第3話:愛しい夫
「どうかなさいましたか? 奥様」
優しい声と共に、馬車の中を覗き込んだ男性は、私を見て微笑みました。
使用人としての、作られた笑顔です。
それでも、私は嬉しかった。とても嬉しかったのです。
「クルス……」
私は、愛しい夫の名前を呼びました。
なぜここにいるのか、死んだのではなかったのか。
聞きたい事はたくさんあるけれど、何も言葉にならず、代わりに涙がポロポロと零れ落ちてしまった。
その瞬間、私を見ていたクルスの様子が一変しました。
笑顔が真顔になり、頭を抱えてしゃがみ込んでしまったのです。
「う……ぁ?」
苦しそうに呻くクルスは、馬車のすぐ脇に
急いで傍に行くと、地面にパタパタと汗が落ちていくのが見えました。
冷や汗なのか、あぶら汗なのか、とにかく凄い汗です。
「クルス大丈夫?」
ハンカチを出してクルスの汗を拭うと、彼の顔がゆるゆると動き、私の顔を見ました。
「……カリナ?」
あぁ! 何年ぶりでしょうか。彼に名前を呼ばれるのは。
クルスが落ち着くのを待ち、私の為に用意された部屋へと移動しました。
そこは正妻の部屋では無く、
使用人達にどういう説明をして、この部屋を用意させたのでしょうか。
クルスと再会出来た今ならば、むしろ喜ばしい事ですが、本当の家族になる気だったのに騙されたと知った馬車の中の私でしたら、更なる哀しみを感じていた事でしょう。
本当に救いようのない、酷い人達ですね。
それなりに広いベッドに一緒に横になり、クルスと私は離れてから今までの話をしました。
クルスはまだ記憶の混濁があるので、なぜアレンサナ侯爵家で働いているのか判らないようでした。
伯爵子息としての教養があるのに、なぜ下級フットマンなのか。
その前にクルスと
同じ組になった事は無くても、お互い貴族家の後継者です。顔くらい知っていたはずなのです。
「なぜ
私は素朴な疑問を口にしました。
「アレンサナ侯爵家は、まだ私達の祖父の代が当主だからね。旦那さ……レグロ殿の父親が戦争に参加していたよ」
それは、凄いですね。
フォルテア伯爵家では、戦争開始時はクルスの父親が当主でした。
クルス死亡の連絡を受けて気落ちして体調を崩してしまった義父は、クルスの弟へ家督を譲ったのです。
フォルテア伯爵家の世代交代は若すぎますが、アレンサナ侯爵家は遅すぎます。
それにしても、戦争参加者の殆どが貴族の後継者という、今思えばとても変な徴兵でした。
皇太子が軍を率いるのだから、家臣も後継者を差し出せって事だったのでしょうか?
それで直系の後継者が居なくなり、傍系が継いだ貴族家も有りそうですね。
私のように未亡人になった方もいるでしょう。
実家に帰れない方や、帰ってもすぐに厄介払いのように理不尽な後妻にやられた方も、修道院へ送られた方もいるでしょう。
国王陛下は何がしたかったのでしょうね。
朝まで一緒に過ごし、太陽が昇る前にクルスは自分の部屋へと戻って行きました。
寝に帰ったのではなく、もう仕事の時間だから着替えに帰ったのです。
フットマンの夜は遅く、朝は早いのです。
昨夜は私の世話という名目があったのですが、通常は主人が寝るまで、すぐに対応出来る距離に控えなければいけないのです。
私も夫が起きる前に、使用人達に挨拶しておきましょう。
どうせ夫は義娘とベッドの中でしょうからね。
何せ私との面会の日に「疲れて出かけたくないと言われた」や「今日はベッドから起きられないようで」と、言うほど前日に可愛がっていたようですし。
おそらく私と会うのに嫉妬した愛じ……義娘を宥めていたのでしょう。
まぁ、正直、今はどうでも良いです。
今、私がやらなければいけない事は、自然に見えるように、クルスを私付きの使用人にする事です。
いきなり執事は無理でしょうから、やはり護衛でしょうか。
「初めまして、カリナと申します」
朝、使用人を集めて挨拶をさせていただきました。
そこで驚くべき事実が発覚しました。
「レヒニタ奥様の家庭教師の方ですよね。
家政婦長にそう言われ、思わず目を見開いてしまいました。
「レヒニタ奥様?」
私の横に立つ執事に視線を向けながら問うと、壮年の執事は眉間に皺を寄せていました。
「申し訳ございません、カリナ奥様」
執事と、彼の前に居る数人の男性使用人は、私に対して深々と頭を下げました。
それを見て、家政婦長を筆頭に、女性の使用人は困惑しています。
おそらくレヒニタさんに接する事のある女性使用人は、彼女をレグロの妻として扱うように言われていたのでしょう。
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