03 何も知らん
不思議な啓示を受けたところで、誰もが簡単に信じるものでもない。
たとえば、下町で厳しい生存競争を生き抜いた少年が、仮にその歯車の正しい働きに乗ってクラーナと同じように繰り返し不思議な夢を見たとする。だが、それを受け入れてみようと考えるまで、少年は詩人の三倍近い時間をかけることになるやもしれなかった。
一方、クラーナ・アトアールというのは、詩人だ。不思議な物語のような話には耐性がある。むしろ得意技だ。
そうして奇妙な夢の啓示を信じだしていた頃に、青年は「尋常でないことに関わっている」と疑い得ようもない出来事に遭遇する。
彼は神秘を歌うのには慣れていたが、神秘と実際に出会ったことはなかった。神を感じるようなことも、せいぜい「ちょっとついてるな」と
それは、女神のような存在だった。
そのとき圧倒的な力が青年の前に顕現し、それはどんなに「不思議なこと」に縁のない者――たとえば、下町で日々荷運びの仕事などに明け暮れ、
リ・ガン。そして〈鍵〉。
クラーナ・アトアールは、その〈変異〉の年のために選ばれたのだった。
翡翠の声を聞き、淀んだ気を払い、ビナレスの地を混沌から守る「もの」。
リ・ガンは、人ではない。
その役割につく間、彼からは「人間」の制約が外される。
何のことだろう、と悩む必要はなかった。女神のような不思議な存在は、彼に力と、もうひとつの姿を与えた。それは〈変異〉の終わるときまで彼の好きに変えられる「姿」だと教わった。
そんなものを目の当たりにすれば、それがどんなに信じ難いことであっても、自分を普通の人間だとは言い立てられないだろう。それが不思議な力、神秘的な存在が与えた能力であったとしても、彼自身の意志でそんなことができるとなれば。
かくして、彼は選ばれた。それとも、はじめから定められていたことなのか。それは、判らない。
彼は〈変異〉の年に備えて支度をしなければならなかった。
まずは、〈鍵〉の捜索。
〈鍵〉。それは文字通り、クラーナの――いや、リ・ガンの運命を握る鍵。
青年は旅をした。だが、どこへ行こうか迷う必要はなかった。というのも、まるではっきりと道標が立てられているかのごとく、クラーナには判ったからだ。いつどこへ行けば、今期の〈鍵〉に出会えるのか。
クラーナがサルフェンの町にたどり着いたのは、〈変異〉の年までふた月を切った頃のことだった。
翡翠の声はまだ彼を呼ばない。
その代わりに、〈鍵〉の軌跡が彼を呼んだのだ。
いや、正確なところを言うならば、彼の〈鍵〉は、判りやすい軌跡などを残していなかった。何しろ
少し責めるようにそんなことを言えば、オルエンは自身を「魔術師ではない」と否定した。だがクラーナは胡乱そうにそれを聞いただけだ。黒ローブを身につけ、いきなり彼の背後に現れたりする様子のどこが「魔術師ではない」ものやら、である。
「砂漠に住んでいる」というような発言もあれば、出会いを祝してとばかりに入った酒場で話をすれば、今度はオルエンは「百年以上生きている」と言い出した。正確にはそう言った訳ではなく、百年以上前の出来事について「この目で見て知っている」などと述べたのであるが、同じことだ。
クラーナは呆れる。どうやら、この一年間の相棒は、相当の二枚舌だ。
「へえ」
それを聞いたとき、クラーナは面白そうに言った。
「百年前以上前を見知ってるなんて。とてもそんなご老体には見えないね。君は〈不死のルウィスリー〉みたいに黒一角獣と契約でもしたの」
「馬鹿な」
とオルエンは眉をひそめる。
「これは、ちょっとした事故だ」
「事故」
詩人は繰り返した。
「それも、ちょっとした」
「
白髪の魔術師はうなずいた。
「あの頃は私も若かった。全く経験のない術を理論だけで完成させたと思い込み、その反動を受けた」
「へえ」
クラーナはまた言った。
「いったい、どんなすごい術」
「告げたところで判るまい」
それで、「魔術師ではない」魔術師は話を終えてしまった。クラーナは、詩人の役割をオルエンに譲ろうか、などと思う。突飛ではあるし、具体性には欠けるが、独創性はなかなか高くないか?
「好きで長生きをしている訳ではない」
ぶつぶつとオルエンは言った。
「だが、永き命を造り上げた代償だ。次の主が現れるまで、私はあれとともに生きることを義務づけられたのだと、そう考えておる」
「ちょっといいかな、オルエン」
クラーナはにこにこと言った。
「さっぱり、意味が判らないよ?」
「気にするな。独り言だ」
変人、一歩間違えれば狂人かもしれない。だが生憎と、これが彼の〈鍵〉であることは間違いなかった。
何かの間違いであればよいのに、とも少し思った。
だが、そうではないのだ。見間違えるなど、あるはずがない。
判っている。ただ、少しばかり納得がいかないだけである。
「では、次はそちらだ」
オルエンはそんなことを言った。
「何だって?」
「詳細を聞かせてもらおう。私は、何も知らん」
「うん? そうなのかい?」
クラーナは少し驚いた。〈鍵〉には、リ・ガンのように夢の啓示はないのだろうか。だが、オルエンはクラーナを「一年間の相棒」だとはっきり言った。全く知らないとは、思えない。
「どこまで知ってるんだい? 知ってることを繰り返し説明しても仕方がないから、訊くんだけど」
「何も、と言った」
オルエンは肩をすくめた。
「どうやら私は、次の年をお前と歩く定めだ。
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