第二章~赤いベランダの家~

44話 序幕 〜赤いベランダの家・万莉〜


 彼女は薄闇のなかを泳ぐように走っていた。


 何か恐ろしいものが追ってくる、早くしないと奴らにつかまる、壊される。奴らって誰?壊されるって何を?


 何かに追われているのか追っているのかもわからなくなる。上も下も右も左もわからない。やがてじわじわと上下左右の壁が迫りくる、彼女は圧迫され押し潰されそうになる。


 壁から必死に逃れた先には、螺旋階段が下へ下へととぐろを巻いている。赤い手すりで身体を支え、よろめきながら階段を降りると──突き当たりに錆びたドアが待ち構えている。


 彼女はためらう。ここを開けたらダメだ、開けたら恐ろしいものを見てしまう。でも行かないと、止めないと。

 

 早くしないと間に合わない、何に間に合わないの?止めなければ──何を?


 背を押されるようにドアを開け、彼女は一歩踏み出した──手足が一瞬虚しく宙を掻き、そのまま闇が口を開けて待つ中を、彼女はどこまでも落下していった──



「──万莉、もう起きないと遅刻するわよ」


 階下からの母の声にハッとして目を開けると、カーテンの隙間から朝日が燦々と差し込んでいた。


「わぁ、もうこんな時間!」


 時計に目をやって仰天し、ベッドから飛び降りて洗面所へ向かう。大急ぎで制服に着替えてヘアアイロンをオン、時間がなくとも前髪のセットには手を抜けない。いつもの慌ただしい朝。


「あれ、由莉は?」


 朝食のテーブルに妹がいないのに気付いて母に訊ねると、


「──今日は具合が悪いからお休みですって」


 フライパンの目玉焼きを家族の皿に順番に乗せながら、母は声をひそめて答える。


「えー由莉ってばそんなこと言って、仮病なんじゃないの?」


 彼女はトーストをかじりながら2階の妹の部屋の方へ目をやる。


「違うわよ、ちょっと熱っぽいし顔色も悪いし…」


「ふーん…しょうがない、帰りにプリンでも買って来てあげるかな…」


「万莉……今日はまっすぐ帰るの?」


「ううん、陽奈たちと約束があるの、ちょっと遅くなるかも」


「そう、できるだけ早く帰ってね」


「わかってる。あ、もう行かなくちゃ、ごちそうさま!」


 彼女はカフェオレを飲み干して立ち上がる。


 無表情で黙々と朝食を続ける父の顔色をちらりと伺い、


「行ってきまーす!」

 

 通学カバンを掴むと彼女は明るい声で言って玄関へ向かう。


「行ってらっしゃい」


 母の声を背中で聞きながら、ふと2階の妹の部屋を見上げ、階段に片足をかける。足の下で古い階段がミシリと音を立てた。


「……由ー莉ー」


 上へ向かってそっと呼び掛けてみる。階段の先は、ぼんやりと薄暗くしんと静まり返ったままだ。


 軽く息を吐いて玄関のドアに手をかけた時、


「………」


 ふと誰かに呼ばれたような気がして、彼女は振り返る。内容もまるで憶えていない今朝の夢の、酷く嫌な感触が一瞬だけ頭を掠めて消える。


「──気のせいか」


 彼女はドアを開け、眩しい朝陽の中へ踏み出す。


 ギィィーー、バタンと耳障りな音を立ててドアが閉まった──


──第一幕「タイムリープ探偵再び」へ続く。

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