前編その2

 透真は、自室に大型のキャリーケースを持ち込んで広げると、荷造りを始めた。


 貴重品を入れ、自分が使っている食器を取ってきて割れないように服にくるむ。そのほか生活雑貨を詰め込んでいくが、透真は自分が思っていたほど物が無いことに初めて気付き、愕然がくぜんとした。ケースを全て埋められるほどの物は無かった。


 圭子に別れを告げられる前に、自分の心が彼女から離れていたことを事実としてあらためて突きつけられた。


 このキャリーケースも5年前に買ったのはいいが、1度しか使っていない。圭子と二人で旅行に行ったのだが、その行先で盛大な喧嘩をした。それ以来、旅行にも行っていない。


 ――なんで、彼女と付き合っていたんだろうな。


「はぁーーー」


 頭に浮かんだそんな思いとともに、思わず、透真は特大の溜息を吐いていた。


 荷造りの最後に、隠していた場所から指輪ケースを取り出した。


 一度だけプロポーズをしたことがある。


 株の投資がうまく行って、夫婦二人で数年は働かなくてもやっていける程度のまとまったお金を稼げて、個人投資家として一本立ちできる自信が出来たから。


「結婚しないか」


と透真は告げたのだが、それに対する圭子の返事は、


「ごめん。まだ、声優の夢を追いかけ続けたいの。今、それに応えてしまったら、心が折れてしまいそうだから、なかったことにしてくれない?」


 しおらしく言う彼女の言葉に、透真は引くことしかできなかった。一緒に用意していた指輪のケースは隠されたまま、今日まで一度も表に出ることなく来た。


 ――これ、残していったら、リユースショップ行きになるだろうな。

 ――それはそれで腹が立つ。


 手にした指輪のケースに透真はそう考え、無造作にキャリーケースに入れ込んだ。 


 ――結局は腐れ縁だったということか。


 キャリーケースを閉めた。そして、部屋から出ると、投げやりに、


「ケースには入らないベッドなどの大物は残していくから、処分するなり、仕事部屋に送り付けるなり、適当にしてくれ」


 もう玄関の方に身体を向けながら圭子に告げた。いい加減な返事しか返ってこないと考えていたのだが、予想外の言葉が後ろから投げつけられた。

 

「そうだ、透真。母さんが地元に帰って来るなら、透真のお父さんに仲直りの口をきいてあげると言っていたけど、どうする?」


『何のために、お前を東京の大学に入れたと思っているんだ? 投資家なんていう胡散臭うさんくさいバカなことやるな! そんなことをするくらいなら、こっちに戻ってきて、適当な会社に入り込めばいいんだ!』


 圭子の言葉は、大学を卒業した時に父親から投げつけられた台詞を透真の脳裏に呼び起させた。


 頑固で偏見持ちの父親の言葉に、自身の全否定と受け取った透真は、売り言葉に買い言葉で、


『そんなこととはなんだ! 胡散臭い? どんなことをしているのか全然知らないくせに、勝手なこと言うな!』


と返してしまった。


 流石に、取っ組み合いの喧嘩を始めるほど互いに血は上ってはいなかったが、その一歩手前だった。


 透真の母が健在であれば、間に入って仲を取り持ったのだが、透真が大学1年生の時に交通事故で死んだ。


 以来、そのまま、没交渉だったものの、透真はまだ切欠があれば仲直りをするつもりはあった。少し前までは。


>>家をリフォームするから、金よこせ


 そんな父親からのメールが1年位前に届いて、


 ――そりゃあ、向こうから素直に頭を下げてくるのは期待していなかったけど、これはないだろ。

 ――久しぶりの連絡が、こっちの様子を尋ねてくるものだったり、向こうの様子を伝えてくるものでもいいだろ。

 ――金の無心は、最低でもないだろ。

 ――親のプライドは無いのか? いや、プライドがあるからこれなのか?


 完全に呆れてしまった透真はそのまま無視していたのだが、何度も同じメールが届くに及んで、ブチ切れた。


>>久しぶりの連絡が金の無心か?

  それ以外の言葉は無いのか?

  この最低親父


 そう返事を返すと、今度は電話がかかってきた。電話に出なかった。


 出なかったら、何度もかかってきた。最後には着信拒否した。


 そして、今に至る。地元に帰る選択肢は欠片も無い。帰省で一時的に戻る、そんな選択肢も無い。透真の中に、実家、故郷、そうしたものは無くなった。


 ――そっちは親と仲直りしたのか。だから、仲を取り持ってやる?

 ――大体、誰のせいだと思っているんだ?


 込み上げてくる感情を言葉にして吐き出す。家族、親戚といった頼れる人がいない、大学生の時はバイト三昧だったから友人もいない、個人投資家と言ってもネットで完結してしまうが、ネット繋がりの知り合いもいない、バイト繋がりの限られたわずかな知り合いだけ、そんな東京でこれから一人で生きていく実感とともに。


「大きなお世話だ!!」


 部屋の鍵を投げ捨てると、透真はそのまま外に飛び出した。



 *



 圭子は透真から一度だけプロポーズをされたことがある。


「結婚しないか」


「ごめん。まだ、声優の夢を追いかけ続けたいの。今、それに応えてしまったら、心が折れてしまいそうだから、なかったことにしてくれない?」


 透真の言葉に表面上はしおらしく返した。まだ、この頃は、透真に養われていることに対して感謝の心を一応は持っていた。でも、内心は、

 

 ――空気を読まないバカ!


 だった。あるスマホアプリゲームのキャラクターのオーディションで良いところに行っていたから。当時のマネージャーからも、


「今度はうまく行けるかも。手ごたえがあったわ」


 そう言われていたし、自分でも手ごたえを感じていた。合格すれば、主役ではないが、準主役くらいの役を務められる。


 とは言え、手ごたえがあっても、合格ではなく、不合格の通知が容赦なく届くことは数知れず。


 ――今回もそうなるのでは。


 不安と期待が入り混じる不安定な精神状態だった。


 もっとも、そんな精神的に追い込まれた状態ではない時でも、プロポーズを受け入れていたか、はまた別で。


 ――個人投資家?

 ――そんな不安定で得体のしれない職業はない。100パーない。

 ――有名大手企業の社員か、せめてどこか地方でもいいから公務員だったら、考えてもいい。


 なお、透真が企業に就職しなかったのは、生活費を稼ぐバイトで、大学を卒業するまでに就職活動が出来なかったせいだったりする。


 それから、圭子のその時のオーディションの結果は不合格だった。


 ――……ぅ。


 マネージャーからその連絡が来た時、これまで圭子の心の中にあった確固とした自信に大きな、とても大きなひびが入った。




 確かに、圭子は透真と付き合っていた。


 高校生の時は、透真のことを優しくて格好良いと思っていた。周りに透真より格好良い男がいなかったから。


 東京に出てから、よりお洒落しゃれで格好良い男たちを見て、逆に、ダサくて格好悪いに変わってしまった。 それは、バイトが忙しすぎて透真に身の回りのことにまで気を回す余裕がなかったこともあったが、圭子は気に止めなかった。


 むしろ、声優活動を始めた頃に彼がしばしば口出ししてくることに反発した。


「何も知らない人間が余計な口出しをするな!」


 透真が口にした余計な一言が彼女の心に幾らかのダメージを負わせたのは確かだった。


 けれど、上を目指すための努力をしなくなったのは彼女の問題だった。


 それでも、


 ――声優の世界で上を目指せなくなったのは、全部、透真のせいだ。


 責任をなすり付けていた。


 今では、彼女の中の透真の評価は「ダサくて無神経な底辺の男」だったし、その価値は「金を出すATM」だった。


 ――高校まで同級生で、金を全部出しているからルームシェアの相手として置いてやっている。


 その程度だった。


「ケースに入らないベッドなどの大物は残していくから、処分するなり、仕事部屋に送り付けるなり、適当にしてくれ」


 キャリーケースを引きずって部屋から出てきた透真の後姿を、圭子は道端の石を見るかのような視線で見る。


 透真に自分とは別の女の影を敏感に、そしてとっくの昔に察していた。


 だけど、透真の後をつけて見かけた女性のくたびれてすすけて陰気な姿を見て、


 ――お似合いね。


 流行のファッションで着飾った自分の姿と比較して優越感を感じたことで、満足して放置した。

 

 同時に、彼女の中の透真の立ち位置は完全な底辺に堕ちた。


 だから、今回、彼がほとんど何も言わずに部屋から出ていくのも、


 ――ごねられなくてラッキー。


 そのくらいにしか感じていない。「別れたくない」「捨てないでくれ」と泣いて懇願されたら蹴飛ばしてやるつもりだった。


 とは言え、同棲相手に全て面倒を見てもらっている自分の姿が周りからどのように見られていたのかは、圭子は知らなかった。経済的に恵まれた境遇に胡坐あぐらをかいている様を周りがどのように評価していたのかも、彼女は知らなかった。事務所の先輩から可愛がられるタイプではなかったし、後輩から慕われるタイプでもなかった。一緒に事務所に入所した同期はいなかった。事務所から見たら、その時の圭子の周りにいた「声優の卵」たちは、抜きんでた存在がいない、圭子も含めて団栗どんぐりの背比べの状態だった。その中で、圭子が頭一つ抜けた美人だったから、担当者は彼女に声を掛けた。


 でも、それで「声優」として大成できるのか?


 圭子が「ブス」と評した1期上の先輩は、着実にキャリアを積み重ねて海外映画の吹き替えを主戦場としつつある。「地味」と評した1年後に入ってきた後輩は、圭子が狙っていたスマホアプリゲームのキャラクターの役を射止め、先日もそのゲームのリアルイベントに出ていた。


 あれだけ憧れた声優の世界に「未練が無い」と言ったら嘘になるが、圭子はもう自分の才能に見切りをつけていた。 


 ただ、透真の後ろ姿で思い出したことがあったから、彼に声を掛けた。 面倒とも思ったが、幼馴染ゆえに言わなかったことがどこからかバレると、


 ――母さんからの小言がうるさい。


 と思ったから。


「そうだ、透真。母さんが地元に帰って来るなら、透真のお父さんに仲直りの口をきいてあげると言っていたけど、どうする?」


 家出でギクシャクしていた圭子と両親の関係は修復されていた。「たまには家に帰ってきなさい」と電話での母からの誘いに乗って久しぶりに帰省した。その際、東京の水で完全に垢抜けた娘の一瞬他人と見違えた姿を見て、


「東京でも上手くやっているみたいじゃない」


と母から言われ、父からも認められた。


 そうなるように、服を新調して、爪もネイリストに頼んで、髪もサロンに行ってトップ美容師を指名して、出かける朝も2時間以上かけてメイクを行う、そんな万端な準備を圭子はしていた。もちろん、必要となったお金の出所は透真の財布。


 だから、これから出産、育児で両親の手を借りる気、満々だ。


 反対に、透真の家族事情を圭子はほとんど知らない。知りたくもない。透真とその父親の関係がぎくしゃくしていることは、自分の母親から聞いて知った。関心はない。


「大きなお世話だ!!」


 部屋の鍵とともに吐き捨てて飛び出していった透真の様子を見ても、圭子の道端の石を見るかのような視線は変わらない。「ダサくて無神経な底辺の男」に「無関係な赤の他人」が加わった。


「あっ、そっ。『大きなお世話』ねー。折角親切心で言ってあげたのに。じゃ、鍵を作りなおそう。あいつがもう二度と入ってこられないようにしないと。ああ、キモイキモイ」


 スマホを操作して、透真の連絡先を全てブロックしたうえで削除した。

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