第28話 洞窟

「この洞窟は、どう歩いても結局は入り口に戻ってしまうんです」

 案内に立った若い神職は、小百合たちに向かってそう言った。貢より少し年上だろうか。感じの良い青年だと思った。

 彼は「野瀬研一のせけんいちです」と自己紹介してくれた。岬と二人でこの神社に住んでおり、身の回りの世話をしているのだという。

「中はかなり入り組んでいますから、入った人は必ず道に迷います。初めての人はかなり恐ろしいと思いますよ」

 懐中電灯の弱い光は、足元しか照らすことはない。少し先は全くの闇だ。

黄泉比良坂よもつひらさかって感じですな」

 工藤が言う。この世とあの世を繋ぐ道。黄泉の国と現世の境目である。

「片手を壁につけて進めば、時間はかかりますが迷路は抜けられます。禰宜ねぎさんのところに相談に見えた方が洞窟に入る時には、必ずそれを教えることにしています。そうでないと、本当に迷ってしまいますから」

 野瀬はそう言って笑った。

 長い道のりだった。壁に手を触れていなければ、三人で会話をしていなければ、容易に自分を見失ってしまいそうな闇。

「あなたもボランティア活動に参加されていたのですか」

 何か話していたくて、小百合は野瀬にそう声を掛けた。

「はい。直接相談者とお話をすることはありませんでしたが、及ばずながら手伝いをしておりました」

 最初は相談者の側だったのだと、野瀬は言った。高校でいじめを受けていたのだという。

「禰宜さんとお話をして一旦は家に戻ったのですが、状況は変わらず、再び逃げ出して参りました。禰宜さんは親と話をして、私を引き取る手筈を整えてくれました。まだ団体が形になる前のことです。相談者が増えてからは、個別の対応は出来なくなりましたが」

 親は再び通学することを強いたのだという。岬はそれを止めた。あなたは自分の息子を殺人者と戦わせるのかと。

『いじめは小さな殺意です。いじめを苦に命を絶つ子供が存在することなど、今では常識です。それを分かった上で続けるという事であれば、それは未必の故意です。殺人計画と言っても過言ではない。それでも、あなた方は彼に戦えというのですか』

 岬はそう言って、親を説得したのだという。

「両親は時々会いに来てくれます。いい関係です」

 帰りたくないのかという小百合の問いに、野瀬は笑って答えた。

「帰ろうと思えばいつでも帰れるのですが、ここが居心地よくなってしまいました」

 穏やかな口ぶりには、安寧しか見つけられなかった。

「この洞窟には、神様がおられるのです」

 彼は言う。

「八十禍津日神と大禍津日神。汚穢おわいによる災厄さいやくを除去する力をもつ神。呪詞のりと誤誦ごしょうされたときにその伝誦の不正を示す神とも言われています」

 けがれから生まれた神が穢れを払い、間違いを正す。神道とは不思議なものだと、小百合は改めて思った。

 遠くに柔らかな光が見えた。入り口から差し込む日の光である。

「不安に苛まれながら歩き続けた人は、入り口の光を見たとき、生きていて良かったと思うのかもしれませんね」

 恐怖や命の危機を実感した時、人は生への渇望を感じることがある。失いかけて初めて、生き物の本能が顔を出すのかもしれない。そう。生存というのは生き物の本能なのだ。人間という生き物は文明により多くの本能を失いつつある。危険を察知する能力を失い、二次欲求が一次欲求を凌駕する。生存という根本的な本能ですら、人類は捨て去ろうとしているのかもしれない。

「お疲れ様でした」

 野瀬の笑顔が、貢の顔と重なる。

 洞窟に入ってから、二時間が経過していた。



「洞窟に入ったのか」

 夫が苦い顔で言う。

「工藤さんがボディーガードに付いてくれるというから心配はしていなかったが、あまり危ないことをしないように」

 ごめんなさい、と言って、小百合は出された湯呑を手に取った。

「で、空振りだった訳だな」

 そうなのだ。貢の情報は全くと言っていい程なかった。工藤がこっそり神社の周囲を探ってみてくれたが、ひっそりとした建物からは人の気配すら感じられなかった。

「あの神主さんは、悪い人には思えなかったの」

 騙されているのだろうか。職業柄、人の裏側を見るのには長けているつもりだが、あの人から後ろ暗さは感じられなかった。素朴な、心優しい老人に見えた。

「警察からは連絡はなかった?」

 無駄だと思いながらも、そう尋ねる。

「何も」

「……そう」


 全ての情報を鵜呑みにしてストーリーを組み立てるのは、誤りなのかもしれない。自分は的外れな方向を探っているのだろうか。人が消えるという噂は週刊誌のネタ。比売神も尸童も、全て噂であり想像である。ストーカーや娘夫婦の事故も、時間の経過を考えれば全くの別物である可能性の方が高い。しかし気になるのだ。何か関係があるように思えてならない。

 貢は攫われたのか。それとも自ら姿を消したのだろうか。ならば、その理由は何だ。連絡もせず居なくなるような子ではない。やはり神社と関係があるのか。それとも洞窟が。

 洞窟が、貢を呼んだのだろうか……。

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