動き出した悪意

ネクサス労働所は、パニックになっていた。

多くのネクサスが、胸を押さえて苦しんでいる。ある者はじっと体を震わせて、ある者はじたばたと痛みに喘ぎ、ある者は白目を向いて手を仰いでいる。

数が少ないネビルは、それらの対応にてんやわんやしている。到底対処しきれる状況ではない。


「これは・・・」


現場についたヘイモアは絶句していた。正直なことを言うと、彼が来たところで、この状況を打開できるとは思えない。彼は医者ではない。ただ、黒い靄について、詳しいだけだ。原因が、靄にあるとしても、それをどうにかできる術を持っているわけでもない。

だが、監視の責任者的立場として、何もしないわけにはいかないのだろう。


「あぁ、ヘイモアさん、よかった。来てくれたんだな。ネクサスたちがおとなしくならない。いったい何が起こってるんだ?」

「お、落ち着いてくれ」


労働所の衛兵たちは皆狼狽している。彼らもあくまで、管理を任されたネビルに過ぎない。ましてやヘイモアのように、ネクサスの事情に明るいわけでもあるまい。彼らでは現状をどうにかすることはできないだろう。


それはヘイモア自身も同じことだ。ネクサスたちが何に苦しんでいるのかをわかっていない。黒い靄が関係しているのは間違いないだろうが、それを取り除く術を、彼は持たない。


「ど、どうしよう。いったい、何が起こって」


現場を目の当たりにして、彼にも焦りが見え始めた。


「何か、鎮静剤のようなものはないんですか?」

「そ、そんなこと言われても、僕らは医者じゃないんだ」


なら、ここへ来たのは、本当に状況を確認するためと言うことになってしまう。


(・・・うまく行くかわからないけど、やるしかない)


ヒストリアは杖を構えると、ぶつぶつと何かを唱え始めた。やろうとしているのは、未だ自分が使ったことのない魔法で、明らかに系統の異なる、異種魔法だ。

異種と言うのは、単純に魔法の理論が異なるということだ。今から行う魔法は、何度か見たことがあるだけで、それがどのように発動されているかわからない魔法だ。


(あの人の魔法は、何もかも別次元だからなぁ・・・。あとで教えてもらった方がいいかも)


眠りの魔法。魔法の部類としては、そう難しいものではないはずだ。ハルはよく、魔法は単純なものだと、よく言っていた。難しい理論なんかなくたって、こまごまとした小魔法だけで、魔法士としての価値はあると。

あの人がどんな魔法鍛錬を行ってきたかはわからないけど、ヒストリアには、ヒストリアなりの理念がある。実在する魔法ならば、実現できないことはないはずだ。


「安息を与えし、安らかなる雲よ来たれ、・・・はっ!」


杖の先に込められた魔力を放つと、虹色の煙がネクサスたちを包んでいく。煙は空中に停滞し、苦しんでいたネクサスたちはその奇妙な煙に目を奪われ始めた。やがて、目を回すようにくらくらとし始めると、ネクサスたちは次々に気を失っていった。


周辺で見守っていたネビルの衛兵たちからは、歓声が上がりささやかな拍手を頂いてしまった。


「君、すごいね。こんなに優秀な魔法士だったなんて」

「い、いえ。うまくいってよかったです。でも、私の魔力も、どれくらい持つかわからないので」

「いや、十分だよ。可能な限り頼める、かな?」

「はい」


何が起こっているのか、ヒストリアにはわかっていない。先生の教えに従えば、こんなところで、ヘイモアたちの手助けをする義理もないはずだ。

だけど、ヒストリアは、少しだけ言葉にできない充足感を感じているのだ。

自身の呪いを解くために始めたこの旅で、今までにない経験を経ていることが、どうにも楽しいのだ。そんな状況ではないことはわかっている。だけど、自分にもできることがあると思うと、不思議な感覚になっていた。


何もできないと思っていた自分が・・・。


それからしばらく、ネビルたちがネクサスたちを一か所に集め、そこへヒストリアの魔法をかけるという作業が続いた。労働所は緊迫していたが、少なくとも、光明は見えていた。





無数の魔法の矢を、ハルは軽くあしらっていた。いつまでも続く攻撃は、まったく意味をなしていない。兵隊たちは、無感情に目標へ向けて矢を放ち続けるだけだ。

そんな兵隊たちに、お返しと言わんばかりに、ハルは眠りの魔法を放った。目に見えない魔力の霧が、兵隊の一団にかかると、一帯の兵隊は、膝から崩れ落ち、一人、また一人と、眠りついてしまった。

この眠りの魔法は、単体魔法ではない。扱う魔力の量を増やせば、当然広域に放つことも出来る。ただ、普通の魔法士だと、そんなことをすれば、数発で魔力切れを起こしてしまうだろう。

もちろん、龍族であるハルにはそんな常識は関係ない。どれだけの大群だろうと、何度も同じ魔法を放つだけで、全ての兵隊たちを無力化できる。この魔法の効力は、半日ほどだが、それだけ時間を稼げれば十分だろう。


そんなハルを相手に、無尽蔵に魔法の矢を放ち続けている人間達の方が、異常だと言えるだろう。本来、人間の魔力は、一日中戦い続けられるほど多くはない。


(いったいどこからその魔力を補っているんだか・・・)


それらもすべて、あの老婆みたいな天族の仕業なんだとしたら、あの兵たちの意識はほとんどないのかもしれない。全部傀儡か、生者かどうかも。


「まぁ、向かってくるって言うなら、やり返すだけだけど。死にたい奴は、前に出てくればいい」


ハルは、再び眠りの魔法を放つ。前方で魔法の矢を装填していた一団は、瞬く間に沈黙し、全滅した。


「ひとまず、これで終わりかな。まだ追っては来るだろうけど・・・」


戦いの喧騒がなくなると、耳がキーンと鳴るような気がする。周囲は瓦礫の山と化していた。あれだけ無秩序に矢を放てば、建物は崩れる。矢とはいえ、魔法で作ったものだ。威力は本物のそれと比べ物にならない。


瓦礫の山の頂上で、辺りを見回すと、いたるところで煙が上がっている。激しい戦闘による倒壊で発っているのか、本当に火災が起きているのかはわからない。

自国を破壊してまで、自分を仕留めようとしてくる意図がわからなかった。それとも、戦闘を激化させて、殺しをさせるのが目的だろうか?あの老婆の口ぶりから、こっちが黒く染まることを恐れているような言い方だったし。


「どこまで行っても、天族にとって人の営みはおもちゃに過ぎないってことか」


憎たらしいことだが、異種族の価値観に腹を立てても仕方ない。今ハルがすべきことは、時間を稼ぐことだ。教え子が何らかの情報を得るまで、成り行きに任せている。ワンコを一匹着かせたとはいえ、戦いに巻き込まれていないといいけど・・・。



コロッ・・・・・・



砂利が転がる音が、静かな戦場に流れた。その瞬間ハルは背筋が凍るような感覚に囚われた。龍族の長い寿命の中で、数少ない命の危険を感じ取った。


咄嗟に刀を気配がする方へ振り払い、近づいてくる者を牽制した。

ハルは油断をしていた。うぬぼれと言ってもいいかもしれない。相手は所詮人間だと、そう高をくくっていた。


振り下ろした刀は、あっけなく止められた。否、手で掴まれていた。そしてすぐに、刀身にひびが入り、剣先が粉々に砕け散っていった。


「っ」


驚きはしない。どうせ長く使い過ぎた、なまくら同然の得物だったから。今さら惜しくもない。ただ、人の姿をしたその者が、なまくらでも鉄の刀を軽々と握りつぶしたことに、ほんのわずかに気が揺らいだのだ。


咄嗟に後ろに飛び退って、間合いを取り、襲撃者の姿を確認した。

そこにいたのは、獣人の少女だった。黒い兎の耳を頭部に生やし、鋭い猫目の瞳を振るわせて、八重歯をむき出して威嚇をしていた。


その姿を確認して、ハルは猛烈な吐き気に催した。そうさせたのは、少女の見た目でもない。匂いでもない。雰囲気だ。ハルは、少女が一目で黒く染まっていることが分かった。それ自体は、何も可笑しなことは無い。ハルも、ヒストリアも、それにこの国の多くの人々は、黒く染まっている。しかし、その少女の染まり方は、それを見た者に吐き気を促すほど、異様な雰囲気を放っていたのだ。


「・・・どれだけの人を殺めれば、そんな状態になるのかしらね。それとも、他にもっと残忍な方法があるのかな」


これまで見た黒く染まった者たちの中でも、一際異質な存在だった。黒い靄のようなものが少女の体に纏うように形を成している。靄が見える者からすれば、人と影が重なっているように見える。幼い獣人の少女に重なるように、邪悪な悪魔のような姿をした怪物が重なっている。


悪魔の影には、頭部に二本の禍々しい角があり、腕にはバラの棘のようなものが突起している。両足は軟体生物のように無数に分かれていて、気色の悪い吸盤がこちらを睨みつけている。

影は完全に少女に纏っていて、地に足は着いていない。背中からは翼竜の翼のようなものが生えている。少女が飛んでいるわけではないようだが、その羽ばたき方は、今にも飛んでいきそうな感じだ。


ハルは、折れた刀を構え、少女へ向けた。


「意識はある?それともあなたも、あの天族に操られた傀儡なのかしら?」


ハルが声をかけても、少女は唸り声をあげたまま威嚇をやめなかった。その目はしっかりとハルに向けられている。両手両足を地面について、今にも飛び掛かってきそうな、獣の姿勢だ。


おそらくあれは、黒く染まった影響で狂っているのではない。獣人特有の獣の特性故の状態だろう。似たような姿で、リースも同じようなことになっていた。つまり、獣人の禁断症状によって、本能に支配された状態と言うことだ。


「まったく、国中に食べ物はあるはずなのに、どうして禁断症状がでているのかなぁ。それとも、リースのとはまた別の症状?」

「・・・ニガサナイ」

「は?」

「ウガァアアア!」


少女は、獣のように手足で地面を蹴り上げ、尋常なる速度でハルに迫ってきた。鋭い爪を、ハルの喉元へ向けて伸ばしてきたのだ。

折れた刀の切っ先でそれをいなそうにも、少女の腕に込められた力は、人の姿のハルではどうにもできないほどの力だった。


ハルは、寸でのところで爪から飛びすさび、首に赤い線を残しながら躱しきった。だが、少女の攻撃は止まない。両手の爪が往復してハルに襲い掛かる。肉弾戦に成れた者でも、目で追いきれないほどの動きだった。


ハルは、人間と比べて身体能力は高い方だ。だがそれは、肉体的な強さには起因しない。所詮は人肌の体だ。火の力により切り傷程度はすぐに癒せても、速度で優る相手に反撃するのは愚か、防御をする術すらない。


高速で振られた少女の拳が、ハルのみぞおちを強く殴打し、勢いに任せて白髪の少女の体は、瓦礫の山を跳ねて転がっていった。

獣人の少女の猛攻は、なおも続く。獅子よりも早く少女は駆け、転がり転がったハルの終着地へ先回りし、無防備な体に今度こそ鋭い爪を見舞おうとした。


「はぁ・・・」


それは、低いため息の音だった。ただのため息だ。人のため息は、単に息を吐くという行為に過ぎない。しかし、とある生物にとって、息を吐くという行為は、人間にとっての魔法に等しい力を持つ。


ハルの体から、激しい炎が上がったかと思うと、ドンっ、という衝撃波が球状に放たれた。物理的な力はそれほどない、大気の胎動のような衝撃波だったが、それは、ありとあらゆる生物に、恐怖を植え付ける。


衝撃波に気圧された獣人の少女は、炎に包まれた者から、瞬時に飛び退り、再び威嚇を始めた。

火は大きく膨れ上がり、直視できないほどの光を放ち始める。その中に、人ではない深紅の瞳が、一瞬だけ獣人の少女を睨んだ。


「きっ!?」


蛇に睨まれたカエルのように、少女は体を震わせていたが、光は徐々に収まり、やがて火の中に、全身を燃やしながら、立ち上がる人の影が見えた。一対の純白の翼を生やした異形の人が、そこにいた。


「悪いけど、ここで死んでもらう。あなたは染まり過ぎた」


炎の中から現れたハルは、獣人の少女へ向かって左手を伸ばすと、肉の腕は白い羽毛に包まれて行き、燃えだした。

巨大な翼を靡かせると、熱を持った空気が、暴風となって周囲へと放たれる。気温が上がり、乱気流が起きり始める。その気流に乗るように、ハルの体は僅かに浮かび上がった。

右手には折れた、刀を構え、その得物にも火を纏い、折れた尺の分だけ、炎が補っていた。


「汝に、アカハネの加護があらんことを・・・」


冷酷で感情の無いハルの視線が、獣人の少女へと向けられていた。

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