第29話 戻れない戻らない

 その夜、なつかしいアノイの家で、ヒラクは久しぶりにユピと寝床で寄り添いながら、なぜか寝つけずにいた。


「眠れないの? おいで」


 ユピはヒラクを胸に抱き寄せると、背中を優しくなでさすった。

 いつもはそれであっというまに眠りにつくヒラクだったが、なぜか居心地の悪い思いで、ますます眠れなくなった。


「まだ眠くならない?」


 ユピはヒラクの顔をのぞきこんで言う。


「うん、全然」


 ヒラクは自分でもそっけないと思うぐらいの言い方でユピに言った。


「どうしたの? 何だか機嫌が悪いみたいだね。眠いのに眠れないからかな?」


 ユピはぐずった子どもを相手にするように優しく言うが、ヒラクは何となく嫌な気分になった。


「……そんなんじゃないよ。それより、そういう言い方は不愉快だ。おれはもう小さな子どもじゃないんだから!」


 ヒラクは苛立ちをぶつけたが、驚いたように自分を見るユピと目が合うと、気まずい思いで目をそらす。


「ごめん。何でもないんだ……」


 説明のつかない感情に戸惑いながら、ヒラクはごまかすように早口で尋ねる。


「それよりユピはだいじょうぶ? 眠れないなんてことはない?」


「僕はだいじょうぶだよ」


「……もう悪夢にうなされることはないの?」


 ヒラクは確かめるように聞いた。


 かつてのユピは神王だった頃の前世の記憶を夢に見て、いつもひどくうなされていた。


 ユピの記憶に入った時に、ヒラクはどれほどユピが自分を侵食する神王の存在に怯えていたかを知った。そしてどれほどユピがヒラクを求めていたのかも。


 それはまるで氾濫する川の中で足場を失いながらも溺れまいと必死に何かにしがみつこうとしているかのようだった。


 けれども今目の前のユピはそのことをすっかり忘れている。


「悪夢? 何のこと?」


 ユピはまるでわからないといった顔をする。


 ヒラクは体を起こしてユピの顔をじっと見た。

 寝室の炉の火がはぜる音がする。

 暗がりの中、ユピの表情はよく見えない。


 ヒラクは炉のそばにきて座り込む。

 ユピも起き上がりそばにきた。


 小さくなった火のほのかな灯りに白い顔が照らされる。

 穏やかで優しいユピの顔には邪悪な暗い影はなく、深い悲しみの色もない。

 これでよかったのだと思いながらも、どこか納得のいかない思いがヒラクの中にある。


「ああ、そうか……」


 ヒラクはぽつりとつぶやいた。


「ユピ、これは……この世界は、ユピが望んだ世界だね」


 ヒラクは悲しそうな目で、ユピの顔をじっと見た。


「山の向こうの世界も、海の先の世界もいらないとユピは言った。おれもまた、ユピを失う前の世界に戻れればと願った」


 それはヒラクが自分で望んだ世界だったはずだ。ユピを失った後悔はそのまま山を越えた後悔になっていた。


 山を越えなければ、勾玉主として目覚めることもなかった。


 神を探そうなどと思わなければ、山を越えたいとも思わなかった。


 幼い頃母の後を追わなければ、ユピと会うこともなかった。


 ユピと会うこともなければ、失う苦しみを味わうこともなかった。


(ちがう!)


 ヒラクは勾玉主となったからこそ、メーザに渡り多くの人と出会えたことを思い出していた。


 ジークやハンス、カイルにキッド、共に冒険した仲間たちとの出会いがなかったほうがよかったとは思えない。


 山を越えたからこそ知った真実もある。


 母の出生の秘密、ヴェルダの御使いと父の過去、自分の先祖のこと、様々な運命が絡み合って自分が今ここに存在しているということをヒラクは知った。


 母を許せたこと、父を理解できたこと、それはヒラクにとってなかったことにしていいことではない。


 そしてユピ……。


 失うぐらいなら出会わなければよかったと思えるほどにユピの存在はヒラクにとって大きかった。だからこそ、失ったユピを取り戻せるならば今ある現実を壊してもかまわないさえ思った。


 だが今目の前のユピはヒラクが失ったユピではない。ヒラクがまっすぐ向き合い、その心の奥底まで知り得たユピではない。


 以前のヒラクならそれでもユピを求めたが、今はその求める気持ちにさえ違和感を覚える。


「ユピ、ごめん……。おれはもう山を越えてしまった。海の先の世界を知った。前のようには戻れない……」


 ヒラクの目に涙が浮ぶ。


 これ以上言葉を続ければ、せっかく取り戻した世界を再び失うことになるかもしれないと思いながらも、一度気づいてしまったことから目をそむけることはできない。


「ユピ、おれは……ユピのことを母さんのかわりにしていたんだ。母さんがいれば得られたかもしれない愛情を、ユピに求めていたんだ」


 ヒラクはつらそうに言葉を吐いた。


「ヒラク、それでもかまわないよ。君が僕を求めてくれるなら。君が僕をどう思おうと、僕が君を愛することにはかわりない」


「ちがう、それもちがうんだ……」


 ヒラクは涙をこぼしながら、しぼりだすような声で言った。


「ユピはおれに必要とされる自分を必要としていただけだ。おれたちはお互いに愛してくれる相手を、愛する相手を、自分のために求めただけなのかもしれない」


 ヒラクの言葉を聞いてユピは驚くとともに、どこか複雑な表情をして黙りこむ。

 ユピを傷つけたかもしれないと思うとヒラクの胸が痛んだ。


「ユピが好きだよ……今まで以上に、特別に……。だけどもう、もとどおりにはならないんだ。山を越える前の世界には戻れない」


 ヒラクの言葉と同時に炉の火がはぜる音がして、その音に弾かれるように、暗闇に光の亀裂が走った。


 亀裂からもれ射す光で部屋全体が明るくなる。


 白い光が辺りに満ちて、炉辺も萱葺の天井も壁も輪郭を失っていく。


 ユピさえ光に溶け込んで、姿が消えかかっていた。


「ユピ……!」


 ヒラクは手をのばすが、その指先はユピの体をすりぬける。


「ごめん、ユピ。一緒にいたかったよ、ずっと一緒に……。だけどおれたちはきっと別な方向を見て旅をしていたんだ」


「神さまを探す旅?」


 ユピの言葉にヒラクはしっかりとうなずく。


「……それで、君の神さまはみつかったの?」ユピは消え入りそうな声で言う。


「うん、たぶん、ここにいる」


 ヒラクは胸の辺りに拳をあてた。


「そして、きっと、この世界……」


 ヒラクは白い光の源は自分の内から湧き起こる勾玉の光だと気がついた。


 ユピは青い瞳を細めてまぶしそうにヒラクを見る。


「そう……よかったね……やはり勾玉主は神にたどりつくんだね……」


「ユピにも勾玉の光はあるよ。本当は誰もが勾玉の光を宿しているんだ。だけど光ではなく勾玉の形を求めてしまうから、きっと見えなくなるんだよ。光そのものが勾玉だってことに気づけば、ユピだってきっと……」


 ヒラクの言葉を最後まで聞くこともなく、ユピは光に溶けて姿を消した。


 最後にユピが見せた表情がヒラクの脳裏に焼きついた。


 けれどもそこで意識が途絶えたヒラクは、再び目を覚ましたとき、それが確かなものだったのかどうかわからなくなった。


 ユピは穏やかに笑っていた。


 真っ白な雪原の中、あおむけになった状態で目を覚ましたヒラクは、青く澄んだ真昼の空を見上げながら、こめかみに涙をつたわせた。


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【登場人物】


ヒラク……緑の髪、琥珀色の瞳をした少女。偽神を払い真の神を導くとされる勾玉主。水に記録されたものを読み取る能力や水を媒介として他人の記憶に入り込むことができる能力がある。ユピの記憶に入りこんだヒラクはなぜか黄金王や神王の過去の記憶にもつながった。そしてそれまでの勾玉主が成しえなかった神の扉を開くが、唯一無二の神としての全体の統合を拒む。


ユピ……青い瞳に銀髪の美少年。神帝国の皇子。ヒラクと共にアノイの村で育つ。前世は神王。始源の鏡と剣を手に入れたユピの中の神王は、勾玉主であるヒラクを利用し、唯一無二の神となろうとするが、ヒラクに阻まれる。激高した神王からヒラクを守るため、ユピは神王を道連れに自ら命を絶つ。


イルシカ……ヒラクの父。アノイ族の長の息子。若い頃禁忌とされる山を越え、ヴェルダの御使いと呼ばれる緑の髪の女と恋愛関係になるが、双子の姉であるヒラクの母をアノイに連れてくることになる。ヒラクの母が去った後、山の向こうの砂漠でユピを拾い、ヒラクと共に育てる。


ヴェルダの御使い……ヒラクの母の双子の妹。砂漠の遊牧民たちのリーダーとなり、プレーナ教徒にはプレーナの使徒と呼ばれるようになった。聖地プレーナを崩壊させたヒラクを救い、神帝国まで同行したが、神帝国兵たちの攻撃により命を落とす。


ジーク……勾玉主を迎えるために幼いころから訓練された希求兵。勾玉主であるヒラクをみつけだし、ルミネスキのあるメーザ大陸へ導いた。一時はユピの言葉の支配を受け、ヒラクのそばを離れたが、ユピの支配も解け、神帝国で再会したヒラクとの絆をさらに深める。


ハンス……ジークと同じ希求兵の一人。成り行きでヒラクの旅に同行しているが、頼りになる存在。ヒラクを守りながら神帝国兵たちを蹴散らし大活躍するも重傷を負う。


カイル……山越えの果てにたどりついた砂漠の地下の町セーカの若者。初めはヒラクを敵視していたが後に協力関係となる。


キッド……海賊島の統領の息子。南多島海への旅の船の船長。ヒラクとは年も近く、危険な冒険の旅を通して友情を深めていく。



★黄金王…最初の勾玉主。黄金の勾玉を持っていた。太陽神とも呼ぼれ、月の女神信仰のルミネスキを支配し、月の女神を妃にしたといわれている。勾玉の導きにより始原の鏡を手に入れるが、その鏡を神の証とし「王の鏡」としたことで勾玉の光を失う。


 神王…黄金王の死後現れた二人目の勾玉主。赤い勾玉を持っていた。ユピの前世。自らを神の中の神、王の中の王とし、太陽神信仰者や月の女神信仰者は異端として迫害し、メーザ全域を神の統治国家とした。神の証の鏡に加え、偽神を打ち払う剣があれば真実の神になれると思っていた。


 神帝…神王の再来といわれ、神王亡き後、国を失ったネコナータの民たちの希望の存在として信仰対象となり、北の大陸ノルドに神帝国を築いた。前世の神王と生まれ変わったユピの中の神王に利用されただけの存在。我が子であるユピを恐れ、神帝国から追放したが、最後は剣を手に入れたユピに殺され鏡も奪われる。


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