閑話休題6 〜写真喫茶ニケにて〜


6月25日 11時00分


 東京・神楽坂かぐらざかの裏路地の一角に、写真喫茶「ニケ」はある。


 店内は落ち着いたアンティーク調の雰囲気で満たされ、流れるのはジャズピアノの心地よいBGMと淹れたてのコーヒーの香り。


 店主のアニや常連客が撮った写真が雑然と、実は絶妙なバランスで飾られている。


「うわぁ、ユッキー、ちょっ!何だこれ!説明してくれないかな?」


 昼下がりの店内に、アニの声が響き渡った。


 店の床には一面に積まれた段ボールの山。アンティークなカフェに積み重ねられたダンボール箱の山は、まるで前衛アートのように見える。


「なに?何か届いたの?って、うわぁ……アニさんナニこれ?!」


 奥から出てきたユッキーは口を大きく開けて、アニ同様驚きの声をあげた。


「何これって、ユッキーが注文したって書いてあるけど……送り主は……トキノト?」


「あ、わかった!トキノトって江ノ島のキャシーさんのカフェだ!骨で作った食器だよ」


 ユッキーは無邪気に目を見張って手を叩く。


「食器だよって、何だこの量は??大手のコーヒーチェーン店じゃないんだからさ……」


 アニの嘆きが聞こえているのかいないのか、ユッキーは黒猫仕様のエプロンのポケットからサッとスマホを取り出し、段ボールの山をパシャパシャ撮り始める。


「って、何をスマホで撮ってるんだよ?」


 アニが呆れ顔で問いかけると、ユッキーはスマホ越しに顔を覗かせ、申し訳なさそうに舌を出して見せる。


「いや、どう見てみても注文ミスだよね……ごめんなさい。凄く可愛いスプーンやフォークだったから……」


「どうするんだこれ……?返品出来ないのか?」


「ごめんなさい。うーん、今から考えるね……」


 その時、ふいに「ニャウ」と小さな鳴き声が響いた。いつの間にか、看板猫の「ニケちゃん」が段ボールの山に飛び乗って、誇らしげに2人を見つめていた。小さな黒い身体が、段ボールの上で軽やかに揺れている。


「ミャウじゃない、お前の遊び場じゃないんだよ……」


 アニは両手を差し出し「ニケちゃん」を抱き上げようとするが、返ってきたのはお決まりの猫パンチ。可愛い猫パンチを受けたアニはやれやれと苦笑する。


「まぁ、とにかく……お客さんの邪魔だし、これは休憩室に運ぼう」


 ユッキーが「ニケちゃん」をふんわり抱き上げてソファに下ろそうとする。が、「ニケちゃん」は甘えるようにユッキーの腕に絡みついて離れない。困り顔の彼女を横目にアニは肩をすくめ、ダンボールを1箱ずつ運び始めた。


「──そう言えば、さっきの電話はルミちゃんからだったの?」


「ああ、昨日はミカに突然拉致されてさ、どうしてるかと思ったけど、昨夜は江ノえのしまの旅館に泊まったみたいだ」


「そっか、大変だ……ルミちゃん、稲村ヶ崎いなむらがさきの隠し扉の件に集中したいだろうにね」


「全くだ、せっかくその話で盛り上がっていたのにな」


 万莉まりの父親、そして叔父の松本貴之まつもとたかゆき。この2人は、赤いベランダの家にあると言われるを探していた。


 そして、その赤いベランダを背景にした一枚の写真に、全ての始まりとなる黒猫プルートが写っていたのである──ルミの母親と共に。


 この赤いベランダの家にあると言われる隠し扉の秘密がわかれば、行方不明になった母の真相がわかるかもしれない──


「ルミちゃん、早くその件を調べたいと思うよ……」


 ユッキーの呟きを背中で聞きながら、アニは手際よく骨の食器が入ったダンボールを休憩室へ運んでいく。


「まぁ、仕方ないさ。ミカの捜査を手伝うのは取引の時の約束だしな。それも、今回は名門・神江島家かみえしまけの当主、龍子りゅうこがルミを直々に指名してきたらしい」


「指名?ルミちゃんを?」


 アニは静かに頷き、片手で眼鏡を押し上げた。


「そう、あれだよな? ルミとその龍子は先日の伝承会が初対面だって言ってたよな?」


「うん、ルミちゃん、あの神社に行ったのも初めてだって言ってたよ……指名って、何でなんだろうね?」


 ユッキーは腕の中で甘えるニケちゃんの頭を優しく撫でながら、考え込むように首を傾げた。ニケちゃんは目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、ユッキーの膝に頬を擦り付けている。


「それにしても龍子さん、娘さんを失って悲しいよね……亡くなった火龍かりゅうさんってさ、明るくて……何だか私と気が合いそうだったんだよね……本当に残念」


 アニは沈痛な面持ちのユッキーの横顔を見つめながら、眼鏡の位置を直す。


「そうだな……ルミの話じゃ火龍の死因はフグの毒だったらしい。その件について今、話してたところなんだ」


「毒……?一体誰がそんなことを……松本みたいな殺人鬼がまだいるってことなの?そんな場所に今もいるなんて、ルミちゃんが心配だよ……」


「うーん、流れからすると犯人は神江島家の誰かって事になるのかな。あの夜、家の中に家族以外の人間はいなかったようだからね」


「家族かぁ……神様に仕える名門の家なのに……信じられないな」


 アニは、ダンボールを全て運び終えるとふぅっと息をつき、眼鏡を外して軽く拭いながらカウンター席に腰を下ろす。考え込むように視線を落とし、再び眼鏡を掛け直すと、ユッキーの方を見て静かに頷いた。


「まぁ、ルミの話だと、あの屋敷自体がキナ臭いって言ってたな」


「キナ臭い?」


「ああ、屋敷の中に何か、得体の知れないものが潜んでるみたいだって言うんだ。単に家族仲が悪くて家の中がぎすぎすしてるってレベルじゃなくて……何か、見えない何かがあそこにいるようだと……」


「得体の知れない何かって……昨日話してた、谷中やなか藤沢ふじさわみたいに歪みによる幽霊のようなもの?」


 アニはゆっくりと首を傾げる。


「どうだろうな?家族のやり取りを見て、らしい。他にも、時々妙な香りが屋敷内に漂ってるってさ。どう思う?」


「妙な香り?どんな?」


麝香じゃこうのような香りがするって……」


 アニの言葉に、ユッキーは少し思案するように口元に手を当てる。


「麝香って……つまり、ムスクだよね?誰か家の人が香水を使ってるとかじゃなくて?」


「いや、誰かが使ってるって感じじゃなく、ある瞬間に突然漂ってくるらしい。どこからともなく……そこはルミにもう少し聞いてみないとわからないが」


 ユッキーは、少し肩をすくめてみせた。


「もしかして、お香かな?麝香は魔除けとかに使われることもあるって言うし」


「どうだろうな……麝香の香りを漂わす何かが、家に潜んでるのかもしれない」


 その言葉に、ユッキーは身体をこわばらせ、ニケちゃんをぎゅぅっと抱き寄せた。


 ニケちゃんは「ミャウ」と鳴くと、何か言いたそうに2人を見つめる。


「怖いね……そういえばルミちゃん、江ノ島の裏でも誰かの視線を感じたって言ってたよ」


「そうか……空間の歪みがある場所には、超常現象が起こりやすいんだ。もしかしたらあの神江島神社や屋敷にも、歪みがあるのかもしれないな」


 ユッキーは不安そうに、抱きしめていたニケちゃんを見つめながら呟いた。


「ルミちゃんに何もなければいいけど……心配だよね」


 アニは静かに頷き、カウンターに頬杖をつく。


──その時。


 ユッキーのスマホから、メッセージの着信音が軽やかに響いた。彼女は白魚のような指で液晶をタップする。


「あ、ルミちゃんから写真だ!わぁ、可愛い」


 そこには、トキノトの店長、キャシー勝田と仲良くポーズを決めるルミの姿が映っていた。


 ルミの笑顔は快活で、疲れや不安はどこにも感じられない。


「写真で見る限り、元気そうだね……良かったぁ……」


 ユッキーはホッとした表情で、すぐさまスマホを操作してルミに返信をする。それを見たアニも安心したように微笑む。


 その時、彼の視線がふとカウンターに置かれた紙片に止まり……やがてそれに釘付けになる。


「これって、請求書だよな……?一体トキノトのこの食器、いくらかかったんだ……?」


 アニがその請求書に手を伸ばそうとした瞬間、ユッキーの顔色がサッと青ざめた。


「わぁ!アニさん、ちょっと待って!!」


  ユッキーは切羽詰まった声を上げ、駆け寄って紙片を掴もうとする。


 アニはその声に一瞬驚きつつも、負けじと指先を請求書に伸ばす。彼の指が紙に触れるのと同時に、ユッキーの手がその上に重なる。


「え? 何だよ?」


  アニは戸惑いながらユッキーを見つめた。必死に紙片を押さえ込む彼女の手は微かに震えている。


「ちょっと待って、それは見ちゃダメ!」


 ユッキーは顔を赤らめ、手で必死にそれを隠そうとする。


「頼むから……!」


「なになに、なんだよ、それって……?」


アニにも徐々に困惑が広がり、立ち上がって請求書を取り返そうとする。


「いや、いやいや!」


「なに、なになに??」


 力を入れ合う2人の距離は次第に近づき、気づくと呼吸がかすかに混じり合うほどの距離にいた。


「えっ……?」


「あ……」


  一瞬、同じ数だけ瞬きをした。お互いの瞳の奥にある混乱と焦燥。2人の視線がしばらく沈黙の中で絡み合う。


 どれくらいの時間だっただろうか?もしかしたら一瞬だったもしれない。


──店のドアベルがカランコロンと鳴った。


「!」


 2人は驚いて手を重ね合ったまま振り向く。インド料理レストラン「ガンジス」のコマルママが、傘を片手にドアを開けて入ってきた所だった。


「ナマステ♩あぁ、もう何なのかしらね、この雨は。本当に嫌になっちゃ……」


 妖艶な紫色のサリーを揺らし、彼女は扉に手をかけたまま入り口で立ち止まり、ふと顔を上げる。


 そしてコマルママの視線が、ゆっくりとアニとユッキーに移る。


「え?……あはは。ママ、いらっしゃい……ませ」


 固まったまま、ユッキーは笑みを顔に張り付けて何とか声を絞り出す。


 一瞬の静寂。


 次の瞬間、コマルママの瞳が見開かれ、まるでターゲットを狙うハンターのように鋭く2人を射抜いた。


「……え?」


 我に返ったアニも目を見開いた。


 コマルママの表情に徐々に淫靡いんぴな笑みが広がる。


 そして、そのまま後ずさりし、妖艶に指を動かしながら扉を這うように閉めてゆく。恍惚とした囁きが隙間から漏れた。


「──梅雨時に濡れる白昼の情事……素敵よ……ご馳走さま……」


 コマルママの意味深な一言一言が、室内に響き渡る。



 アニとユッキーはハッとして、慌てて飛びずさり体を離す。2人が握りしめていた伝票がふわりと宙に浮く。


「わぁぁ!!」


「ち、違うんだ! ママ、待ってくれ!」


 アニは両手を挙げて釈明しようとするが、


「いいのよ……分かってるわ……若い2人は本能の赴くままに求め合うもの……ホホホ、お幸せに……」


「あぁ……ママ、違うからぁ!!」


 ユッキーも手を振り、必死に扉に向かって叫ぶ。


「ママ!!カムバック!!説明させて!!」


 しかし、やがて扉は完全に閉まり店内に2人の声が虚しく響く──アニの眼鏡に「パリン」とヒビが入る音がした。


 2人のやり取りを興味深げに見ていた「ニケちゃん」が何かを悟ったかのように「ミャウ」と一鳴きした。


 呆然としていた2人の足元に、請求書がヒラヒラと舞い落ちる。


 請求金額は百五十五万五千五百円也。


 送り主の名前は、【株式会社トキノト 代表取締役 神江島虎之助】──



 第9幕「仕組まれた半刻前の悪意」へ続く。

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