはガラスの割れた公衆電話が二つほどあるだろうが、いくら暇とはいえ、そんな所にわざわざ行くほどセイジは物好きではない。


 しかし、ゲームや釣りをするのも飽きた。

 過去最大につまらない夏休みだ。そんなことを考えていると、セイジはシャツに汗がびっとりと染みついていることに気づいて、不快感を覚えた。


 新しいタバコを買うにしろ、家で飯を食うにしろ、少し日陰で涼んでから行こう。

 こんな暑い日に釣りをしようと考えた数十分前の自分を殴りたいという衝動に駆られながらも、セイジはふらふらと人気の無い港を歩いた。


「……川か」


 ふと、目に付いたのは川だった。川といっても自然にできたものではないが、それは国道247号線に掛けられたコンクリートの小橋の下を通って、チョロチョロと小さく弱く海に流れている。

 あそこなら老人たちは来ないし、誰の目も気にせず涼めそうだと思ったセイジは、ゆっくりとした足取りで橋の下に向かった。


 老朽化により崩れかけた石造りの階段をおりて、橋の下に潜り込むとセイジは地面に座り込んだ。少量ではあるが水が流れていることと、海が近いこともあって、日陰はかなり涼しい。彼の温まった体が徐々に冷えてゆく。


 手持ちのタバコはラスト一本。だが無性に吸いたくなったので、迷うことなく火をつけて口にくわえた。薄暗い橋の下に紫煙が燻る。海風に吹かれて、吐いた煙はどこかに流れていった。


 セイジの額の汗が滴るのと同時に、ガサッと物音が聞こえてきた。暑さでボーッとしたまま、彼は普段よりも覇気のない動きで下げた頭を音の聞こえた方へ向ける。


 ──そこに居たのは女だった。


「…………は?」


 セイジを訝しげに見るその女は、思わず自らの目を疑うほどの美しい顔立ちをしていた。


 日本人とも、しかして白人とも言い難い絶妙な造形。真っ白な肌に、日陰の中でも分かるくらい艶やかな水色のインナーカラー。そしてその双眸は不気味に淡く光っている。


 そして何よりもセイジの目を引いたのは、その下半身……本来ならば足があって然るべき部位に、まるで魚の尾のようなものが付いていた。


 彼女と目が合う。視線が交差して数秒か、はたまた数分か。互いに黙ったまま見つめ合い、セイジは時の流れが遅くなったような気がしていた。

 何となく気になって声をかける。


「……誰だテメェ。この辺りの奴じゃないな」


 開口一番に失礼な物言いであったが、これが彼のニュートラルな態度である。もちろん初対面の見知らぬ女相手に怒る理由はないが、それはそれとして不信感はあった。


 この美波の住民の顔は全員記憶している。そもそも人口からして彼の通う学校の一学年総員よりも少ないのだから、覚えられないはずもない。


 そんな廃れた美波に見覚えない顔があるというだけでも、現在進行形で暇を極めるセイジの関心を買うには十分だったが、それよりもこんな人目のつかない場所に隠れるように座る女の存在への不信感が勝る。というか下半身のあれはなんだろう。


「……そういうアンタこそ誰よ。用がないならさっさと何処かに行ってちょうだい」

「あぁ?」


 女は不機嫌そうに皺を寄せ、睨みつけるようにセイジを見た。まるで虫でも追っ払うかのような仕草に、セイジも自然と眉を顰める。


 この暑さもあるのだろう。苛立ち混じりに立ち上がった彼は、靴底ほどしかない川の水を踏みながら横切って向こう岸に座る女の元へ向かった。

 彼女は動かずにジッと彼を眺めていたが、その視線には強気な態度とは裏腹に怯えが混ざっている。


「どこの誰だよオマエ」

「……」


 女は黙りこくっている。近付けば、彼女の姿も先ほどよりもよく見えた。その特徴的な下半身──魚の鱗のようなものがビッシリと付いていて、美しい顔立ちもあって、彼女のその姿はまるで御伽噺に聞く”人魚”を連想させる。


 しかしながら、セイジはそのようなメルヘンチックな御伽噺の存在が現実にあると思っているほどピュアな人間では無い。


 故にセイジはこの時点で既に彼女のことをコスプレイヤーと断じて、何かのキャラクターの振りでもしているつもりなのだろうと考えている。

 コスプレイヤーならコスプレイヤーで、なぜこんな人目のつかない辺鄙な場所に居るのだろうかとセイジは内心首を傾げていた。


「名前は?」

「…………セラ」

「ほーん。で、こんなとこで何やってた訳?」

「アンタに関係ある?それ」


 数秒の間を置いて『セラ』と名乗った彼女は、大きめの岩に腰掛けて腕を組んでいる。


 すぐ側に寄ってきたセイジに、ぶっきらぼうにそう答えた。

 これで相手が男なら蹴りのひとつでも入れていただろうが、生憎同い年ほどであろう異性に手を出すほどセイジは落ちぶれていない。ヒクヒクと口角を引き攣らせながらも、彼は続けて問いかける。


「関係あるんだなこれが。この場所は俺の秘密基地みたいなもんでよ、町の爺さん婆さんは絶対に入ってこないから悪巧みには丁度いいワケ。ガキの頃からのオキニの場所に、知らん人間が居たら気になるのは当然だろ?」


 親と喧嘩して家出をした仲間なんかは、どこかへ行く前に必ずこの橋の下に向かう。そうして他の仲間と連絡を取って、夜中にここで合流して、愚痴を聞いてあげるのが彼らの恒例だった。

 他にもパトカーに追われている時とかにも重宝するし、この橋の下は小学生の頃から使っていた場所だ。秘密基地、という彼の表現はある意味で間違っていない。


 しかし、セラはその言葉を意味深に復唱した。


「人間、ね」


 彼女は自嘲気味にフッと笑う。物憂げなその仕草に、ますますセイジは疑問に思った。


「なんだよ」

「私、人間に見える?」

「そりゃそうだろ」


 なんだこいつ、と訝しげな目を向ける。下半身のよく分からないそれはともかく、その他はごく普通の人間だ。


「残念。私、人間じゃないの」

「ほー……」


 この不審なコスプレイヤーは、自らを人間ではないと主張した。確かに浮世離れした雰囲気や、その顔立ちを称するなら人間ではないと言うのは何となく理解できるが、セイジはそういう設定なのだろうとスルーし、続けて問いかける。


「人間じゃないなら何でこんなとこに?」

「見れば分かるでしょう。隠れてるの、追われてるから」

「誰に?」

「……」


 彼女はその質問には答えなかった。開きかけた口を噤み、ただ座っている。美人は何をしても絵になるというが、それはどうやら正しかった。


 話の真偽は兎にも角にも、セイジの関心は空になったタバコの補充や夏の日差し対策よりも今は彼女に向けられている。


 暇すぎるというのもあるだろう。

 せっかくの夏休みだというのに、誰とも遊べないのが続いていたから何らかの刺激が欲しかった。その矢先に、こんなあからさまな不審人物が目の前に現れたのだから彼の関心を買うには十分だ。


 セイジはセラの対面に腰をかけて、おもむろに麦茶を飲んだ。


「なぁ、自称人魚」

「……誰の断りを得て私の前に座っているのかしら。とんだ無礼者ね」

「どこの誰かも分からん相手に媚びへつらうゴマすり野郎とは違うんでね。礼儀を払う相手は選り好みするさ」

「タチが悪い」

「よく言われる」


 ははっ、と軽く笑いセイジは続けた。


「暇なんだ。面白い話のひとつやふたつ聞かせてくれよ」

「なんでこの私が貴方の暇つぶしに付き合わないといけないの。失せなさい」

「ここ俺の秘密基地で、お前は侵入者。追い出さないだけ有難く思えや」

「横柄な人間ね……」


 はあ、と頭が痛いかのようにこめかみを抑える彼女だったが、少し間を置いて諦めたかのようにため息をついた。


「……満足したらさっさと消えなさいよ」

「おーけーおーけー」


 空になったタバコの補充も、昼飯を食べに行くことも忘れて、セイジは目の前の女に意識を向けていた。可愛いからではない。ただ単に面白そうだったからだ。


 自らを人魚と称し、しかも追われているとかいうこの女の言葉を信じれるほど彼は純粋な人間ではなかったが、それらを抜きにして暇つぶし程度に話を聞くのは中々興味深かった。


 普段なら追っ払っていただろうに、話を聞かせて欲しいなんて頼むなどいつも彼なら有り得なかった。本人にもその理由は分からなかったが、何故かそうしたいと強く感じたので素直に従う。


 彼の勘はよく当たるのだ。

 直感に従って動いて、悪くなった試しはない。

 自らの勘がこの女の話を聞くべきだと訴えるのならば、この場はそうすべきなのだろうとセイジは思ったのだ。


「──んで、自称人魚サマは普段海の中で何食べてんの? 魚?昆布?」

「蟹」

「グルメだなぁ……」


 とはいえ彼女の話を聞くといっても、結局会話というよりも一方的な質疑応答のカタチとなった。


 なにせ彼女はセイジに自分の話を聞かせるつもりは欠片もなかったし、話の種となりそうなものも思いつかなかったからだ。


 日にやられて頭が大して回っていないセイジは、ぱっと思いついた質問をセラに訊ねてはぶっきらぼうに返される。



ㅤ自称人魚の不審なコスプレイヤーとの突然の邂逅は、セイジが思っていたよりも割と平和的に始まった。

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