竜の乙女は王国の繁栄を祈らない

日埜和なこ

序 幼き王と鏡の魔女

 ある早朝のことだ。

 鏡に映る幼き王ジュリアンは美しい金髪を揺らすと、ゆっくりとその瞳を開いた。幼い面影の中で光る瞳は黒曜石のようで、彼があと数年もすれば眉目秀麗なる美丈夫になることは、誰でも想像が出来るだろう。


 小さな口から、憂いがため息となって零れ落ちた。

 彼の父──バシェル王は三ヵ月前に病によってこの世を去った。実兄の息子を殺めて王位についたことで略奪王と呼ばれ、周囲から恐れられていた王だったが、息子には優しく良い父親であった。

 くすんだ金の髪はその父の面影を残すが、瞳の色は異なった。冷たい黒曜石のような色を悪魔の色だと噂する者は後を絶たず、彼が王位を継いだことに不満の声が出始めていた。


 全ては悪魔の仕業。バシェル王が反旗を翻して王位についたのも、悪魔が王家に入り込んでいるのだとさえ噂されている。


(せめて、お父様と同じ薄い茶色であったなら……)


 手鏡を下ろしたジュリアンは、膝を抱えて丸まった。


(あぁ、夜が明けてしまう……いっそうのこと、逃げ出してしまおうか)


 ベッドを抜け出し、毛足の長い絨毯の上を素足で歩いたジュリアンは窓に近づいた。だが、窓の外を見下ろすと地面は遥か遠くて飛び降りて逃げることは叶いそうもない。


 彼が逃げ出してしまおうかと思ったのは、昨日今日のことではなかった。


(田舎で暮らしていた頃は平和で良かったのに)


 仕事の忙しい父が数か月に一度、珍しい土産をたくさん抱えて訪れた時に話す華やかな街のことを聞くのが好きだった。母の淹れるお茶を飲みながら、いつか一緒に暮らせる日が来ると言って笑う父が大好きだった。──たった一年前のことを思い出し、ジュリアンの心はさらに小さくなって震えた。


(お父様も、お母様もいないお城なんて……何も楽しくないよ)


 涙がこぼれそうになったその時だ。


『泣いているの、ジュリアン』


 一人だったはずの部屋に、女の声が響いた。鈴を転がしたような可憐な声だ。

 侍女が着替えの手伝いにやってきたのかとも考えたが、その口調はあまりにも軽い。そもそも、聞き覚えのない声だった。


「──誰かいるの!?」


 振り返るも、そこには誰もいない。

 扉の向こうには護衛が控えているから、声を上げればすぐにでも飛んでくるだろう。城の内部だけではなく周辺や庭園、いたる所を騎士たちが巡回している。賊どころかネズミ一匹通しませんというのが、騎士団長の口癖でもあるくらい警備は厳重だ。

 その中を掻い潜ってきたとなれば、よほどの手練れだろう。


 ジュリアンが恐怖に身を竦めていると、再び謎の声が響く。


『怖がらないで。私は貴方の味方よ』

「どこにいるの? 姿を見せてよ」


 震えながら声の主を探すジュリアンは、くすくすと笑う声の主を探して部屋を見渡すが、やはり誰もいない。


『ふふふっ。いつも私を磨いてくれているでしょ』

「……磨いて?」

『えぇ、柔らかな絹のハンカチで丁寧に。私、くすぐったくて、笑いを堪えるのに必死だったのよ』

「ハンカチで僕が毎日磨くのは──」


 言いかけたジュリアンは大きなベッドを振り返った。そこにあるのは、つい先ほど覗き込んでいた銀の手鏡だ。

 恐る恐る鏡を手にすると、可憐な笑い声がジュリアンの小さな耳をくすぐった。


『やっと、私の声が届いたわ。ずっと、ずっと呼んでいたのよ』

「君は……誰?」


 覗き込んだ鏡に映る姿を目にしたジュリアンは、目を見開いた。

 そこにあるべき自分の顔はなく、黒いドレスを身に纏った美しい女が微笑んでいた。艶やかな黒い髪に、黒い瞳。まるで夜の女神かと見紛うほどの美しさに、ジュリアンは頬を赤く染める。一目で、その虜となっていた。


『私は鏡の魔女ローディア』

「ローディア……ずっと、側にいたの? この鏡の中に?」

『そうよ。ずっとあなたを呼んでいたわ』

「どうして?」

『あなたを助けるためよ』

「……助ける?」


 鏡の中で赤い唇が妖しくつり上がった。


『さぁ、つまらない生活を終わらせましょう。バシェルが立派な王になったように、私があなたを素晴らしい王様にしてあげる。だから──』


 白い手が鏡にそっと寄せられ、それに吸い寄せられるようにジュリアンの幼さを残す手が重ねられた直後だ。鏡面に黒い魔法陣が浮かび上がり、それが彼の白い肌に

 朝の静けさを切り裂く悲鳴が王城を震わせ、ローディアの愛らしい笑い声がかき消されていく。


 この日を境に、気弱な少年だったジュリアン王は、人が変わったように堂々と王城を歩くようになったという。

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