138話 第11幕 とあるニケでのひととき ③

7月02日 14時33分


 中休みが終わって帰るコマルママを店のドア前で見送り、店内に戻ろうとした時。神楽坂かぐらざかの裏路地の静けさを破ってスマホの着信音が鳴り響いた。


「ん?誰だろう?」


 店先の看板の前でスマホをタップすると、おずおずとした可愛らしい声がした。


「あの……ルミさんですか?……」


「はい……あ!陽奈ひなちゃん??」


「そうです…!覚えててくれて嬉しいです」


 声の主は万莉まりの友人の陽奈であった。そう言えば、前回会った時にメッセンジャーの交換をしていたのだ。彼女はグループの中でもリーダー格で元気な子だった。


 ただ、今日の声にはいつもの元気がない。


「陽奈ちゃん、どうしたの?」


「──ルミさん……実は、万莉の引っ越しが来週の土曜日に決まったの……」


 先日の話では、万莉は叔母の松本純子まつもとじゅんこに引き取られ、半蔵門はんぞうもんのマンションに移ることになったということだった。


 鎌倉かまくらと半蔵門……これから受験を控えた高校生の陽奈たちにとっては、気軽に会いに行ける距離ではなさそうだ。


「そっかぁ、もうすぐなんだ……それはみんな辛いよね……」


 私は陽奈の心情に寄り添いながら、「ニケ」と書かれた目の前の店の看板を見つめた。風が時折、それを揺らして通りすぎていった。


「万莉、まだまともに話してくれてもいないのに、お別れなんて……辛すぎるよ」


「そうだよね……万莉ちゃんの様子は、あれから変わりはないんだね……」


 彼女は何も言わない。その沈黙が全てを物語っていた。


「──そっか、それは寂しいよね……」


 そう言うと陽奈が少し間をおいて喋り出す。


「──ルミさん……」


「なあに?陽奈ちゃん」


「お願いがあるんです」


「どうしたの?」


「あの……ルミさんの知り合いの怖そうな警察の女の人……」


「怖そうな?」


「そう、怖そうな人……スリムで黒いスーツを着ていて……」


 キレのある笑みを見せる顔が頭に浮かぶ。警察内での知り合いは、もちろんただ1人だ。


「病院でルミさんと一緒にいた人」


「──ミカさん?」


「ミカさん……かな?」


「あ、うん。ミカさん」


「──その、ミカさんっていう警察の人に、頼んでくれませんか?」


「何を頼むの?」


「うん、あのね……万莉の……引っ越しを遅らせてって……」


「え?」


 気持ちはわかるが、ミカが万莉の引っ越しを直接に指揮しているわけじゃない。そもそも彼女は、万莉やその友人たちの心情に寄り添ってくれるようなタイプだろうか?


「ダメかなぁ……私たち、万莉とまだ……このままお別れなんて……」


 半分泣き声で必死に訴える陽奈の声に、私も思わずもらい泣きしそうになる。


「うん……わかった。言っておくね。ミカさんとは近々会う予定だからね」


「ホント?ですか??」


「うん、言うだけは言っておくよ。陽奈ちゃんたちの想いは伝えておくよ……大丈夫」


「言ってくれるんですか?……嬉しい!ありがとうルミさん!」


「でもね陽奈ちゃん……万莉ちゃんの引っ越しを遅らせられるかどうか、約束は…難しいかも」


「そっか……でもでも、わからないよね、ミカさんが何とかしてくれるかも。ルミさん、よろしくお願いします!」


 彼女の声が明るくなる。陽奈の後ろではほかの子たちが固唾をのんで聞き耳を立てていたのだろう。何人かが控えめに喜んでいる声が聞こえた。


 陽奈は何度もありがとうを言って電話を切った。私に一縷の望みを託したのだろう。私は大きくため息をつく。


「高校生の時の友達って良いなぁ……青春だよね」


 レンガ調の壁に寄りかかると、ぼんやりと店の看板を見つめ、それを指で揺らす。


「それにしても、万莉ちゃん……来週の土曜日に引っ越しなんだ。もう1週間ないじゃない……」


──今の万莉のことを思えば、いつまでも入院しているわけにはいかない。


 叔母の松本純子は半蔵門の自宅マンションで不動産経営をしており、万莉一人養うのは何の問題もないようだ。


 純子は夫を、万莉は家族を失って、お互いがただ1人の血縁なのだ。2人で住むのはとても良いことだと思う。


 それに、万莉は今後も警察の警備が必要な状態だ。その意味でも、警視庁に近い半蔵門は何かと便利であり、万莉にとってこの流れはベストだろう。


 ただ、彼女はまだ高校生、心許せる大切な友人たちと離れるのはやっぱり辛いことだと思う。


 私は、陽奈に頼まれた件についてミカにメッセンジャーを送りながら、ふとあることに気付いた。


「あれ?来週の土曜日って……」


 もう一度、スマホでカレンダーを見てみる。


「土曜日って、7日だ……」


 奇しくも、先ほど洋介から招待を受けた神江島家の引き継ぎの儀と同じ七夕の日であった。



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