淡緑の五月雨

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第1話

川島雄太、高校2年生。街に隣接する小さな山の中腹にあるペンションのような一軒家に暮らしている。父は雄太が生まれた時には他界しており、母は研究職として海外研修中だ。


「雨か……」


雄太が起きると、家の中に木々の葉に雨粒が当たる音が流れていた。雄太はこの音をかなり気に入っている。


雄太は起き上がって朝の一連の準備を済ませ、いつもの朝食を食卓に並べた。納豆、卵、熱々で大盛りのご飯、青汁。いただきますを唱えた雄太は、納豆と卵を豪快にご飯の上にぶっかけた。今日は醤油をチョロリとかけて混ぜ、納豆卵ふわふわ丼を錬成する。雄太はこれで栄養バッチリと考えている節があるので、毎朝のようにこれを食べている。


今日もこれらを食べ、ごちそうさまもきちんと唱え、シンクに食器を並べて水を浸し、歯を磨き、ゴミと荷物を持って家を出る。起床から流れるような動きで、雄太は学校に向かうのだった。


登下校は山道のため、足腰は割と強い方だと雄太は自負している。右手に傘を持ち、イヤホンから流れるいつもの音楽に脳を震わせ、山を降りていた。その時、イヤホンから着信音が鳴った。


「こーんにちは」


母である。


「おはよう母さん、お昼時?」

「そ、今日はどう?」

「雨、森がいい匂い」

「こっちは乾いたアスファルトの匂いよ」

「いい天気なんだ」


言葉では少し嫌そうにも感じるが、声色的には上機嫌そうだ。


「今日は研修の中でも大きいイベントでね、さっきまで講演台に立ってたのよ」

「すげえ」

「このあとは日本のミツカシラ製薬のお偉いさんも交えて討論会」

「ぎゃ」


ミツカシラ製薬とは、世界に誇る日本の製薬会社である。薬局運営から市販薬の製造までなんでもこなす、薬品業界の最大手だ。


「そっちは?」

「国語生物地理数学飯食って美術美術」

「午後楽じゃん」


雄太の母は彼のいう呪文のような時間割を1発で聴き当てる。さすが母親、と言ったところだ。


「まあね、行ってくるわ。母さんも頑張って」

「ん、ありがと。じゃね」


通話が切れる頃には、山の麓に降りていた。麓の入りてすぐの信号を待っていると、同じ高校の制服を着た生徒が何人か目に入る。この交差点は山の麓に住む人が高校に行く際に高確率で通過する交差点となっている。その何人かに、見知った顔があった。


「和葉ー!」


山本和葉、高校2年生、幼馴染。幼稚園からの仲で、家族ぐるみでの付き合いがある。一度の呼びかけではもこうも気づかなかったらしく、もう一度呼ぼうと雄太は息を吸って左腕をあげた。


「かずh –––」


刹那。


目の前を、一人の女子生徒が通りかかる。


人を見て鳥肌が立つという経験は雄太の人生において今までになかったし、そもそも鳥肌が立つ時はだいたいネガティブな感情になったり印象を受けたりした時である。


ただ、その時は違った。


一瞬で惚れていた。


言葉も、息の仕方も、立ち方も、頭の回し方も、心臓の動かし方も、何もかも忘れたように、


雄太の体は止まってしまった。





「–––うた!雄太!」


ゆ、う、た。


雄太の脳が、自分の名を認識する。自分の名を呼ぶ人がいる。ここまで気づいて、やっと雄太は我に帰った。


「ああ、和葉、おはよう」

「大丈夫?失神したみたいに立ち尽くしてたけど」


いくら幼馴染とはいえ、一目惚れしたと今ここでいうのは非常に恥ずかしい。僕は適当に誤魔化すことにした。


「いや、大丈夫。今左肩上げたのでパキッて言ったからさ」

「それは心配になるやつだ」


和葉は察してか察せずか、僕の言ったことをそのまま受け止めてくれた。


「今、時間何時だろう」


彼女はカバンにスマホ入れがちなので、よく時間を僕に聞いてくる。僕はスマホを見て、思ったより時間に余裕があることに気づいた。


「7:50。登校時間までまだまだあるわ」

「どうする?コンビニ寄る?」


和葉は朝時間があるとコンビニで買い食いをする癖がある。


「太るよ」

「ぐ」


僕は固まる和葉を横目に、学校へと足を進めた。


「あ!ちょ!!!」


和葉が慌てて追いかけてくるが、僕の頭は一目惚れした女子生徒でいっぱいだった。彼女は何者なのだろう、なぜ今までこの道で見かけなかったのだろう。


静止していた頭の回転を取り戻すように彼女のことを一生懸命考察したが、出た結論は「わからない」のひとつであった。

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