病める王国の春を謳う姫君
ヨシコ
第一話
既に
雪と氷に覆われ、険しい峰に囲われた小国に訪れた冬は、石造りの城の廊下を冷やしている。その冷えた廊下にありながら、斬り落とされた左腕は燃えるように熱い。
王である父の執務室に繋がる廊下。足音が響く造りの大理石の床に仰臥した父が、首をこちらに傾けている。この国の頂に立つその首から流れる血が、床に赤黒い水たまりを作り出していた。
息子である王太子の自分もまた、その父と同じ運命をなぞるべく床に伏している。
肘の上から斬り落とされた左腕。抉られた脇腹。
落ちた左腕を蹴り飛ばした男の「家畜にでもやりましょう」という嘲笑混じりの声が、耳の奥に残っている。よほど憎かったとみえる。それほどまでに憎まれていたのに気付くことができなかった。
身を起こそうと試みるも、身体を動かすたびに激しい痛みが襲ってくる。食いしばった歯の隙間から、喉の奥から、唸り声が込み上げてくる。
生きなければ、まだ死ねないと、藻掻く思考に反してたかだか二十五年のこれまでの人生が脳裏に次々と浮かんでは消えていく。これが、走馬灯というものだろうか。
すぐ傍でただの肉と成り果てた父王との問答が思い出される。国とは何か。事あるごとに確認するかのように何度も繰り返した問答を。
賢く、優しく、時に厳しい父を手本として生きてきた。民に慕われ国を治める理想だった。
その王を、弑した者がいる。この国から、民から、王を奪った者がいる。
許していいのか、その暴挙を。報いを与えぬまま、後継者である自分が、生きることをやめる。そんなことが、許されるだろうか。
この国では代々、王は神の使いであるとされている。
王を選ぶのは神であり、神に選ばれし者こそが最も尊き御位に就く。
神の声を聴くとされている神官が、生まれた王族がその御位に相応しい者かどうかをすぐに判別する。
神の意を受けた王と、王太子。それが、父と息子である自分だった。
神に選ばれた王を弑すなどと、誰が考えられただろう。
この国が信仰する神、深く根付く教義と王の存在は、固く結びついている。神が選びし王を戴いている。それがこの国の信仰の礎である。
歴史として語られる歴代の王たちは、その全てが善政を敷いてきた。雪深く厳しい自然の中にあるこの国にとって、神に選ばれた王の存在は福音にも等しい。
氷と険しい峰に覆われた小さく貧しい国には目立った特産品もなく、秀でた何かがあるわけではない。ただ神の
外の国にとっては何の価値もなく、地理的に侵略する旨味もない世俗から隔離された未開の地である。
自国の民にはもちろん他国にとっても、王を弑すことに意味があるとは考えにくい。
恐らくこの事態は、王位とは関係のない、ただの私情によるものなのだろう。大義も意義もなく、ただ国から王を奪わんとすることにこそ、確固たる意志があるような気もする。
そしてその全てが、疎ましい王太子に向けられているのだろう。
嫌がらせ、と言ってしまえば身も蓋もない。
自嘲の笑みが思わず溢れた。
この事態を引き起こしたのが己と思えば、苦しみも増そうというものだ。
この国は、民は一体どうなってしまうのか。このような事態を引き起こし、王を守ることもできず、こうして一人で死へと向かっている。
このような事態に至ってなお、神に選ばれた王太子と呼べるのだろうか、それとも既に王太子ではない別の何かになってしまったのだろうか。今この瞬間の自分は、この国にとってどんな存在なのだろう。
血だまりが広がっていく。凍えるような寒さを感じる。
一閃で落とされたため、断面は綺麗だ。
おかげで溢れる血糊の中に骨の白さが見えて気が滅入る。勢い余って脇に食い込んだ刃がもう少し深く抉ってくれていれば、臓腑に届いてもっと楽に死ねただろうに。
まったく、斬ったやつは腕が悪い。
燃えるように熱い傷口とは逆に、身体はどんどん熱を失い冷えていく。
死神の足音が聴こえてくるような気すらしてきた。
王が死に、王太子である自分が死に、神に選ばれた者、神官が王に相応しいと選んだ王族がいなくなる。
この国に、まだ神の意思は残されていると言えるのだろうか。王を失くした民は、これから何を信じてこの厳しい冬を乗り越えるのだろうか。何を信じて、春を待つのだろう。
「お義兄さま……!」
思考に割って入る凛とした声音に、一瞬意識の全てが持っていかれた。
死神の足音だと思っていたものは、どうやら死にぞこないの自分をまだ現実に縛り付けておくためのものだったらしい。
「……ナディア……無事だったか」
ドレスを纏い駆け寄ってきた義妹は、たった一人でここまでやってきたようだ。護衛の兵ぐらい連れて歩けと言いたかったが、義妹の片手に抜身の、血に濡れたレイピアを見て押し黙った。
義妹の判断力は疑うべくもない。元より連れ歩けるなら護衛でもなんでもありったけ連れて、むしろ率いて事態の鎮静に当たったろう。
その義妹がたった一人でここに来たという事実が、絶望的な状況であることを指し示している気がした。
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