硝子と獣1

 ガラスの破片が吹きつける。玄礼シュエンリーを庇ったせいか、あちこちに違和感を覚えた。身体に何かが当たる感覚が消えてから、目を庇っていた腕を下ろす。

 コンクリートの床に散らばった破片が、ネオンの光を反射して輝いていた。


 夕嵐シーランは身体に無数に刺さった破片を払い落とし、床に倒れ込んだ玄礼を引き起こした。彼は顔を歪めて罅の入った眼鏡を外す。

「――誰だ」

「さあ」

 枠だけが残ったドアから誰かが入ってきた。たった一人、明るい茶髪を高く結い上げた若い女が、悠々とした足取りで歩いてくる。白いブラウスにロングスカート――どう見ても場違いな恰好だ。


 彼女は六つ並んだ棺を見て、可笑しそうに口角を上げた。

「……無様ね」

 女の複雑な色の瞳が閃く。玄礼と夕嵐の方を向き、親しみのある声音で問う。

「トランクを探しているんだけど、知っていますか?」

 玄礼の身体が強張ったのが分かった。夕嵐は足元のトランクを引き寄せる。彼女はその動きに目を留めた。


「ああ、それです。こちらに引き渡していただけますか」

「……無理だ」

 玄礼が緊張の滲む声で拒絶した。

「これは管理局の管轄だ。お前は管理局の人間じゃないだろう」

「そう言わず。同じ猟鬼師として、融通を利かせてくれませんか」

「……猟鬼師?」

 女は微笑んで頷いた。


「あなたのことを知っていますよ。玄礼、招魂しょうこんの道士」


 玄礼の表情にひどく物騒な色が浮かんだのが見え、夕嵐は笑顔で口を挟んだ。

「すみませんが、トランクを渡してほしいのなら管理局の許可を貰ってきてください。そもそも名乗りもせずドアを破壊して入って来るなんて、非常識ですよ」

「あなたには聞いていません」

 間髪入れずにそう言われ、夕嵐は肩をすくめて口を閉じた。玄礼は呆れたように夕嵐を小突く。


「……お前、誰に言われてここに来た?」

「申し訳ないですが、守秘義務があります」

「何も言わないつもりか?」

「――そうですね、では私のことは冬摩トウマと呼んでください」

 彼女は目を細めて笑った。

「名乗りました。これで、トランクは渡してくれますか?」

「そんなわけないだろ。夕嵐」


 返事をしない夕嵐を振り仰ぎ、玄礼は険のある目で睨んだ。

「いつまで黙ってる? お前は誰の傀儡だ」

 夕嵐は軽く首を振って溜息まじりに問う。

「何をすればいい?」

「あの女を追い返せ」

「あれ、嫌われましたね」

 まあいいか、と冬摩は手を叩いた。


「おいで、てい


 彼女のかたわらに虎に似た生き物が現れた。牛の尾を持ち、犬の声で鳴き、人を喰う怪物――てい


 猟鬼師の中には捕まえた妖怪を自分で調教して使役する者がいる。誰でもできる業ではなく、調教の最中に死人もよく出た。人を喰う怪物ならなおさらだ。だが、彼女は怖じ気も無くていの背を撫でている。

「この子はお腹が減っているので、ちょうど良かった。若干不味そうなのもいるけど……いいでしょう」

「不味そうなのって俺かな? 腹が立つね」

 笑顔で言った夕嵐に、冬摩も笑顔で返した。

ていは喰わせたくなかったのですが」


 虎に似た獣が低く唸る。夕嵐は振り返らず、背後の玄礼にトランクを押しつけた。

「玄礼、絶対前に出るなよ」

 文句を言われそうな気配を察し、先んじて低く囁いた。

「君が死んだら俺も終わりだ」

「……分かってる」


 玄礼が十分距離を取ったのを確認し、夕嵐はそばにあったカーテンスタンドのパイプを力任せに折り曲げて歪な棒を作った。ていは背筋の毛を逆立て、足踏みを繰り返す。

 冬摩は一歩後ろに下がり、犬歯を見せて笑った。


てい、喰っていいですよ。――跡形も残さないで」


 その声を合図に、ていが床を蹴った。蹴り上げられたガラスの欠片が白い光を振り撒く。

 一息の間に距離を詰めてきた獣に向かって構えた棒を突き出した。しかし、大きく開いた口、そこに並んだ鋭い牙に阻まれて弾かれる。

 衝撃で腕が痺れ、たまらず数歩下がった。そのまま噛みつこうとしてくるのに対し、落下してくるガラスの欠片を咄嗟に掴んで投げつける。一瞬怯んだていは、すぐに体勢を立て直して夕嵐に向き直った。


 腐臭に似た生温い息が吹きかかり、髪が乱れる。獣は飢えた色を浮かべ、眈々とこちらの隙を窺っている。

 不意に、唸りを上げて飛びかかってくるていの鼻面をパイプで思い切り殴りつけた。地を揺らすような咆哮を上げ、巨体が暴れる。闇雲に暴れる最中に剥き出しの牙が袖に引っ掛かり、布地を引き裂かれ皮膚も抉られた。


 痺れて感覚が無くなった右腕を押さえて転がり避ける。元いた場所を爪が薙ぎ、同時に散ったガラスの破片が頬を傷つけた。一瞬動きを止めた夕嵐の視界の端、壁際に避難する玄礼に冬摩が向かっていくのを捉えた。

「玄礼!」

玄礼は思い詰めた表情でちらりと夕嵐の方を見る。冬摩は再び手を叩いた。


「来い、鬿雀きじゃく!」


 巨鳥が現れた。鷄に似ているが、鋭く大きな爪を持つ。人喰いの怪鳥は甲高い鳴き声を上げて玄礼に向かった。


 普通、何匹も使役することはできない。維持するのに気力を使って消耗してしまうからだ。そう思っていたので意表を突かれ、夕嵐は愕然と目を見張った。玄礼も驚いたようだったが、一瞬遅れて護符を取り出す。

 ――間に合わない。

 嘴が玄礼の身体を貫く寸前、夕嵐が投擲したパイプが怪鳥を落とした。パイプは翼と絡み、地面に墜落する。冬摩はバタバタと地面でもがく鬿雀きじゃくを飛び越え、玄礼の背に手を伸ばし――寸前で夕嵐が割って入った。


 だが、一度の跳躍で距離を詰めたていの牙が、玄礼を庇う夕嵐の右腕に食い込んだ。肉が貫かれる鈍い音に玄礼が声を上げる。

「おい、何やってんだ!」

「庇ったのに……」

 思わず苦笑しながら、ていの喉元を蹴り上げる。獣の巨体は離れたが、腕の肉を抉り取られ、どす黒い液体がぼたぼたと床に染み込んで奇妙な模様を描いた。


 その時、鬿雀きじゃくが再び身を起こしたことに気づき、咄嗟に玄礼を突き飛ばした。ついで、まだ動く左腕でパイプを拾って怪鳥の頭を躊躇いなく潰す。

 繁吹く血と肉を咀嚼するていから逃れ、夕嵐は目前に迫る冬摩を見た。

 彼女は薄く微笑み、手を合わせた。



「――無常鬼むじょうき



 冬摩の背後、白い高帽と衣を纏う異形が現れた。

 高帽の下にあるはずの顔は無く、ぼんやりとした陰影だけが蟠っている。


 無常鬼は死人の魂を連れ去る冥府の使いだ。普通、そんなものを捕らえ、使役することなどできない。


 混乱に棒を呑んだように立ち尽くした夕嵐の肩に、白ずくめの無常鬼が手を置いた。

你也来了お前も来たか

 無いはずの口から、地を這うような低い囁きが漏れた。


 途端、夕嵐の身体が崩れ落ちる。それは糸の切れた人形じみていた。

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