No.2 世界が終わる5分前に

風白狼

世界が終わる5分前に

 暗闇が追い迫ってくる。それが怖くて僕は走る。僕は夜を見たことがない。僕に限らずみんながそうだ。夜が来れば僕らは終わる。『常日とこひの国』――僕らがそう呼んでいるこの世界は、太陽が没するとともに滅亡の時を迎える。

 確かめた人は誰もないけど、少なくとも古伝承はそう伝えていて、それが真実であることを、なんとはなしに誰もが信じ込んでいた。

 馬鹿げた御伽おとぎ話だと鼻で笑うのは簡単だけど、いざ本当に太陽が西に傾き始めれば、眼前で進行する伝説通りの事態を笑い飛ばせる者はそうそういない。僕だってそう。まともに取り乱して、何日も意味なく騒ぎ立てたあげく、狂ったように今、茜色に染まり始めた空の下を走り回っている。とにかく逃げなきゃ。どこかへ行かなきゃ。その焦りだけに突き動かされ、息があがるまで駆け続けたけど、アテなんてありはしないし、たどり着くべき“どこか”なんてますます在るわけがない。ついに僕は精も根も尽き果てて、並木道の路傍にへたりこんでしまった。

「そうして座ってるくらいなら」

 と、僕の肩に後ろから声をかけてきた人がいた。振り返れば、見知らぬ女性がひとり、穏やかな微笑を僕に向けている。

「夕焼けを見に行かないか」

 僕はしばらく、呆けて彼女を見上げていた。きれいな人だったけど、美しさ以上に異様さが際立つ、そんな感じの女性だ。やがてくる滅亡に誰もが浮足立っているこの時に、彼女だけは奇妙なまでに落ち着き払っている。まるでと主張せんばかりに。

「……なぜ?」

 彼女が僕へ、白い手を差し伸べる。

「今しか見られないからさ」



 ガレージから自転車を引っ張り出して来、荷台にクッションをくくりつけて簡単な後部座席をしつらえた。僕がサドルにまたがると、彼女が後ろに横座りして僕の腹へ腕を回してくる。その肌の感触はぞっとするほど滑らかで、忘れかけていた情熱が蛇のように首をもたげるのを僕は感じた。「しっかり掴まって――」そう言うか言わないかのうちに、彼女は我から僕の背中に身を寄せてきた。力強く圧し当てられた、柔らかな肉体……その不思議な冷たさに身震いし、僕はペダルを漕ぎ始める。

 なぜだろう。

 理由はまだ分からない。

 けれど、行き先と目的はできた。とりあえずの、当面の。

 西の岬まで、ほんの半時間の小旅行。岬に近付くにつれて、空の茜色が鮮やかさを増していく。太陽が沈み切るまで、もう余り時間がない。

「急がなきゃ」

「気ぜわしいな」

「ねえ。日は西の海に沈むんだよね」

「そうだ。太古より絶えずそうしてきたようにな」

「その先には何があるんだろう? 太陽が海に沈んだ……その先には?」

「いいや」

 彼女が首を振ったらしいのが、僕のうなじをくすぐる髪の感触で知れた。

「そこは問題じゃない。何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。『こうだ』とまことしやかに決めつけるのは簡単だ。だが、そんなのは問題じゃない。本当にどうでもいいことなんだよ、それは」

「じゃあ、問題は?」

「話してみないか。これまでのことを」

 問われるまま、僕はしゃべりだした。家族のこと。仕事のこと。子供の頃のこと。うまくいかなかった恋のこと。思い描いていたけれど、ついに叶えられなかった夢のこと。少しずつ、少しずつ、人生という物語を紐解くように、僕はとつとつ語っていく。

「おかしいよね。ずっとこの世界が続くと思ってたんだ。今日が駄目なら明日があるって思ってたんだ。いつか唐突に『明日』が存在しなくなるなんて思いもよらなかった。いや……知ってたはずなのに無視してたんだ。見つめると怖かったからか、あるいは、単にめんどくさかったからか……」

 なんでこんなこと話してるんだろ。なんでこの人にしゃべってんだろ。僕の疑問をよそに、彼女はじっと耳を傾けてくれた。ままならなかった僕の人生、丸ごと全部飲み込んでくれた。

「だけど今、僕は自転車を漕いでる」

「素敵なことだ」

「そう?」

「そうじゃないか?」

 そうかもしれない。

 いつのまにか僕は狼狽を忘れていた。ひと漕ぎごとに岬が近づいてくる。道は残すところあとわずか。これまで長く長く歩んできたこの道の終着点、空の果てが迫ってくる。

 否応なく。



 いつまでも着かなければいいのに、という思いとは裏腹に、僕は岬に着いてしまう。崖っぷちに自転車を止め、降りることも忘れて僕は目を細めた。

 眩しい。

 なんて眩しい輝き。焼け付くように鮮やかな橙赤色の空に、目のくらむほどの熱い太陽が揺らいでいる。僕は息を飲む。僕は呆然と立ち尽くす。これほど美しいものを、果たして見たことがあっただろうか。これが茜さす夕暮れ。世界の終わりの景色。今しか見られない景色。誰だって一度しか見ることのできない景色。

 これを見るためにここまで来た――なんて言うほどはっきりとした動機ではなかったけれど、結果的に僕はにたどり着いた。

「これが全てさ」

 と彼女が言う。

「君は歩んだ。そしてこの景色を見た。他の誰でもない、君自身がこれを見たんだ。そうだろう、え……」

 分かる気がする。

 ひとは所詮、ひとりの世界。始まった世界は、いつかは終わる。いかなる客観的な価値も尺度も、終焉を前にしては全くの無意味だ。どんなときだって……こんなときだって……。たとえ目の前の太陽が、水平線に沈もうとしていても。たとえ茜色の美しい空が、死を思わせる濃藍色に押し潰されようとしていても。

 ああ。

 ここまで来て良かった。

 世界が終わる5分前。僕は不思議と笑えている。

 死が、彼女が、僕の背に頬を添わせてくる。骨のように冷たいその感触を、僕は次第に、心地よく感じ始めていた。

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