九十九話 帳の中
鼬梨都(ゆりと)さんの居室に来た私たち。
そこに環(かん)貴人、いや、今はもう朱蜂宮(しゅほうきゅう)の貴妃ではないのだから、玉楊(ぎょくよう)さんと呼ぶべき女性がいる。
やっと、やっと会えたのだと言うのに。
「……私は珠樹(すず)、こちらの子は那央(なお)。噂にも名高い環夫人の前で笛を吹くなど、恐れ多くて心の臓が潰れそうでございます」
「玉楊と申します。本日はお会いできてなによりです」
喜びの抱擁も交わせず、椿珠(ちんじゅ)さんと玉楊さんはお互い見知らぬ他人の振りを貫いている。
私たちがいくら変装していても、目の見えない玉楊さんには通用しない。
このお部屋に入った時点で、いやそれよりも前の、昨夜に椿珠さんが吹いた笛の音を聴いたときに、玉楊さんは私たちの来訪を知っていたはずである。
余計なことを口走ってしまっては鼬梨都さんに怪しまれると理解しているので、お互いの素性を明かすやりとりはできないのだ。
別方向から事実を見れば、玉楊さんは私たちの素性をばらさずに黙秘してくれているということ。
私たちが招かれざるならずものであるという事実を、鼬梨都さんはまだ、知らない。
「恥じる気持ちは大きいのですが、かような素敵な場にお誘いいただいた太母(たいぼ)さまの恩寵に報いるべく、つまらない笛の音を捧げさせていただきます」
椿珠さんは伏し目がちに恭しく言って、横笛を口に構えた。
ひゅるるー、と優しく始まるその旋律に、鼬梨都さんやお付きの女性たちの心が奪われたのが、空気で分かった。
しかしこの演奏は、不特定多数の他人に向けられたものではない。
「きっと助け出す、安心しろ」
そんな意味を込めた、椿珠さんから玉楊さんへの、極めて私的なメッセージなのだ。
いつものように閉じた目で、噛みしめるようにその音を聴き、受け取る玉楊さん。
椿珠さんの笛に合わせて拍を刻むように、琵琶を鳴らした。
ピィン、ビョオン、ツィンツィン。
切ない調べが笛のメロディーを支える。
笛を吹く椿珠さんと、琵琶の弦を弾く玉楊さん。
世界の真ん中にただ二人しかいない中で、それでもお互い必死に寄り添い、支え合っている光景が目に浮かぶようで、私は涙をこらえるのに必死だった。
音楽に合わせて、玉楊さんが吟(うた)を口にした。
「山野の果てに着き、雪と雲は空を覆う。
我が眼(まなこ)は暗く閉じ、足は寒さに震えるばかり。
この身が前に進まぬのを、いったいどうできると言うのでしょうか。
馬よ風よ良き人よ、この身が行かざるを如何にせん……」
玉楊さんは、ああ、彼女は。
自分が足手まといになると、椿珠さんに言っているのだ。
名乗り合うこともできずに再会を果たした兄と妹は、涙を流さずに泣いていた。
二人にしかわからない言葉を交わし合い。
どうしても連れて行く。
いいえ置いて逃げてください。
と、笛と弦で言い争っていた。
隠されたやりとりを思い知ることのないお付きの女性たちですら、その哀しい調べに涙を流していた。
「失礼、お袋さまにお知らせが」
そんな最中、空気を読まずに別の女性が室内に入って来た。
椿珠さんと玉楊さんの演奏は中断される。
来た女性が一言二言、鼬梨都さんになにかを言い伝えて、入口の脇に下がった。
「ごめんなさい、無粋な真似でせっかくの音楽を邪魔してしまって」
柔らかに笑って謝る鼬梨都さんに、椿珠さんは首を振り、言った。
「これ以上は、緊張で息も指もおぼつきません。つまらない余興でしたが、お聞きいただけて幸甚の至りでございます」
頭を下げてこの場を退出しようとする椿珠さん。
玉楊さんは心配しているけれど、もう、無理と無茶を通してここから連れ出す決意は固まっているのだ。
外にいる仲間たちと連絡を取って、作戦の大詰め、と気を引き締め直していたら。
「お袋さまが、まだお話をされたいようです」
入り口に控えていた女性たちが、私と椿珠さんの肩を抑えて、立ち上がるのを押し留めた。
私たちの首に、小刀が突きつけられている。
くっそおおおおおお!
しまったあああああ!
はじめから怪しまれていたのか、途中で気付かれたのか。
鼬梨都母ちゃんに、私たちが敵であることが、バレている!?
「……なにか、お気に障ることがございましたか?」
この場はあくまでも誤魔化そうとする椿珠さん。
「話すのはあなたではありません」
しかしその喉元に刃を立てられ、美しい肌に細い血の筋がつうーと流れた。
冷や汗を垂らし生唾を飲んで固まる私たちの目の前で、鼬梨都さんはあくまでも穏やかに、言った。
「細かい事情はわかりませんが、覇聖鳳(はせお)のことですから、方々で敵を作って来ているのでしょう。これが初めてというわけでもないし、私も今更驚きはしないわ」
「ゆ、鼬梨都(ゆりと)さま、いったいどういうことでございますか!? この方たちは大事な客人のはずでございます!!」
微かな血のにおいを感じ取り、私たちが危機であると悟った玉楊さんが叫ぶ。
「静かにおしよ、玉楊。私は話がしたいだけ。ねえ、小さい方のお嬢さん?」
私の顔をまじまじと見つめ、鼬梨都さんが問う。
「あなたの瞳の奥、背中の後ろに見える黒い炎は、隠そうとして隠せるものじゃないわ。私はこれでも覇聖鳳の母ですから、息子に害のある人間くらい、見てわかるというものです」
ちっくしょうめ!
念入りに変装して、ボロを出さずに侵入したと思ったのに!
単なる「母親の勘」でこんな羽目に陥るとはよお!!
こんなテントの中で叫んだって、さすがの翔霏(しょうひ)でも聞こえないだろうなあ。
これは、詰んだか。
「なんの話をされているのか、さっぱりわかりかねますねえ」
生意気な口を聞いたことが、侍従の女性の癇に障ったのか。
私は後ろ手を取られて、左手の小指と爪の間に、小刀をブッ刺された。
「ンギィィ!」
「麗さま!!」
痛みに悶絶する私と心配する玉楊さんに構わず、鼬梨都さんは淡々と話す。
「あなたたちがどこから来たなにものなのかは、私にはわかりません。けれどおそらくは玉楊に縁があるのでしょう。なら軽々と殺してしまうのも良くないのかしら」
「頭領がお帰りになるまで、拘束してはいかがでしょう」
お付きの女が私の頭上後ろで無感情に告げる。
それがいい、と静かに頷き、鼬梨都さんはとても優しい口調で、言った。
「あなたたちを殺さないように、覇聖鳳には私から言っておきます。もしも仲間になってくれるというなら、決して悪いようにはしない子です」
「へっ、どれだけ信用できるもんかな」
憎まれ口を叩いた椿珠さんが、小刀の柄で殴られた。
「お袋さまに失礼をするな」
「ぐっ……」
こめかみからぽたりと血を流す椿珠さんを痛ましげに眺め、鼬梨都さんが溜息を吐く。
そして、出来の悪い子供に言い聞かせるように、覇聖鳳について説いた。
「あの子は千五百の女と子どもを守るために、千の男を死なせる生き方を、頭領になったときに選びました。手始めに部族の富を不当に貯め込んで私腹を肥やしている長老衆たちを鏖(みなごろし)にして、その財産を小さな子のいる貧しい女たちに配り直したのです」
無茶苦茶にもほどがあるぞ、その政策は。
数年ならいざ知らず、必ず破綻するのが目に見えてる。
「さぞ、怨まれたでしょうね、敵よりも、まず、味方に」
激痛で脂汗を流し歯噛みしながら、私は精一杯の憎まれ口を叩く。
しかし鼬梨都さんはむしろ嬉しいような、誇らしいような顔で。
そう、自慢の息子の武勇伝を語る楽しげな表情で、言ってのけた。
「あの子は手勢を引き連れて反抗してくる有力者を、端から端まで順番に片付けて殺し切ったの。そのおかげで偉そうにしていた男たちはみんな死に、余った財で子どもたちは飢えずに済んだんですよ。邸瑠魅(てるみ)が生んだ三つ子だって、一人も間引かれずに丸々と肥って元気に暮らしているわ」
うっとりとした顔で語る鼬梨都さんに、私は戦慄を覚えるしかなかった。
「こいつら、母子そろって、同じくらいにイカれてやがる」
「男に生まれたのなら、女と子どもを守りなさい。私がそのように育てた通りに覇聖鳳は育ちました。あなたたちも子や孫を持ったら、その喜びを理解するでしょう」
椿珠さんの小声に答えた鼬梨都さんの顔には、迷いも惑いもなかった。
私たちはどうやら、とんでもない化物の巣穴に飛び込んでしまったようだ。
いや、覚悟はしていたんだけれどね。
寒気を覚える親子論子育て論を聞かされて、私も椿珠さんもドン引きである。
「誰か、縄を」
背後で私たちの体を制圧している女が、幕の向こうに声をかける。
ここで体を拘束されるのは最悪だ。
女たちの隙をついて、なんとか毒の武器でも刺せないか。
椿珠さんに目くばせしようとした、そのとき。
「あうッ!?」
ズムッ、という鈍い音とともに、私の後ろの女が呻き声を上げた。
そのまま女はどさりと私の横に倒れ。
「な、なにぐぁっ……!」
椿珠さんを拘束していた女の喉が、突然やって来たなにものかに鋭利な刃物で切り裂かれた。
ズシュッ。
予期せぬ侵入者は、声も発さずに、私の横に倒れて苦しんでいた女の喉に刃を突き刺して、トドメを刺す。
「あ、あなたは」
小指の痛みも忘れ、驚いて私は下手人の顔を見る。
私たちの隣で暗い顔でだんまりを決め込んでいた未亡人。
なぜだか知らないけれど、窮地に駆けつけて助けてくれたのだ。
思いのほか高い声で、その謎の未亡人は言った。
「あたしは除葛(じょかつ)軍師の命令でここらを嗅ぎ回ってる間者の一人。ほら、ババアを人質にしてこっから逃げるよ。あんたらもなにか、企んでるんだろう?」
素早い動きで間者未亡人は鼬梨都さんを軽々と肩に担ぐ。
首狩り軍師、姜(きょう)さんが各地に派遣している情報員の一人か!
「だ、誰か! 誰か!! 狼藉者だよ! こいつらをひっ捕らえておくれ!」
「舌をちぎられたくなかったら黙ってろクソババア! ったく、余計な仕事をさせやがって。あたしの給金を増やすよう、あんたらからも除葛のやつに言っておいてよね!!」
「ひ、ひいぃ」
さっきまで余裕綽々の態度を貫いていた鼬梨都さん。
横暴なスパイに身柄を抑えられ脅されて、別人のように恐れ慄き、縮こまっていた。
「玉楊、来い!」
「椿珠!」
兄と妹は、やっとお互い名前を呼びあい、抱擁を交わすことができた。
椿珠さんはお姫さま抱っこで玉楊さんを運び、足をもつれさせながらも走る。
なにごとかと驚く包屋(ほうおく)の中の女性たちを押しのけ押しのけ、私たちは外に出る。
「クッソ、また姜さんに美味しいところを持って行かれて、借りを作っちゃったじゃないか!」
小指から流れる血を布を握って必死で抑えながら、私は悪態を吐く。
包屋の外には、あらかじめ準備していたのか、青牙部の兵たちが並んでいる。
その先頭に立つのは。
「珠樹(すず)さん、あなたは……」
迦楼摩(かるま)とか言う、椿珠さんをナンパしようとした近衛兵だ。
「俺は男だよ、色ボケ兄ちゃん」
残酷な事実を告げて、椿珠さんは笛を口に咥える。
ピィーーと甲高い音が鳴り、巌力(がんりき)さんたちへ「緊急事態」が起こったことを告げた。
私も目いっぱい、空気を吸い込み、肺に力を入れて。
「みんなごめーーーーーーん!! しくじったーーーーーーーー!!」
山間に響く大絶叫を上げるのだった。
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