羽坂友菜は円卓を回す
名無之権兵衛
第1話「入社式を途中退出してはいけない」
四月一日、午前九時三十分。
女子トイレ。
羽坂友菜の前にパンツ一丁の男がいた。
彼は片膝をつき、深々と彼女に頭を下げている。
どうして、こんなことに……。
***
十分前。
東京・日本橋のイベントホール。
羽坂友菜の目は大きく見開いていた。
周囲にはリクルートスーツに身を包んだ五百名の男女が、寸分のずれもなく整列された椅子に座っている。壇上には上質なスーツを着た代表取締役が、これから社会の荒波を精一杯に泳がんとする新入社員に向かってエールを送っていた。
その代表取締役の後方に半裸の男が立っていた。
男は鼠蹊部が丸見えなブーメランパンツを身につけ、まるで芸術作品を見るような目で自身の逞しい体を眺めている。
(おかしい、私は入社式に来ているはず。なにかの見間違い? でも、瞬きしても消えないし……)
友菜は隣に座る渡邉茉莉乃の膝を叩いた。彼女は内定式で知り合った友人である。
「……どしたの、ユナっち?」
「マリノ……、あれ見える?」
友菜は視線で例の男を指した。男は直立し、両腕をピンと伸ばし、Y字のポーズをしている。
「えっ、どれ?」
「見えない? あれだよ、あれ」
「えぇ、どれ?」
友菜は唾を飲み込んだ。言えるわけがない。入社式という厳かな場で「裸の男がいる」なんて。
友菜はもう一度、男を見た。
男は友菜をじっと見つめていた。
(……っ!)
咄嗟に視線を外す。彼は間違いなく自分のことを見ていた。
鼓動が早くなり、冷たい血液が全身を駆け巡る。
「大丈夫?」
茉莉乃の問いに「う、うん……」と答えながら友菜は唇を固く結び、再び顔を上げた。
男はやはりこちらを見つめていた。金髪のマッシュウルフ。琥珀色の瞳。
友菜はすぐ視線を逸らそうとした。
刹那——
男が笑う。
目を細め、口角を釣り上げ、〝優しい〟という仮面を被った恐怖の具現化とも呼ぶべき笑みを浮かべた。
友菜の全身に鳥肌が立った。
(変態だっ‼︎)
彼女の心は決心で満たされた。
「ご……ごめん。ちょっとお手洗い……」
そう言い残して席を立ち、早足一歩手前の歩調で出口へと向かう。
扉を開ける際、例の男を一瞥する。男は壇上から降りて、友菜に近づこうとしていた。
血の気が引く。
会場を出たら、無我夢中に走り出した。ここ数年してこなかった全力疾走だ。息は切れ、履き慣れないパンプスは擦れ、ストッキングを破く。それでも彼女は走った。
走らねばならなかった。
振り向けば、男が会場から出てきていた。
(どうして誰も止めないの!)
答えは薄々わかっていた。きっと彼は……
息を弾ませた羽坂友菜は女性用トイレの洗面化粧台の前にいた。曇り一つない鏡には、真っ青になった自分の顔が映っている。
(ここまで来れば、もう……)
「羽坂友菜様」
背後から声がした。反射的に鏡を見るが、青ざめた自分以外、誰も映っていない。
それもそのはずだ。
彼は、自分にしか見えないのだから。
振り向くと、パンツ一丁の男が頭を下げていた。
「ひっ……」
「このような格好で失礼します」
顔を上げた男は清廉な瞳を友菜に向けた。彼女は一歩、後退りしようとしたが、洗面化粧台にぶつかる。
「我が名はセヴァン。あなたに与えられた能力が具現化した存在です」
「能力?」
「はい。あなたは選ばれたのです。人類の全てが刻まれた記録媒体——〝人類知〟にアクセスできる〝
(えぇ……?)
「私は番人の付き人として召喚されました。これから昼夜問わず、あなたの側で〝人類知〟へのアクセスをサポートいたします」
(えぇえぇぇっ⁉︎)
「もちろん、私は我が主だけに見える存在。現実世界に干渉することはできません。ただ、どうもうまく顕現することができなかったようで、このような格好に……。先程から着替えを試みているものの、うまくいきません」
(え……っ)
「ですので、大変心苦しいのですが、しばらくこのままでいさせていただきます」
(えぇえぇえええええぇえええぇ‼︎)
頭が真っ白になった羽坂友菜の前にセヴァンは片膝をつき、
まるで主人に心臓を捧げるかのように。
「どうか、これから末長く、よろしくお願いします」
顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべる半裸の男性を見た友菜は、
その場から勢いよく逃走した。
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