臆病

@enoz0201

臆病

 学校から帰り、疲れた身体を引きずるようにして自分の部屋に辿り着いた私は、勉強机の上にそれが乗っていることに気付いた。

「……」

 水色のガラス瓶の中で、透明の液体が光を通して照っている。液体は内に無数の気泡を抱えている。それが短いスパンでぱちぱちと破裂し、その物体の存在感に拍車をかけている。

「……ラムネじゃん」

 日本の夏の風物詩である炭酸飲料が、買った覚えもないのに鎮座しているのであった。

「お母さんか」

いつも通りの時間に仕事を終えたのなら、彼女が帰宅した時間も私とそう変わりはない。かつ、ラムネがこの部屋の気温の高さにも関わらず結露でびしゃびしゃになっていない。これらの事実を考慮し、実行者の正体に辿り着く。

ただ、犯人の見当はついても、母さんがラムネを冷蔵庫に入れずに、わざわざ私の机に置いた動機については何も考えつくことはできなかった。彼女は反抗期真っ只中の娘から見ても相当の人格者だから、昨夜口喧嘩を繰り広げたからといって、そのいやがらせに結露で私の机を濡らしてやろうと画策したとは考えづらい。いやがらせにしても手口が無駄に回りくどいし。他に考えられる可能性は……、

そこまで考えて、私は意味のない詮索をやめた。こんなこと考えてもどうにもならない。せっかく買ってきてくれたのだから飲んでしまおう。放置したら炭酸も抜けてしまう。

ラムネ上部のシールを剥がして、入ってたキャップを二つに分けて、尖っている方を右手に持つ。そしてそれを瓶の入り口に当てて、一気に力を入れる──、

「わっ」

 しまったと思った時には、既に両手と机は溢れ出たラムネで濡れていた。前までは上手くできていたことでの失敗に、少なからずショックを受ける。部活で心身共に疲労していた私に、この些細でちっぽけな出来事は追い打ちをかけた。

 もう何もやる気が起こらない。ベタベタになると分かってはいたけれど、机は放置、手は着ていた体操服で乱雑に拭うだけで済ませ、机の反対の位置のベッドに全身の体重を委ねる。

「…………」

 無の表情で、天井の染みをただただ見つめる。しばらくそうした後、身体を横にして、内容量を大きく減らしたラムネの瓶を視界に入れた。

 ラムネというのは、開けるのにやけに手間がかかる飲料だ。ペットボトルのようにキャップを回すなんて楽な動作ではなく、ある程度の力を持ってビー玉を奥に押し込む動作が要求される。しかも、どの会社が作った商品かにもよるが、結構な確率でさっきのような事故が起きる。

 しかし、それでも人々は夏の風物詩としてラムネを好んで飲み、ラムネ側もその手間がかかる開け方を変えようとはしない。面倒な開け方を維持したまま、ラムネは長いこと日本にある。

その姿勢は私には、ある意味で自己の性質を声高々に叫んでいるようにも思えた。開けにくさという欠点を逆に個性としてラムネが自己主張し、その結果人々に受け入れられている、とでも言うべきか。

 一度そう思うと、ラムネのあらゆる特徴から強い自己の主張が聴こえてくるような気がした。光を通す透明な液体も、ぱちぱちと弾ける炭酸の泡も、他にない形状をした容器も、液体に沈んでいくビー玉も、全て。

 全て、臆病な私とは正反対だ。

 ベッドから身体を起こし、壁際に設置された衣装ケースの引き出しを開ける。たとう紙と一緒にたたまれた状態で入っているのは、花の模様があしらわれた藍色の浴衣。

 勿論口に出して言ったことはないが、一昨年の夏に初めて着てから、自分は浴衣が似合う方なのではないかと密かに思っている。浴衣が似合わない人なんて滅多にいないと言われたら頷くしかないけれど、その中でも特に雰囲気とマッチしているように感じるというか。とにかく、何につけても自信がない私にしては珍しく、自分に合ってると思えるものだったのだ。

 だから、去年の夏も地域の夏祭りにかこつけて着ていこうと考えていた。少し誇れる自分を、彼に見てもらおうと。そして、できることなら似合ってると言って欲しいと、そう期待していたのだ。

 でも。その機会は訪れることはなかった。未知のウイルスの蔓延で去年の夏祭りは中止になり、それから一年が経過したこの夏も、ウイルスのニュースは毎日世間を騒がせている。その特性がある程度わかり、感染対策を行えば開催できるイベントもあるとはいえ、祭りなんて不衛生と「密」の象徴のような催しの開催はまずもってありえない。今はこの地域も感染者は少ないが、いつ何が感染拡大のきっかけになるかわからないのである。

 ただ、私が嫌になっているのは、人類を混乱させているウイルスでも、それを世界中に蔓延させる引き金となる行動をとった人々でも、ましてや安全の観点から夏祭りの中止を決定した人でもなかった。夏祭りという口実がないと自己主張すらできない、私自身に嫌になっているのだ。

 別に夏祭りがなくとも、素直に見て欲しいと言えばいい。着たいと言えばいい。なんなら、次会う時に浴衣を身に着けて約束の場所に向かってしまえばいいのだ。

 だというのに、それをしない。自己主張をすることが怖いから。わざわざ張り切って自分をさらけ出して、引かれてしまうのを恐れているから。勇気がないから。口実がないから。「夏祭りで、家族に勧められて着ただけ」と言い訳する余地がないから。

 そんな臆病な自分に、いい加減嫌気がさしている。去年も同じような自己嫌悪に苛まれたのにそれから一歩も前に進めてないことが、いっそ諦めて綺麗さっぱり忘れるという選択もできないことが、本当に救いようがないと思った。

「……?」

 私が鬱々としていると、近くで何かが震えるような音がした。ぶるぶると猛烈に振動し、空気を揺らしているこれは……電話?

急いで床に降ろしたバッグを漁り、自分のスマホを発掘する。音の発生源は予想通りこれのようだ。画面に表示されている通話の発信者を確認すると、そこには彼の名前が。

「もしもし」

「あ、ごめん。急に電話して」

 驚きながらも通話を開始すると、彼の申し訳なさそうな声が聞こえてくる。

「別にいいけど……何か用?」

「いや、用というかさ。頼み事が、あるんだけど」

 彼の声色は微妙に変化し、申し訳なさよりも緊張の方が色濃く出始めていた。

「頼み事?」

「うん」

 しかし、緊張しているのは私も同じだった。彼は私の母に負けず劣らずの聖人君子で、滅多に頼み事なんてしない。そんな彼がわざわざ電話までかけてくるのだから、相当重要な事柄だというのは容易に想像できる。

「何をすればいいの?」

「あの、さ。去年も今年も、中止になっちゃったじゃん。夏祭り」

「……うん」

「だからさ、君の浴衣姿、見れなかったなと思って」

 どくん、と。心臓が大きく鼓動を打つのがわかった。

「それで、さ。浴衣、似合いそうだから。もしよかったらでいいんだけど、今度散歩にでも行くとき……いや、勿論夜の散歩なんだけど、」

「……」

「僕のために、浴衣を着て欲しいんだ……その、すっごい我儘なのはわかってるんだけど……」

 ……私は。

臆病というより、幸運すぎる人間なのかもしれない。

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