広がる悪意

ケルザレム西区の労働所。

ヒストリアは、労働所の全てのネクサスたちの意識を奪うことに成功していた。代わりに、彼女の魔力はからっきしになってしまい、同時にふらふらになっていた。


魔力枯渇による肉体疲労だ。魔力は生命の営みに、それなりに作用する。それが空っぽになれば、運動しているわけでもないのに、体が疲れたような感じになるのだ。


「だ、大丈夫かい?」

「平気です。すこし休めば、治りますから」


大仕事を終えたヒストリアに対し、ヘイモアは心配そうに駆け寄ってきた。周囲にはネビルの監視者たちも集まっていて、みんな一仕事終えたようにくたくただった。


眠りの魔法を広範囲に放っている間、ネクサスたちは暴れに暴れ狂って、取り押さえるのがやっとだったのだ。相手を傷つけず、無力化するのは、案外難しいものだ。なにせネビルたちは、戦闘に役立つ知識もなければ、正規の兵隊でもないため、そう言ったことには慣れていないのだ。


(それにしても、ネクサスたちの苦しみ様は、なんだか・・・)


見ていて気持ちのいいものではなかった。白目を向いて天を仰いだり、胸を押さえて絶叫したり、何も事情を知らなければ、狂人にしか見えなかっただろう。


事態が収まって、ヘイモアは例のガラスの望遠筒で、黒い靄の動きを監視している。ヒストリアも見せてもらったが、騒動が起きている時の、黒い靄の動きは異常だった。人に魂があるかどうかはわからないけど、まるで魂が抜けていくように、黒い靄がどこかへ飛んでいく姿。ネクサスたちは、それに苦しんでいるようにも見えた。


「はぁ、とりあえず、ヘイモアさんたちに力を貸したけど、これからどうしようかな・・・」


そう独りちても、それに答えてくれる人はいない。いつもなら先生がああしなさい、こうしなさいと、いろいろと面倒を見てくれていたのに。こういう時、ヒストリアはどうすればいいかわからなくなる。


それは経験が無いからなのか、単に子供だから思慮に欠けるのか、それすらもわからない。考えを巡らすだけで、次の行動に移すには、的確な助言か、偶発的な状況の進展がなければならない。


もっとも、真に優秀な者であれば、そんな思考をする間もなく、勝手に体が動いているのだろうが・・・。


そんなわけのわからないことを考えていると、いつからそこにいたのか、大型犬くらいの大きさの狼が、ヒストリアの側にお座りしていた。


「あなた、いつからそこに!?」

「へっへっへっへっへっへっへっへ」


どういうわけか、その狼は舌を出して、尻尾をブンブン振っている。別に食べ物を持っているわけでもないし、人懐っこいにしても、随分警戒心がないものだ。


ヒストリアは、おもむろに手を伸ばすと、狼の顎を撫でてやった。狼は唸り声も上げずに、素直に顔を上げ、気持ちよさそうにしていた。

それから頭に手を置いて、ぽんぽんしても、一切嫌がる様子も見せない。

動物に懐かれるのは、先生の専売特許だったのだが・・・。


しかし、狼の顔を間近に見て、その目に見覚えがあることに気づいた。


「・・・おまえ・・・」


薄紅色の瞳だった。よく見なければ、それがことには、気づかなかっただろう。


「もしかして、先生の?」

「・・・ヴォエッ!!」


(・・・あんまりかわいくないな、こいつ)


変な鳴き声だが、どうやら先生が遣わした子らしい。眷属?あるいは使い魔とでもいうのだろうか?

なにはともあれ、心強いことには変わりない。


とりあえず、ヒストリアは狼を、アキ、と名付け、そのふさふさの体をぎゅっと抱きしめた。

その体は、とても暖かく、アキの中でまるで火が燃えているような熱だった。


「ヒストリア君。ちょっと、いいかな?」


そうこうしていると、ヘイモアが戻ってきていた。


「あ、はい。なんでしょう?」

「ん?その子は?」

「えっ?あぁ、どこから来たのか・・・。なんだか懐かれちゃって」


この際、先生の犬の説明はいいだろう。ヒストリア自身もよくわかってないのだ。本人が来ないところを見ると、おそらく向こうも手がかかりっきりなのだろう。


「またネクサスが暴れだす前に、対策を考えないといけない。なにか、思い当たることはあるかな?」

「思い当たること、ですか・・・」


ない、と言えばうそになるかもしれない。実際、つい先ほどまで、ヘイモアと黒い靄が受け継がれる可能性について、話していたところだ。彼もそれを考えているに違いないだろう。


問題は、ネクサスたちの黒い靄が、どこへ消えたかだ。

我を失っていたネクサスたちの靄は、明らかにどこかへ飛んで言っていた。その行く先までは観測できなかったが、どこかへ引っ張られたか、吸収されたと考えるのが妥当だろう。


なら、どうやって、あるいは誰に、というのを考えるべきだろう。


「この国のどこかに、黒い靄を集めるような場所が、あるんじゃ

ないですか?」

「確かに、さっきの黒い靄の動きは、何か引き寄せられているかのようだった。けど、そんなことして、いったい何になるんだろう?」


何になるのか。それは彼の研究とは全く関係の無い事だ。だからこそ、彼はそれについて考えを巡らすことは無かったのだ。


黒い靄が集まることで起こる惨劇。ヒストリアも詳しくは知らない。ただ、もし、かつてのヒストリアの本当の故郷。アールラントでの出来事が、黒く染まった者による事なのだとしたら。

黒い靄が集まることで起こる変化とは、ヒストリアの母親のことではなかろうか?

下半身は巨大な軟体生物と化した、あの異形の姿が、黒い靄によって引き起こされたのなら、この国のどこかにも、そのような存在がいるのではないだろうか。


「もしかして、学生が集められるのも、そういう理由なのか?」

「誰かに黒い靄を集約するため・・・」


ヘイモアは、特に動揺するでもなく、冷静だった。自分の研究があまり意味の無い事と感じているはずなのに。黒く染まる現象は、それほどまでに彼を夢中にしているのだろうか。


「ヴォエッ!」

「うぇぇ、何?」


唐突にアキがヒストリアのスカートの裾を噛んできた。ヒストリアは、アキを離れた所へ連れて行き、


「どうしたのさ?」

「ヴォっ、ヴォっ!」


何かを訴えているのはわかるが、さすがに狼の声はわからない。

獣は人なんかよりも、よっぽど警戒心が強い。ましてや、先生の犬だ。何か危険が迫ってきているのかもしれない。


そんなヒストリアの想像の通り、不穏な存在は空から降ってきた。

ネクサスたちが横になっている場所に、勢いよく何かが落ちてきたのだ。

辺りは騒ぎになり、衛兵たちが集まっていく。


「はぁ、いったいなんだっていうんだ。」


ヘイモアがそうぼやいているが、騒ぎの声は、すぐに悲鳴へと変わった。


「なんだアイツは!?」


誰かがそう叫んだ。そして、次の瞬間には、落下地点に集った衛兵たちは、まるで何かに殴られたかのように、放射状に吹き飛ばされていた。


「ば、化け物だぁぁぁぁ!!!」

「えっ?」


ヒストリアも、現場に駆け寄ってみると、そこには黒い兎の耳を生やした少女が、その口に衛兵の胴体を咥えて持ち上げていた。

一目見てわかる。人の顎でそんな芸当が出来るはずない。それを成し得るのは、異常な力が働いているからだと。


少女を取り押さえようとした衛兵たちは、瞬く間に倒れ伏し、少女は見境なく暴れだした。


「逃げろ!逃げろぉ!!」


誰かが悲鳴交じりに叫んでいる。少女から離れようとして、人が波のように流れていく。そんな中、足をもつれさせた者は、少女の餌食となった。


「ヘイモアさん、逃げないと!」


ヒストリアも、ヘイモアの手を取って引っ張ろうとした。だが、当人はどういうわけか、暴れまわっている少女に釘付けになっていた。


「・・・?ヘイモアさん?」

「・・・すごい」


彼は黒い靄が見える望遠筒を見ていた。


「あれが、学生の正体・・・」

「ヘイモアさん!!」


大きな声で呼びかけても彼の視線は、獣人の少女が、人々を蹂躙する光景から離れなかった。

彼は研究者だ。自分が何をしているかをわかっていながら、多くの非道に目をつむってきた。しかし、その結果、何を生み出したのか。その成果を知った時、それを作り出したものは、得てして、恍惚な笑みを浮かべるものだ。


ヒストリアは、ヘイモアの表情に、その気色けいろを見たのだ。

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