第3話 篠塚さん!私あの人とはもうやっていけません!

事業所に到着するとすぐさま利用者を降車させ職員に誘導させる。自分は定位置に車を戻し車内の消毒を行ってから戻ると、利用者は到着後の検温や血圧測定の健康観察を行っている。朝の見慣れた風景だ。これから朝の体操を行って、利用者同士の交流の時間を設けた後は入浴の介助に大忙しとなる。車のキーを戻そうと、管理者が集まる事務所に入室しようとすると

「篠塚さん!」

ふいに女性職員に腕を掴まれた。

篠塚はその顔を見るなり

(またか)

心の中でぼやく。

「どうしましたか、犬飼さん」

相手は待っていましたとばかりに感情を溢れさせた。

「私あの人とはもうやっていけません!」

篠塚は慌てて犬飼を管理者室へ誘導する。数人の利用者がこちらを振り返って見ており、その中には本日来たばかりの榊原氏の姿も見えた。

篠塚は部屋の中のソファーに腰掛けるように誘導しながら

「犬飼さん、お気持ちは分かりますが、利用者さんの前ですよ」

と窘めた。

相手は今にも泣き出しそうな表情で

「すみませんでした。でも」

聞かずとも、この話のあの人が誰かは容易に想像がついた。おそらく猿谷という男性職員であろう。猿谷は、犬飼介護士の一回り上の男性職員で、先に主任という役職のついた彼女に嫉妬の念を燃やしているようだった。そのためか執拗に嫌がらせをしかけるのでこのような状況が度々起こるのである。篠塚も見かねて注意を加えるのだが、そのときはひどく反省し、後悔した様子を見せるのでいかんともしがたかった。

「あの人、夏祭りのかき氷担当なんです」

犬飼介護士は名前など決して呼ぶまいと決めているのか、「あの人」を繰り返している。

「夏祭り」

「再来週のうちのイベントです!」

猿谷への怒りが自分に飛び火しそうな勢いだったので、篠塚は慌てて腰を浮かしてコーヒーメーカーに向かった。犬飼はそのあとを追いかけてくる。

「だいたい担当だったら先を読んで機械の予約とかしておくべきなのにまったく動かないんだから。私痺れを切らしてかき氷機の予約まで入れたんですよ!」

「それは大変だったね」

「大変なんてもんじゃありません。今はコロナ騒動も収まってきているし、どの団体も夏祭りをやろうっていう気風なんですよ。かき氷機なんて早く取らないと春先以降は予約満杯で取れないんですから。まあ本部に連絡したら確保できたんですけど」

(できたんじゃないか)

と言うのは心の中だけで。

「それで今日は何が?」

「だからそのかき氷のことなんです。私が確保したかき氷機はブロックタイプの氷対応なんです。それを何度も言っていたのにあの人クラッシュタイプの氷を発注掛けてたんです。もう無理です!かき氷をメインに楽しんでいただこうと思っていたのに」

最後は半泣きである。

「犬飼さん落ち着いて。まだ二週間あるでしょう。発注かけてしまったものはどうなるかはわからないにしてもブロックタイプなら探せばあるかもしれない」

「それを探しているんです。でもどこもクラッシュしかなくて。予算も限られてますし、ネットの高いものなんてとても」

なるほどそれでパニックになっているわけだ。篠塚はコーヒーを一口飲むと相手にもカップに注いでやり、口をつけるのを待ってから口を開いた。

「分かりました。氷は僕が何とかしましょう」

「え?」

「犬飼さんはその他にもやるべき業務があるでしょう。僕が代わりに氷は手配しておきます。発注してしまった氷も最悪僕が買い取ってもいいですし」

「でもそれでは」

「僕は酒はロックで飲むのが好きなのであるのは困りません。それよりどの店を回られました?後でリストを見せてください」

「それならここに」

相手は首尾よくパソコン作成したリストを取り出した。

「なるほど。当てがないことはないです。この辺りだと向日町の業務用スーパーは確認されましたか」

「いえ、そこはまだ。距離も少し遠いのでリストにあげていませんでした」

「もしかするとこっちにあるかもしれない。業務用といっても店舗で扱う品が違う場合がありますからね。明日にでも確認しておきましょう」

「ありがとうございます」

「いえ。それより犬飼さんは」

篠塚はコーヒーカップを指差して、利用者のいる広間へと続くドアノブへと手を掛けた。

「コーヒーを飲み終わってから出て来てください。その顔じゃ利用者さんが心配します」

「すみませんでした」

言う相手の顔に自分への憧れの眼差しを感じながらドアを開けた。背中にその眼差しが降り注いでいることも充分に意識して彼は扉を閉める。その後で大きく息をついた。

しばらく時間潰しに一人きりでいる利用者へ声を掛けながら周囲の様子に気を配っていると犬飼が外へ出てくるところだった。篠塚を見つけると小さく会釈をする。篠塚はそれに応じてから入れ替わるように管理者室へと戻った。

入るなり自分より一回り若い管理職候補の男性職員が歩み寄る。

「篠塚さんも大変ですね」

「まあね」

「まったく懲りもせずよくやりますよ」

「いや、今回のはただ単のケアレスミスだろう」

篠塚は飲みかけで置いていったコーヒーに口をつけてから軽く息を吐いた。

猿谷という男はこういう聞き間違いをよくやらかした。話半分に聞いて思い違いをしたまま行動をするので、周りの意図する行動と伴わないことが度々あった。あの男であればブロックとクラッシュの取り違えくらいしそうなものだ。

「それにしたって犬飼さんもあんなにきゃんきゃん吠えなくてもね。まだ主任クラス早かったんじゃないですか」

目上の人間に対して随分上から目線で発言するものだと思いながら、篠塚は体はデスクに向けたまま答える。

「彼女は実力がある。他の会社で管理者の経験も幾度がしているよ。ただ今回は彼女にとって不利な状況が続いているだけだ。勤続年数と能力は比例しない」

あえて目の前の男に視線を向けて放ったが、どうも相手には響いていないらしい。

「もう猿谷さん主任にしてあげたらいいんじゃないですか?」

「そんなことをして困るのは上だ」

凡ミスを繰り返して他の職員を動揺させる人間に中間管理職など務まるはずがない。

「もうほんと日本昔話じゃないんだから、猿と犬で争わないでほしいですよね」

「それはさるかに合戦でしょう?そういうのは犬猿の仲っていうのよ」

先程まで黙って聞いていた女性事務員が口を出した。

「それそれ!」

男性職員は高笑いして応じる。何がおかしいのか周りはけらけらと声を立てている。

「勘弁してください。これ以上揉め事を起こされたらこっちの胃の方がやられます」

言い放ってから、篠塚は馬鹿馬鹿しくなって部屋から退室した。

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