渚のポスト

呼詠

渚のポスト

 渚はいつだって、この広い世界のポスト。受け取り手のいない孤独な郵便物が、長い長い航海を経て、今日もここにやってくる。

カモメとウミネコによる贅沢なアラームで起こされて、部屋のカーテンを開けると、雲一つない蒼天と、流れる時間に身を委ねてゆらゆらと揺れる碧海が、私のことを待っていた。

急がなきゃ。と私は、クラゲの絵が描かれたコームを、首元までしかない茶色の髪にガシガシと当てながら、部屋から出た。階段の下から漂ってくる美味しそうな匂いに身体が引っ張られて、そのまま下へ降りる。その時お腹が、大きい音を立てた。

「おはよう、サキ。今日はフレンチトーストを作ってるから、そこの棚からはちみつを運んでちょうだい」

東の空から差し込んでくる光をレースカーテン越しに浴びながら、キッチンにて少しクリーミーな黄色の卵にパンを浸しているのは、私のママ。今日も長い黒の髪をお団子に縛って、私のわがままなお腹を満たすためにフライパンを握ってくれている。

「おはようママ。今日は天気がいいね」

「そうね、最近くもりが続いてて、風も強かったから良かったわ。今日は外の木も揺れてない」

そうママに言われ、海の見えるリビングの窓を覗くと、まるで一時停止した映像のようにピクリとも動かない木とご対面。もう九月になるとはいえ、ここまで風がないと暑いだろうな、と考えながらテレビをつけて椅子に座ると、ちょうどママが朝食を運んできた。

「まだ全部は出来てないけど先に食べてな、どうせ今日も行くんでしょ。ゴミ拾い」

ママはそう言いながら、片手で運んできたお皿に、フライパンに乗ったあつあつのフレンチトーストを乗せた。

「もう。ゴミじゃないってば。たまにアクセサリーとかも流れてくるでしょ」

「あのねぇ、誰が持ってたのかも分からない物なんて気味が悪いわ。もしかしたら故人の持ち物かもしれない・・・ひえっ」

ママはキッチンに戻りながら、少し暑いこの室内で寒さを感じるふりをした。

「でもママ、昔のファンタの缶が流れて来た時は凄い興奮してた」

「あれは・・・昔パパとよく飲んでた頃のデザインだったから」

「じゃあ、ゴミじゃないでしょ?思い出を運んできてくれたから」

狐色の焦げ目がついた黄色のトーストにはちみつを垂らしながら私がそう言うと、ママは参ったという顔をして、また料理に戻って行った。

 先に出された一枚を食べ終わった頃、ママと共にもう一枚のフレンチトーストがリビングに現れた。椅子を引き出すガコンという音と共に、適当につけていた朝のテレビ番組が、ママの手によってニュース番組に変えられる。そのことを気にもせず、ただ出された出来立てのトーストをはちみつまみれにして食べていると、天気予報が終わり、次のトピックが映し出された。

(観光船転覆事故から五年・・・)

「あー・・・こんなこともあったね、この辺の海だったんだっけ」

「らしいわね。ニュースの内容まで見るなんて珍しい」

ぼんやりとしながら、テレビに映された映像を見る。中型くらいの観光船が、海から引き上げられている。錆びた船体の至る所に海藻や木の枝などが絡まって、これが廃船だという事実を、固くしている。

「ねぇママ、海は、深いのかな」

「深いわよ」

「そっか」

 この広い海の中で何が起ころうと、郵便物は波に乗せられてやってくる。誰が送ったのかなんて分かりやしないけれど、私はそれを受け取って、箱に詰める。誰かの思いを、最後まで無駄にしないように。

「いってきます」

そう言ってまた私は、外へと繰り出した。

かなりの暑さを想像していたが、流石に真夏の炎天に勝る物ではなかった。波が来ても濡れないように一応ショートパンツで家を出たが、少し肌寒い。とは言ってもまだ午前だし、これから暖かくはなるだろう。照りつける太陽に、もう少し頑張って、と伝えるように目配せをして、私は軽い足取りで渚の方へ駆けていく。

 ぱっと辺りを見た感じ、今日は少なそうだ。日曜日だから、海の郵便局も仕事を減らしているのだろうか。そう思いながら波に乗せられてやってきたであろう貝殻を拾い上げると、その下で休んでいたフナムシの家族が慌て出した。

「おっとごめんね。君らの家だったの」

私はそう言って、元の場所から少し離れた砂浜に貝殻を戻した。あのままだと、フナムシ一家も波にさらわれてしまう。

彼らが家へ帰っていくのを最後まで見た後、私は今日の郵便物を探しにまた歩き出す。次は何が見つかるだろうか。砂を踏む足音が、波の音にかき消されるのを聞きながら、下を向いて歩く。そうしてるうちに私は、砂で包まれた四角い物体を見つけた。

「なにあれ、あっ、流されちゃう」

明らかに捨てられたものでは無さそうなその物体に少し呆然としていると、少し強めの波が押し寄せてきた。

「危なかった、拾えた」

流される間一髪のところで、私はその物体を拾うことができた。だけど実際に持ってみると、ちょっと重さがあったからもしかしたら流されなかったかもしれない。

「こんなものよく流れて来たなぁ、なんだろう。本?」

私はその少し重い物体の正体を確かめるため、まとわりついた砂や海藻を取り除いた。そしてだんだんと、その形が見えてくる。それは、本だった。表紙には何も書かれていない。外側が革で作られていて、重厚感のあるものだ。とは言え、ページ数はあまりなさそうだから、重かったのは紙の部分が海水を含んでいたからだろう。

私の中にある好奇心が襲う。表紙には何も書かれていない、流れ着いた本。そんなの読まずにはいられない。私の欲の手が、本を開く。


(2015年9月1日 何もない私でも、せめて何かを残しておこうと思って誕生日の今日、都内の書店にて日記帳を購入しました。将来の夢を記入する欄もありますが、今のところ埋める予定はありません。こんなことでいいのかな、日記って。)


私が開いたその本の最初のページには、そう書かれていた。

「これ、本じゃなくて日記?文体的に女性かな。しかも五年前のだし。なんで海になんて・・・」

そんな疑問が現れても、私はページをめくる手を止めることはない。知りたい欲求は、止められない。


(2015年9月2日 今日は大学で、海の環境に関する講義がありました。プラスチックのゴミのことや、オーストラリアの珊瑚礁のことなど、さまざまな問題があることを知りました。海が綺麗な物だなんて、真面目に考えたことはなかったけれど、私はそう言う物触れていきた方がいいのかも。海、行けないかな。)


(2015年9月3日 今日は学校の帰り、一人で水族館へ行きました。あまり人生の中で、こういう所に行ったことは無かったけれど、クラゲが、幸せそうに見えました。流れに身を任せて、漂うだけ。私もそうなりたいな。)


なんの偶然か、海によって流されて来たその日記の内容は、海のことばかりだった。そしてその日付は、だんだんと今日の2020年9月5日へと近づいてくる。私はまだ、めくる。


(2015年9月4日 今日は大学が全休だったので、一日中インターネットの海を漂っていました。でも、いつもと違って今日は成果がありました。なんと、観光船の広告を見つけたのです。それもたまたま、満員だったところ、一人が予約をキャンセルしたらしく、最後の一つ。私はもう衝動で、予約しちゃいました。しかも明日。やばい、準備しなきゃね。)


次をめくれば、何も書かれてないのだろうか、それとも私の憂慮は、的外れになって、この先も日を重ねて、日記が書かれているのだろうか。

「これ、5年前って、あの事故だよね」

私がそう、ぽつりとこぼすと、今まで全く吹いていなかった風が急にサーっと吹いた。その風で、少し乾いて軽くなっていた本のページが、一枚、めくれた。


(2015年9月5日 今日は、広い海の真ん中でこの日記を書いています。ちょっと周りの声が、騒がしいな。今日の日記、書き終えられるかは分からないけれど、どうせ誰にも読まれることなんてないだろうから、好きなことを書きます。もしも読まれていたら、恥ずかしいけど。海は、怖いですね。きっと深くって、青なんかじゃなく黒くって。だからみんな叫んでる。でも私はこれでもいいな、なんて。一昨日に見たクラゲのように、流れに身を任せて、ずっと漂っていたいから。できた夢もこれできっと叶う。もしも私の身体が掬われても、この日記だけは、この海を旅してほしいな。自分の体なんかよりも、本当の私の気持ちが、書いてあるから。長くなったけど、これが最後です。もう、声は全部消えました。)


たったの数ページの日記。それを読み終えただけなのに、莫大な量の喪失感が私の未熟な心を握りつぶす。点と点が繋がったスッキリとした感覚も、あるわけがない。次のページには何もないことなんて、めくらずとも分かる。

何も知らない幸せなウミネコが、流木の上に止まって、私の方を見つめていた。

「こんな郵便物、どうしてあげればいいのさ・・・!」

自分のことじゃなくても、体が震える。船の上で起こったことを追体験した私は、目の前の海が、怖くなる。

「わっ、冷た?」

日記の内容に夢中になって、場所も変えずに読んでいた私に、ここは海だぞと知らせるように波が押し寄せた。それに驚いた私は、手にしっかり持っていた日記を、また渚に落としてしまった。その拍子に、日記のページがまためくれた。


(アナタの夢をここに! ・世界の海を、波に任せて旅がしたいなぁ。)


そこに書かれていたのは、最初のページで埋まることはないと言っていた、将来の夢のページだった。海水によってぐちゃぐちゃになってしまったそのページは、しっかりと埋められていた。

「そっか。夢の途中、邪魔しちゃったみたい。でもそんな身体じゃまた、沈んだり漂着したりしちゃうよ」

私はこの日記の主の願いを叶えるため、もう一度この海に日記を流そうと考えたが、書かれたページは少なくても、本としての重みがあるため、もう流されることはないと思った。

「どうしよう、これ」

考える、なにか方法はないかと。別に元は他人の所有物だし、放っておけばいい物だが、私はこの渚に流れ着く郵便物を、放ってはおけない。家に何かあったっけ、この辺に何か落ちてないかな。

そう思いながら、私は辺りを見渡す。さっきは肌寒かった空気も、真上にある太陽のおかげで少しぬるくなっていた。

「あっ、あれ」

私は、渚から少し離れた砂浜に、太陽の光が反射して光るものを見つけた。それは、この前の休日に、きらきらと輝く砂を集めていれておいた小瓶だった。半分使った色鉛筆が三本ほど入るくらいの大きさの小瓶で、これも流れ着いたものだ。

「そうだ、これに書かれたページだけを丸めて入れよう」

そうすれば、重さで沈むこともないし、紙が海水に濡れてぐちゃぐちゃなることもない。

私は、日記が書かれたページを、破けてしまわぬようにゆっくりと切り離していった。彼女の思いを、また海に漂わせるために。一枚一枚優しく離して、丸めていく。夢が書かれたページも一緒に。最後に切り離すのは、5年前の今日の日記。乾き始めていたそのページの一部分には、水滴が一つ、ぽつりと垂れた跡があった。

「よし、これで瓶に蓋をして・・・」

一人の人間の思いと夢が詰まったその小瓶は、心なしか透き通って見えた。私はそれを海水に浸すと、いってらっしゃいと一つ声をかけて、手を離した。波に攫われたその小瓶は、私が目を離すまでずっと、太陽の光を反射し続けていた。

 後からママに聞いた話だけど、5年前の事故での犠牲者の数はたったひとりだったらしい。


 今日もこの海は誰かの思いを運んでいる。思いを乗せた郵便物は長い海の旅をして、また、どこかの渚のポストにでも流れ着いて、一休みする。



 



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