第16話 面(11/16の分)
「前に言ってた天沢って人、そんなに恰好よかったの?」
夕食を終え、少しまったりとした時間を過ごしている時だった。昼間の動画の事もあり少々疲れていた香坂は、うつらうつらしていた所をヒロコの質問に起こされる。
「ええと、少しあどけない感じの爽やかな好青年でね。すぐに会社のアイドルになったよ」
ふうん、と聞いてきた割には気のない返事をするヒロコに香坂は首を傾げる。
「でも、なんだって急に天沢くんのことを?」
「いや、ツラの良い奴って信用できないなぁって」
いきなり何を言い出すかと思えば、ヒロコは大きく重たそうな画集を広げていた。そこには竪琴に添えられた美しい男性の生首を持ち、切ない表情で佇む女性が載っていた。
「それも神話の登場人物?」
「そう。ギリシャ神話の吟遊詩人、オルフェウス。亡くなった妻を取り戻すため、自慢の竪琴と歌声で神々すら魅了して冥界を下った男」
「いい話じゃないか」
「わかってないなぁ、おじさんは」
ヒロコは深くため息をついた後で、彼の逸話を話し始める。
オルフェウスは竪琴の名手で、その美しい歌声と音色に動物や植物、妖精すらも聞き惚れる程だった。
彼は妖精のエウリュディケと結婚をするが、それからすぐ彼女は足を毒蛇に噛まれて亡くなってしまう。オルフェウスは悲しみの嘆きを歌うばかりだった。そして、エウリュディケを取り戻すために黄泉の国へと向かうのである。
「地獄には番犬である三つの頭を持つ猛犬、ケルベロスなんかもいるんだけどね。オルフェウスの歌と琴の音色に聴き惚れちゃうの。それで、冥府の王であるハデスとその妻、ペルセポネの元まで辿り着いて得意の歌と演奏で感動させてエウリュディケを地上へ連れていくことを承諾して貰うわけ」
「まだ、良い話のようだけど……」
不思議そうな香坂に、ヒロコは大きく首を横に振る。
「その時にハデスから、地上に辿り着くまでに妻の方を振り返ってならないって言われるの。それなのに、もうすぐ出口だって所で不安に駆られてオルフェウスは振り返ってしまう。哀れエウリュディケは黄泉の闇の中へと引き戻されちゃうんだよね」
なるほど、と香坂も頷く。もうすぐ最愛の妻に会える気の緩みと、本当に妻と再会できるのかという疑念に襲われたのだろう。
「そのまま、エウリュディケとはお別れ。妻を思い女性との恋愛を断ち、そのせいでトラキアの女たちに恨まれ八つ裂きにされて川に流されたんだって。音色を奏でる竪琴と一緒に流れた生首は絶えず悲しい歌を歌い続け、流れ着いた島で手厚く葬られた」
それが、これ。ヒロコは絵画を指し示す。この悲劇に相応しい美しい絵だが、ヒロコは難しい顔をしている。
「でも、結局オルフェウスは妻を信じきれなかったんでしょう? それを美談にするのは違うと思うんだよね。死んだ後で黄泉の国で幸せになったなんて言われても、一度裏切られたエウリュディケは絶対に複雑だと思うし」
珍しく腹を立てているヒロコの姿を新鮮に思いつつ、再び画集に目を落とす。まさに悲劇の主人公として綺麗な死顔を浮かべるオルフェウスが、心無しか自分に陶酔しているような気がしてくる。
「でも彼女だって、夫が死んでも自分を思って歌ってくれるのは嬉しいじゃない?」
「気持ちだけじゃ意味ないから」
ぴしゃりと言い放つヒロコに、香坂はびくりと反応する。
妻を追いかけられなかった自分からすれば、危険を省みず死者の国へと足を踏み入れたオルフェウスは立派だと思うがヒロコにしてみれば違うのだろう。
ごめん、と言い残して席を立つ彼女に香坂は声を掛けることもできなかった。
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