09 誰を心配してるの

 夢は、不思議な色をしていた。


 はじめは、翡翠ヴィエルを連想させるような、濃い緑だったような気がする。


 けれどいつの間にかそれの印象は薄まり、消えた。その代わり、何か強い存在があった。


 それが彼にもたらしたのは、絶対的な安心感。この存在がともにあれば、何もたがうことはない。基礎石を打って柱を立てるような、それとも、対旋律があって旋律が活きるような、確固たる支え。


 どうして、それがなくて立っていることができようか。


 これまでの足もとは、どれだけ不確かだったのか。


 この絶対的な繋がりを持って、彼は歩いていくのだ。遠く、この世のものではない白い世界、まだ訪れていない宮殿へ。


 夢は彼に力をもたらし、確信を与えた。


 だがそれは――覚めるまでのこと。


 朝の光に目を覚ましたクラーナは、ぼんやりと夢を反芻しながら考えた。


(夢ってのは)


(……理不尽だよな)


 確固たる支えであるはずの〈鍵〉殿ときたら、早くもどこかへお出かけの模様である。昨夜は休まなかったものか、隣の寝台は乱れてもいない。


(どこで何をしているんだか)


(正直なとこを言えば)


「ちょっと怪しいよな」


 彼はそう呟くと冗談半分、つまりは本気半分で厄除けの印など切り、欠伸をしながら着替えに手を伸ばした。


 いない相棒のことは放っておいて、朝食にでも行こう。クラーナは気軽に考えると、朝のサルフェンを歩くことにした。


 朝の光はいつだって爽やかだ。


 吟遊詩人はのんびりと歩きながら、見慣れだした道を歩く。


 春の陽射しを受けて、あちらこちらで小さな生命が勢いよく伸びていた。彼は何だか愛おしい気持ちで、路傍の草花を眺める。


 昨日よりも今日、今日よりも明日、緑は伸び、命を歌う。どれだけかすかな歌声でも、それは生きる喜びに満ちた強い歌。


 どんな名曲を完璧に奏で上げたところで、若芽たちには敵わない。


 何だか少し、悔しいような。


詩人さんセル・フィエテ


 小さな声に詩人は振りかえった。見れば、そこには五歳ほどの男の子が立っていて彼を見上げている。頬は少し紅潮していて目は泳ぎ、それは見知らぬ大人に声をかけることがたいへんな冒険であったことをうかがわせた。


「何だい?」


 クラーナは優しく返してかがみ込み、土がつくことを気にしないで地面に片膝をつくと、男の子に視線を合わせた。


「何か、歌ってほしいのかな?」


 問えば男の子は首を振った。迷うように口を開きかけては閉じ、黙っている。辛抱強く、彼は待った。


「あの」


 十トーアもあったかと思われる沈黙のあとで、子供はそっと声を出す。


「一緒にいる人……魔法使い?」


 おやおや、とクラーナは思った。子供も黒ローブは怖がるか。大人の偏見を学んでしまうのかもしれない。


「たぶんね」


 本人は否定しているけれど、というような言葉は飲み込んだ。ここでそんな説明をしても仕方がないような気がするし、だいたい、説明をしたいのならば本人がやればいい。


「……それじゃ、悪い人?」


 その問いには、目をぱちくりとさせてしまった。


「違うよ」


 たぶんね、を今度は飲み込んだ。不安にさせてもこれまた仕方ない。


「坊や。名前は?」


「コト」


「そう、コト。僕はクラーナ」


 言って手を差し出せば、躊躇いがちに握られた。


「魔術師と言っても、みんながみんな悪い人って訳じゃない」


 ちょっと間違ったかな、とクラーナは思った。これでは「大半が悪い人だ」と言っているようなものだ。


「ええと、魔術師が悪い人だと言うのは、お話のなかだけで」


 これもどうだろう、と思った。世の中には「悪い魔法使い」も実在する。


「……少なくとも彼は、君をさらって食べてしまったりはしないよ」


 無理矢理、そうまとめた。「さらわない」かどうかはともかく、少なくとも「食べない」ことは事実だろう。


「ぼくじゃないんだ」


 コトは呟くように言った。


「それじゃ、誰を心配してるの?」


「……かあさん」


 消え入りそうな声でコトは答えた。クラーナは目をしばたたく。


 この子の母であれば、クラーナ自身から前後に五つくらい幅を持たせたほどの年齢だろう。「悪い魔法使い」を警戒するというのはどういうことだろうか。悪い男に狙われるということもあるかもしれないが、それはあまり、子供の発想ではない気もする。


「どうして、そんな? 君のお母さんはどんな人なの?」


「……なんでもない」


 子供は答えにならない答えをよこし、ぱっと踵を返した。


「あっ、コト」


 呼びかけても子供は振り返らず、そのまま次の小道を曲がってしまう。追おうかとも思ったが、怖がらせることになってもいけない。クラーナは立ちあがると、膝についた土を払うようにした。


「何なんだろう、いったい」


「それはだなあ」


 大きな街であれば、そこかしこに屋台がある。市場の付近を外れても、ちょっと見回せば朝飯に相応しい食事を出している店がいくつでも目に飛び込んでくる。時間帯も様々で、夜明け頃から開いている店もあれば、昼近くにようやく「朝食」を提供する店もある、といった具合だ。だから街でならば、好き勝手な時間に好き勝手な店へ行って好き勝手なものを食べればよい。


 だが、サルフェンでは違った。


 田舎では人々は、店でよりも自分の家で飯を作り、食べる。夜であれば店に行ったり屋台の軽食を買って帰ることもあろうが、朝はたいてい、自宅だ。都会では却って手間と金のかかることも、こういった町では普通である。


 よって、クラーナが朝食にありつこうと思ったら、数少ない食事処が開くのを待つか、店の主人を見つけて何か食べさせてほしいと頼み込むしかない。


 結局彼は、昨夜の〈白蛙〉亭に行き着き、後者を選択した。


 そこで麺麭ホーロと汁物という簡単な朝食を摂りながら、彼は店の主人カンザに、コト少年について尋ねてみたのだった。


「コトの母さんは、死んだんだ」


「え」


 思いがけない言葉に、クラーナは麺麭をちぎる手を止めた。


 「母さんが心配だ」とコト少年は言った。死者を心配するというのはどういうことだろう。それとも子供は幼くて、親の死を理解できていないのだろうか?


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