第17話 アリアドネ

 水曜の二限目。法学概論の受講生は、既に最初の半分ほどに減っていた。教室も小さな部屋に変わり、小学校の授業程の規模になった。

「あのさ」

 しれっと桐子の隣に座り、ずっと黙っていた貢が、講義が始まって暫く経った頃に小さく声を掛けて来た。

「こないだは、悪かった」

 謝られても困る。何と返していいのか分からない。

「でも、ああいうのは勘弁かんべんして欲しい。女の子は、苦手なんだ」

──女の子に向かって、そう言うか?

 思わず抗議の視線を向けてしまった桐子から逃げるように、貢は目を逸らした。

「あれでも頑張ったんだよ。でも限界だった」

「そこ、静かに!」

 教壇から声が飛ぶ。ほら、怒られた。

「『中日までご無事で』って何よ」

 声をひそめて、桐子は言った。これは最近、貢に薦められた小説にあったセリフだ。あなたとは御縁がありませんという、いわば拒絶の言葉なのだが。

「少しは和むかなと思ったんだ。……滑ったみたいだけど」

 そりゃ滑るわ。みどりには通じない。桐子は大きな溜息を吐いた。

「だから、ごめんって」

「みつ……一ノ瀬くん!」

 再び声が飛んだ。

「はい」

 貢が顔を上げる。小島教授が、半眼はんがんでこちらを見ていた。

「バケツ持って廊下に立ってる?」

 昭和だ。

 教室中の視線を浴びて、貢はプルプルと首を振った。



 お昼はカフェテリアへは行かず、コンビニでサンドイッチを買った。図書館裏の花壇に設えてあるベンチで、一人で昼食をとる。

 花壇には、色とりどりのチューリップが咲いていた。子供の頃は半円にギザギザを付けた絵を描いていたけれど、本物の花びらは丸い。花弁は六枚に見えるけれど、外側の三枚は実はがくなのだという。三枚の花弁と花弁のふりをした萼が重なり合って、横から見るとぽってりした卵型に見える。咲き切る前の控えめな形が愛らしいと思った。

 みどりとは、あれから一週間顔を合わすことがなかった。桐子が、出会いそうな場所を避けていたからではあるが、向こうもそうなのかもしれない。

 みどりには、入学してしばらくたった頃に階段教室で声を掛けてもらった。教職課程を選択したせいで同じ学部の女の子たちとは履修科目が合わず、一人でいることが多かった桐子に、みどりは他の学部の女の子たちを紹介してくれた。

『このメンツ、何故かみんな学部がバラバラなのよね』

 そう言って笑っていた。

 同じ教養科目を選択している友人たちと顔を合わせる機会は多く、自然にグループが出来た。みどりは姉御肌で、いつも話題の中心になっているけれど、皆に優しい気配りを忘れない子だった。父親は大企業の重役だと聞いたのは心愛からだっただろうか。

『お嬢様なのに、庶民的なのよね』

 彼女は少し自慢そうに、そう言ったのだった。

 みどりの前では、桐子は少々ハイテンションでいたような気がする。快活な彼女に引っ張られて、良い面が出ているのだと思っていた。もしかしたら、このまま生涯の友達になれるかもしれない。そんな風に思い始めた矢先のことだった。

 中途半端な気持ちで二人を引き合わせてしまった事を後悔し、自己嫌悪にさいなまれた。みどりにも、貢にも申し訳ないと思った。

 それと同時に、嫌でも自分の気持ちに向き合うことになった。貢とは今の関係を続けたいと思っていた筈なのに、友達で、ボディーガードでいいのだと、そう思っていた筈なのに、いつの間にか想いはふくれ上がっていた。

 自分を誤魔化していた。桐子は今、友情と恋愛を天秤てんびんにかけようとしているのかもしれない。恋愛の方は、きっと天秤の皿に乗る気もないだろう。それでも、そちらを選んだのなら、きっと残った片方をも失ってしまうに違いない。結局、自分はどちらも手に入れることは出来ないのだ。そんな資格など無いのだから。

 けれど。でも。否定に続く接続詞。

 あの時……。

 抱き締められ、辛そうな言葉を聞いた時、守ってあげたいと思った。愛おしいと思った。でも、それだけじゃない。

 振り向いて欲しい。好きになって欲しいと、そう思った。

 貢にとって自分は何なのだろう。

『女の子は苦手なんだ』

 言われた言葉が辛い意味を持った。自分は彼にとって、女の子ではないのだ。つまり恋愛対象ではないということ。アリアドネはテセウスに恋をしたけれど、テセウスにとってのアリアドネは、迷宮から救い出してくれた恩人という意味しか持たなかったのだから。

 サンドイッチは喉を通らず、桐子はベンチで一人、ひざを抱えた。

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