あるいは幸運なミステイク
新巻へもん
パートA 葉奈
ぽろ。
パンプスのかかとが取れる。
気合を入れるために普段履いていないのを選ぶんじゃなかった。
失敗しちゃったなあ。
取れたかかとをつまみ上げて葉奈は、駅へと急ぐ人の邪魔にならないように脇に寄る。
スマートフォンに目を落としている人も忙しげに正面を向き歩く人も葉奈には目もくれない。
稀に視線を動かす人がいても、何をしているんだという顔をして通り過ぎていく。
葉奈は後ろを振り返った。
いま出てきたばかりのアパートが50メートルほど先にみえる。
素早く思案した。
よし、まだ間に合うはず。
高さが揃っておらず歩きにくかったが、足早に戻ると階段を駆け上がった。
鍵を開けて狭い玄関脇の靴箱から、別のパンプスを取り出す。
そこで何か気になった。
あ。
靴を脱いで居間に向かう。
部屋の真ん中に鎮座したオイルヒーターのスイッチを入れっぱなしだった。
ずっと稼働していても恐らく火事になることはないけれど電気代が凄いことになる。
葉奈はヒーターのスイッチを切った。
気管支が弱い紘一が空気が乾きすぎなくていいんだよと言うので買ったものだが、そう言った当人はもう一緒に住んでいない。
少しだけ感傷的な気分になりかけたが、会社に遅れてしまうと慌てて玄関に向かう。
そういえば、このパンプスも紘一と出かけたときに買ったやつだったっけ。
玄関を出て鍵をかけると、階段を下りる。
路上に出るとバッグの紐を肩にかけ直し、駅に向かって走り始めた。
大通りを横切る信号に引っかかったせいで、ホームに駆け上がったものの、葉奈は約束に間に合う電車が発車するのを見送ることになる。
ああ。もう。
今日は大事なプレゼンがあるのに。
この後の電車では間に合わない。
葉奈は踵を返すと階段を駆け下り駅を出てタクシーに飛び乗った。
時計と睨めっこしながらやきもきしたが、アポの五分前にタクシーは目的地に滑り込む。
会計を済まして正面玄関から入ると上司が受付近くに佇んでいた。
「課長より遅くなってしまって申し訳ありません」
「いや、私もついさっき来たばかりだ。確かにいつもは早く来るのに珍しいな」
「家を出たところで踵が取れちゃいまして。ついてないです」
「それで厄が落ちたかもしれないぞ。さあ、気合を入れていこう」
葉奈が行ったプレゼンに対するクライアントの反応に手ごたえを感じる。
結果の通知は後日であったが、職場への帰り道で課長が葉奈を褒めた。
「反応を見て、B案に切り替えたのが効いたな。あれはいい判断だったと思う」
「ありがとうございます」
お礼を言いながら、葉奈は心の内でペロっと舌を出す。
本当は間違えちゃっただけなのだけどな。
A案のファイルを開こうとしてなぜかB案のファイルを開いちゃったから、そのまま続行したのだけど。
駅に着くとモニターに運転中止情報が表示されていた。
案内放送によると電車が故障して立ち往生しているらしい。
なんと葉奈が乗ろうとしていた電車が駅間で止まってしまって、乗客の徒歩での移動が始まったばかりということだった。
危なかったなあ。
葉奈は胸をなでおろす。
もし、電車に乗っていたらプレゼンに間に合わなかった。
電車が止まってしまうのは仕方ないことだけど、コンペをすっぽかしたとなったら社内で相当居心地が悪くなったはずだ。
そして、1週間後、コンペの結果が通知される。
残念ながら葉奈の勤めている会社の提案はライバル企業に負けてしまった。
ただ、葉奈がそのことで責められることはなかったのでほっとする。
それでもA案をプレゼンしていたら結果が変わったかもとは思った。
家に帰って、微笑む紘一の写真に報告をする。
「頑張ったけどダメでした。でも、また次に頑張るね」
半年ほど前に容体が急変して治療の甲斐なくなくなってしまった紘一のことを、葉奈はまだ引きずっていた。
周囲からは若いんだし前を向いて新しい人生を歩いたら、などということを言われている。
当の紘一が残した手紙にも同じようなことが書いてあった。
客観的に見ればその方が良いのかもしれない。
しかし、葉奈は過去と共に生きることを選択し後悔はしていなかった。
それでも、こんな夜には紘一に会いたいなと思い、後を追うという道もあったかもと思う。
「お休みなさい」
誰にともなくつぶやいて眠りにつく葉奈の目尻は少し湿っていた。
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