第46話 自由人と彼シャツ

「ねえ」

「……」

「ねーえ」

「ねえ、テオ。テーオ」


 ダメだ。気にするな。気にしたらシャルの思うツボだ。



 だから無視しないと……いけないのに。


「ぎゅー」


 背中に柔らかい感触が当たって、背筋が物凄く伸びてしまった。柔らかさに脳が支配される事となる。


「し、シャル……」

「んー?」

「せ、せめて……着けないか?」


 背中に当たっている柔らかい感触。それは布を一枚しか隔てていない。

 ……そう。一枚しか。



「やだ。最近苦しくなってきたから」


 しかし、返ってきた言葉は非情であった。


「あ、そうだ。今度一緒に買いに行こ」

「……一応聞いてみるが。何を?」

「下着」


 頭痛を起こしそうになった。その返事は予想していたが。していたのだが。


「テオが好きなの買うよ? 可愛いのでも……えっちなのでも」

「えっ……そ、そういうのは。というか、普通にシャルが好きなの買えば良いだろ」

「私が好きなのはテオが好きなのだから」


 ぐっと言葉を詰まらせそうになる。

 ちらりと目を横に向ければ、彼女のブラウンの瞳と目が合った。


「だから、ね。テオが好きなの買お」

「……店に行くのはハードル高いから。ネット通販とかでも良いか」

「……! うん!」


 シャルの嬉しそうな声がすぐ傍で響いて。彼女が楽しそうなら良いかと静かに天井を見上げた。


 さて。そろそろ現実を直視しなければいけない。


「それで、シャルは何で俺の制服着るとか言い出したんだ」

「え? 着たかったから」

「単純明快」


 シャルが俺から離れ、俺は目をそちらへ移した。


 彼女は俺の制服を着ていた。ワイシャツにスラックス。ベルトはしていない。

 ……最初は下を履かないなどと言っていたので、かなり妥協して貰っている形なのだが。



「彼シャツっていいよね、って思ってね。テオの匂いするし。テオもこういうの好きでしょ?」

「……分からんぞ?」

「ふふ。好きって顔に書いてあるよ」


 正直に言おう。……好きな人の彼シャツなど嫌いな人が居るはずない。しかし、それを言っては彼女のペースに飲まれてしまう。


「……ちなみに普通のシャツでも良かったんじゃ?」

「んー。彼シャツと言えばこれって感じしない? こっちの方がえっちだし」


 ただでさえ大きな胸を腕でぎゅむっとするシャル。非常に、非常によろしくない。



「そ、それは良いとして。やっぱり下着、着けてくれないか」



 今はとにかく、この目に毒が過ぎる状況をなんとかせねばならない。


 服のサイズは俺の方が大きいはずだが、胸がパツパツで。……しかもその中に下着を着けていない。



「やーだ。顔真っ赤にするテオ可愛いし。……別に服の中もいっぱい見てるでしょ?」

「それとこれとは話が別だし……そもそも、その。そんな簡単に慣れるものじゃない、から」

「ふうん?」


 目を逸らしたい。けど、逸らす事が出来ないのは男としてのさがだろうか。


「……じゃあ、慣れるためにいっぱいしないとね?」

「そっ、そういうのは慣れるものじゃないっていうか」

「良いんだよ。慣れて、毎日の日課にしちゃおうよ。……私、テオのためならいっぱいえっちな事するよ?」


 脳がぐわんぐわんと揺れる。ゴリゴリと削れる理性の音を聞きながら、俺はやっと目を逸らす事が出来た。


「でも俺、シャルと普通に過ごす時間も好きだから」

「……!」

「その。も、もちろんそういう事も好きなんだけど……やっぱりなんでもない」


 ベッドにもたれかかり、恥ずかしくなって自分の顔を手で覆い隠す。これ以上言えば、色々と要らない事まで言ってしまいそうで。


「テオ」


 しかし、シャルに覆い隠していた手を取られた。すぐ目の前にシャルの顔があり――


 ――ちょんと、触れるだけのキスをされた。


「そんな事言われたらさ。もっとテオの事好きになっちゃうに決まってるじゃん」

「そ、それは……んむっ」


 何かを言い返そうとしても物理的に口を塞がれる。


 頭の中が甘い匂いでいっぱいに満たされて、体が暖かく柔らかいものに包まれる。


「テオ、ちゅー好き?」

「……好き、だけど」

「ふふ。私もいっしょ。テオとちゅーするのも――何をするのも好き」


 抱きしめるように体重を預けてくるシャル。むにゅう、と柔らかいものが押しつぶされた。


「何をするのも、ね」

「……」

「でもそっか。テオ、私の体目当てじゃないんだね」

「言い方。あ、当たり前だろ」


 シャルが楽しそうに笑って、また唇を重ねられる。

 甘い匂いのせいか、それとも単純に酸素が足りていないのか。頭がくらくらとしていた。



「テオはこういう時間が好きなんだよね」

「……健全か? この時間」

「健全だよ。全裸じゃないし」

「健全の基準がめちゃくちゃ低い」


 手を握られてこつんと額を重ねられる。

 全身で彼女の事を感じる。感じられる。


 普段より大きく聞こえる脈動は俺のものと重なっていて、早く大きい。


「シャルもドキドキするんだな」

「うん。テオが気づいてないだけでしょっちゅうドキドキしてるよ」


 彼女が少しだけ離れる。そして、握った俺の手を自分の胸――心臓の上へといざなってきた。


「触って、テオ」


 ……今はそういう空気じゃない。そう自分に言い聞かせながら大人しくそこへ手を置く。



 柔らかさの奥から、ドクンドクンと彼女が生きている事を示す証が聞こえてくる。それが手のひらから骨を伝い、俺の中に強く響いた。



 シャルもそっと俺の胸に手を当ててきた。


「……これも私、好きなんだ。大好きな人の鼓動を聞く。鼓動を聞かれる。特別な人じゃないと出来ない事」


 じっと。俺達はそうしてお互いの鼓動を聞いていた。


「ちなみに私、テオにおっぱい触って貰うのも好きなんだけど?」

「いきなり雰囲気を壊してきたな」

「好きな事繋がりだからセーフだよ」

「アウトだよ」

「残念」


 言葉とは裏腹に、唇は弧を描いたまま崩れる事はない。

 ……というか、彼女が俺と二人で居る時にマイナスな感情を見せる事はほとんどない。



 その笑顔が俺は好きだ。好きだから――


「シャル」

「なあに――」


 シャルが言い終わるより早く、唇を塞いだ。

 同時に手のひらに力を込めると、幸せな感触が訪れる。


 彼女が俺に歩み寄ってくれたのなら、今度は俺の番――という建前。いや、それも本心の一部ではあるのだが。


 ただ、今は――


「有紗」

「ふふ。なあに? 飛鳥」


 有紗と触れ合いたい、という気持ちが強くなった。


「……したい」

「うん、しよ」



 ニコリと笑って、彼女は俺の手に自分の手を重ねた。


「脱がせて、飛鳥」



 その言葉に従いながら――少しだけ考えた。



 家に居たら最終的にこうなってしまうから、今度はいっしょに外へ出かけよう、と。

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