133話 第10幕 謎めいた結末へ。⑥
6月25日 22時30分
暗い天井からは間接照明のぼんやりとした灯りが垂れ、壁際の水槽から零れ落ちる青い光が、揺れる波の影を描いている。
部屋の主・龍子は毅然と背筋を伸ばして中央のソファに腰掛けていた。その姿はまるで、この空間そのものを支配しているかのような重々しさをまとっていた。
「どうぞ、お入り下さい」
龍子はそう言うと立ち上がる。一切の隙を見せない動きで私の前までゆっくりと近づくと、深く頭を下げた。
その瞬間、部屋の空気がピンと張り詰める。私も思わず息を詰め、彼女の動きから目を離せなくなった。
そして、龍子が再び顔を上げた瞬間──
「…!」
彼女の目の奥に、奇妙な違和感を覚えた。
さっきまでの鋭さとは別の、何か冷え冷えとした光が一瞬、揺れるのを見たのだ。私の心臓がかすかに震える。
龍子は私の手を取り、まるで儀式でもするかのように、そっと両手で包み込んだ。
掌から伝わる体温は不思議と冷たく、私はどこか別の空間に引き込まれるかのような感覚を覚えた。
「ルミさん、このたびのこと、深く感謝いたします」
低く響く声はしっかりと私の耳に届いているはずなのに、その言葉は──
──声が遠い……何だか水面の下から聞こえてくるみたいな……これは……?
「え、あ、いえ、私は何も……」
私は慌てて言葉を探したが、彼女の視線に射抜かれてそれも途切れる。再び瞳を見つめると、今度はもっと異質な違和感が迫ってきた。
龍子の声の調子が微妙にずれていて、まるで別の誰かが囁いているかのように思える。
「あなたが成し遂げたことは……神江島にとってかけがえのないことであったのです。これを理解するのはまだ難しいでしょうが……」
言葉の一つ一つがのしかかってくるようで、私は無意識に後退りしそうになる。龍子の声色が時折変わる。高く低く、太く細く、時に不協和音を帯びて……
いや、表情もだ──まるで、彼女の内に別の誰かが潜んでいるかのように。
「ですが、それでも私は心から感謝しているのですよ。ルミさん、あなたには──この神社の、いえ、神江島そのものの未来を守って頂いたのですから」
「え、未来……?」
瞬間、見えるはずのない何かが、彼女の背後から私に語りかけたように思えた。
「そう……このキマリは保たれるべきなのです」
「キマリ……?」
彼女の声は私の耳に二重に響いて届く。一方は母としての悲痛な思いを滲ませ、もう一方はどこか超越的な、冷徹な神官の声のように……。
龍子の顔が、言い知れない緊張感に満ちたかと思うと、その表情がゆっくりと柔らかく、穏やかに変わった。
そして、うっすらと微笑みながら彼女は告げた。
「いずれ……貴女にもわかるでしょう。火龍の死は───…………ことを」
水槽の水がゴボッと音を立てた。
「……!!」
龍子の言葉に、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。
そんな……そんなバカな。
いくらなんでもそれは……本当に火龍の母親の言葉だろうか?
そもそも、ここにいるのは本当に龍子……?
目を見開いて彼女の表情を見極めようとするが、突然頭がぼんやりとし、足元が揺れるような感覚に襲われた。
──これは……まただ、あの麝香のような香り……!
拡散しそうになる思考力を必死にかき集め、私は目を閉じて頭を振る。
──彼女の中に、何か別の「意志」がいる──?
「──ルミさん」
私はハッとして目を開く。
その瞬間、彼女の声は再び一つに収束し、現実の感覚が戻ってきた。と同時に、私の頭の中に浮かんでいた思考は跡形もなく霧散した。
龍子の瞳はいつもの冷静さを取り戻しており、私はただ呆然と彼女を見つめる。
──あれ?私、今……何を考えていたんだっけ?──
「どうかこれからも、神江島の未来を見守ってください」
龍子は深々と頭を下げる。
「あ……は、ハイ」
曖昧な言葉が口から出る。
何かに追い立てられるように、私は洋介に手を引かれ部屋を出た。
私はぼんやりとしたまま、洋介を見上げて首を傾げる。
「洋介さん、あのね……」
「どうしました?」
「えっと──あれ、何だっけ……??」
「大丈夫ですか?探偵さん、無理はなさらないでください」
彼の声がどこか遠く、虚ろに響く。
神江島家の長い廊下を見れば、そこは薄暗く、その奥に何かが潜んでこちらをじっと見ているかのようだ──
暫く黙って俯いていた洋介が、やがてぽつりと低く呟いた。
「火龍の無念を晴らしてくれて……ありがとう。本当に、ありがとう」
その声の中に確かに人間らしい温もりを感じ、私はほっとする。
昨日ここに来てから、乙龍をのぞく家族の誰もが、火龍の死に対して余りにも無関心に思えたからだ。
そこで、ふと私は目を頼りなく宙にさまよわせる。
──私……さっき……龍子の口から、何か恐ろしい言葉を聞いた──?
龍子の顔が浮かぶ。何かを語る口元──
キマリは……火龍の……死は……です……から…
「──さて、帰ろうか。姫、ご苦労だったね。拉致は終わりだよ」
刑事ミカの声に、私は我に返る。瞬間、頭の中に浮かんでいた何かが音もなく消え去った。
車のキーを片手にミカが玄関を出ていく。
「あ、ちょっと待ってよ、ミカさん」
「トロトロしてると置いていくからね」
「本当にもう……」
私は玄関で靴を履こうと桧の下駄箱に置いてある靴ベラを手に取り、重厚な雰囲気の玄関を見渡す。
「ん?あれ?」
そう言えば……
私たちはいつから、神江島家の当主である神江島龍子を疑うことをしなくなったのであろうか?
──さすがは名探偵だね、私の相棒だよ。良いかい?疑わしいのは姫の大切な王子含めて、神江島家の家族全員だ。
今朝話していた時のミカの言葉だ。疑わしい人は……確か、龍子を含め家族全員ではなかったのか?
──神江島の人たちに心を許さない事ね……あなたの青臭さが全てを台無しにするのよ。
昨日のマユの言葉だ。マユは何を知っているのだろう??
「姫、もう置いていくからね!電車で帰るかい?」
「──あ、いま行きます!ちょっとミカさん、待って!」
ミカの声に、慌てて靴を履きドアを開け……
ギィー-、バタン、とドアが閉まる。
頭に浮かんだ疑念が、再び霧のように消えていくことに、私は気付かなかった。
──薄暗い玄関の隅々から、無数の瞳がじっと私の背中を見つめていたことにも──
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