89話 第1幕 誘《いざな》われた舞台 ①


6月21日 10時45分


「ルミちゃん、気をつけてね。ここが降りるところだよ、こっちね」


 私たちは江ノ島の裏、稚児ヶ淵ちごのふちの船着場に足を踏み出した。


 遊覧船で6分ほどの海の散歩であったが、辺りは弁天橋側の船着場と違い、一面ゴツゴツとした岩場だ。足元に気をつけて歩かないと大きな怪我に繋がりかねない。


 けれど顔を上げれば、心地よい潮風が私たちの髪をなびかせ、梅雨の合間の爽やかな日差しに包まれた。


 私たちは、この岩場で先日亡くなっていた浜田知世はまだともよにお花を供えるため、伝承会の前にここに立ち寄った。


「──気持ちいいね、生き返った気分だよ」


 ユッキーがゆっくりと全身を伸ばし、目を閉じて深呼吸をする。そのオーラがさらに神々しい輝きを放ち、彼女自身だけでなくその背景までも一層美しく引き立てる。


 すれ違う人々は、男性はもちろん女性までもがユッキーの姿に目を奪われていた。


 こんな正真正銘の女神が神楽坂の古びた喫茶店でアルバイトしているのは、世界の七不思議に入るほどの事件だと私は思う。


 アニの罪はとても重い……私は首を左右に振りながらため息をつく。


「はい、ユッキー、こっちだよ。みんなが見てるからね、ほらほら……」


 モデルの誰かと間違えたのか、集まって来た人々の群れを適当に押しのけ、私はまるで彼女のマネージャーのように誘導していく。


「ユッキー、あの岩場の奥がさっき話してた、知世さんが発見された場所だよ」


 稚児ヶ淵の岩場は、釣り人や親子連れ、カップルで平日の昼間でも賑わっている。


 しかし、浜田知世が発見された場所は、岩場の隠れた部分で、少し注意を向けなけれれば見逃してしまうような寂しい場所だった。


 岩場に供えた白いユリの花を見つめ、ユッキーはしんみりと呟く。


「知世さんは、ここで満月の夜に見つかったんだね。こんな寂しい人目につかない場所で……」


「うん……ここは夜は真っ暗だろうね、だから不思議なんだよね。こんな場所だよ?なぜ満月の夜にここに来たんだろう?」


「ルミちゃん、こんな寂しい場所で最期を迎えるなんて、私は嫌だな。知世さん、一体どんな心情だったんだろうね……」


 周囲を見回して悲しそうな顔をするユッキーに、私も胸が締めつけられる。


「本当だよね。知世さんとは顔を合わせたことがあるから、それを想像すると本当に切なくなるよ……」


「ルミちゃんは、タイムリープでここに戻って知世さんを助けるとか、つい考えると思うけど、事実の改変は出来ないでしょ、やりきれないよね」


「うん。本当はね、彼女が亡くなった当日にタイムリープすることも考えたけど、アニに怒られて止めたの……」


 そもそもこの一連の流れの全ては、黒猫プルートを探して欲しいとの浜田知世夫妻の依頼から始まったのだ。


 結局プルートは未だ見つからず、彼女の死因は何故か明らかになっていない。夫である芳雄よしおは現在、刑務所にいるとのことだ。


 芳雄は一体、この事実をどのように受け止めているのだろうか。私たちは少しの間、静かに知世の冥福を祈る。


 その時、


「!!!」


──視界の隅で、冷たく鋭く……私たちを観察するような気配を感じた。


 全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。咄嗟にそちらを振り向く。しかし、がらんとした何もない岩場に波が当たり、飛沫をあげているだけだった。


 私はその岩場に向かって歩き出した。辺りを見回すが誰もいない。そう言えば、以前もここで同じような視線を感じたのを思い出す。


──誰かが……いや、何かが……私たちを見ている??


「ルミちゃん、どうしたの?」


 ユッキーが私の様子がおかしいことに気づき、声をかけてきた。


「うん、ちょっと視線を感じたんだけど……」


「──やだ、誰か見てたのかな?」


「実はさ、前にここに来た時にも何か視線を感じたんだよね」


「えー?ルミちゃん、怪談話?」


「じゃないことを祈るけど──今のは人じゃない感じ?」


「じゃ、トンビかな?」


「トンビ?」


 ユッキーの予想外の言葉に私は空を見上げる。眩い光の中でトンビが気持ちよさそうに旋回している。


──トンビか……そうかもしれない。そうであって欲しい。


「ここのトンビって、ボーッとパンとか食べてると持っていかれるらしいよ。取られた人は可哀想だけど、ちょっとおバカよねぇ」


「えっと……そうなんだぁ」


 心当たりのある私は、話題を変えようと頭をフル回転させた……。


 私たちは知世に手を合わせてから、江の島岩屋と呼ばれる洞窟を軽く見学し、奥津の宮へと向かった。ユッキーはスマホで何かを調べている様子だ。


「さて、伝承会までにはまだ時間あるし、何か食べない?お腹がさっきからグーグー鳴ってるよ」


「え?私?全然気づかなかった」


「ロマンスカーで寝てる時もずっと大音量で鳴ってたよ♪」


「えぇ!!ちょっと、やだ」


 焦る私を和やかにスルーしたユッキーは、スマホの画面を私に見せる。


「あ、美味しそうなお店だよ。神社に行く途中にあるみたいだし、ルミちゃん、ここにしよう♪」


 ユッキーが女神のような笑みで首を傾げ私を見つめた。弾ける青い波をバックに瞳と髪が日射しにキラキラと輝き…ちょっともう、反則だよ……美し過ぎる!!


 私に異存のあろうはずはなく、嬉々として先に歩き出したユッキーを追いかけて歩き出す。


「あ、ちょっと、ユッキー!待ってよ」


 怪我をしていない方の右手を彼女に向けて差し出した私は、ふと視線を下に向けた。


「……」


 自分の右腕を暫くの間、凝視する。


 先ほど視線を感じた時にできた鳥肌がいまだに立っていることに、私は違和感を感じずにはいられなかった。


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