番外編 ~ムーンリットラプソディ~


      1


 神楽坂かぐらざかの石畳の坂道から、路地裏に入った一角にたたずむ写真喫茶店「ニケ」。


 レトロな店内には、店主や常連客たちが撮った写真たちが一見雑然と、実は絶妙なバランスで飾られている。


 古いスピーカーから低く流れるジャズピアノと、淹れたてのモカの香り。客は常連が数人だけ。


 今日も心地よい時間がゆっくりと流れている。


 手にしたアンティークな二眼カメラをそっとカウンターの上に置くと、私は店主であり、探偵のボスでもあるアニに訊ねた。

 

「それでアニ、今日の依頼は?」


 依頼書に目を落としていたアニは顔を上げ、メガネ越しに微笑んで私を見た。


「このご近所さんからの依頼だよ。リリという仔猫が行方不明だそうだ。ちょうど半年前に消えたそうだよ」


「半年前…」


「飼い主は、リリに何が起こったのか知りたい、せめて無事な姿だけでも見たいと言うんだ。ルミ、できるかな?」


「うん。わかった、アニ。とりあえず半年前に跳んでみるね」


「頼りにしてるよ、犬猫専門探偵。──これがリリの写真だ」


 私は写真を大切に受け取ってしばらく見つめ、アンティークな二眼カメラを引き寄せる。


「今日も見守っててね……お母さん」


 目を閉じ、二眼レンズに向かって小さな声で呟いてから、


「行ってきます!」


と元気よく立ち上がる。


 店のドアに手をかけた時、


「ルミちゃん、待って待って」


 振り向くと、看板アルバイトのユッキーが黒ネコ模様のエプロンを軽やかにひるがえして追ってきた。


「はい、これ持ってって」

 

 常連客の一人が、その神々しく華やかな微笑みに口を開けて見とれ、挙げ句コーヒーをひっくり返す。


 アニは慣れた様子で手早くそれを片付け、新しい一杯を客の前に置く。「ニケ」では日常的に見られる光景だ。


「──はい、これ。ルミちゃんのための特製スペシャルコーヒーとサクランボの生チョコチーズタルトだよ。おやつに食べてね♪」


「わぁ美味しそう。ありがとうユッキー」


「アニさんには内緒ね、サクランボが在庫切れでアニさんのはただのタルトだから」


 ニッコリと言い放つユッキーの声を残念ながら聞きつけたらしいアニが、ソーサーを落とす派手な音がする。


「……じゃ、行ってくるね!」


 私は、なるべくアニを見ないように、コーヒーのタンブラーとタルトの袋を赤いリュックにしまい、ドアを勢いよく押す。


 両手を振るユッキーに見送られて、私も笑顔で店の外へ踏み出した。


「よし、行くか」


 人気のない裏路地でカメラを両手に持ち、一つ深呼吸してからファインダーカバーを外す。


「真実を、見極める!」


と呟き、二眼カメラのファインダーを覗くと、過去の光景が青白く浮かび上がる。


 心臓がドキドキ鳴るのを感じながら特別なシャッターを切り、


「──お願い!」


と再び呟く。


 すると、カメラから放たれた7色の不思議な光が風の様に吹き荒れながら身体を包み込み、私は半年前へとタイムリープした。



      2



 半年前へ跳んだ私は、神楽坂のメイン通りにあるインド料理レストラン「ガンジス」を訪れた。


「あらら。ルミちゃん、ナマステね。久しぶり。9ヶ月ぶりかしら、お顔良く見せて。元気だったかしら?」


 深緑色のサリーを纏ったガンジスのママ、コマルは、ミステリアスな美貌をほころばせ、私をハグして歓迎してくれた。


 彼女は、「ニケ」のアニやユッキーとも付き合いが深く、私も子供の頃からお世話になった、第2の恩人と呼べる女性である。


 私がリリの写真を見せると、コマルママの長い睫毛に囲まれた目がインドの神さまのようにキラリと光った。


「あらら、この子、先日すぐ隣の公園で見かけたわよ。あれは確か、早朝ヨガの帰りだったから──3日前のお昼過ぎだったわね」


「本当?!ありがとうコマルママ!」


「ああ待ってルミちゃん、これ持って行きなさい」


「わあ、スーパースペシャルガンジスカレー。これアニの大好物なんだよねー、美味しそう」


「アニさんとユッキーちゃんにもよろしくね。また近々カレー部の活動もしましょうね」


「うん、ありがとう。じゃあね!」


 まだ温かいカレーの包みを大事にカバンにしまって「ガンジス」を出た私は、隣の小さな児童公園へ急いだ。


「3日前か…」


 私は公園のブランコに腰かけ、カメラをしっかりと両手に握った。


 深呼吸を何度か繰り返し、閉じた瞼に映るリリの姿に強く焦点をあて、私は3日前へと再びタイムリープした。


      3


 タイムリープした3日前の公園内には、救急車のサイレンが鳴り響いていた。


「何かあったのかな…」


 私はそのサイレンの鳴る方に駆け寄った。すると一人の若い女性が地面に倒れていた。


 意識はしっかりしているようだが、顔色は紙のように白く血の気がない。


 地面に投げ出されたその手元に、小さな猫のシルエットが。それを見て私は立ち尽くした。


「あの子は……リリ……」


 リリはぴったり寄り添うように女性のそばに座り、懸命にその手を舐めていた。


「ごめんね、大丈夫だからね…」


 女性は反対の手を伸ばしてリリの背を撫でながら顔を上げ、かすかに微笑んで見せた。


 間もなく彼女は救急車に運ばれ、リリはそれを見送るように、じっとその場所に留まった。


「リリ……お母さん、行っちゃったね」


 私はなんと声をかけて良いかわからず、自分もリリの隣に座り込んだ。


「きっとすぐに帰って来られるよ…意識もしっかりしてたし……

 ねえリリ、すぐそこの「ガンジス」で一緒に待とうか?きっとコマルママが美味しいもの作ってくれるよ、ミルクも飲めるよ」


 しかしリリの瞳は、女性が運ばれて行った方をひたすら見つめていて、私の方を見向きもしない。


 その凛とした姿は私の胸を打った。


「そうだよね……ここでお母さんを待ちたいよね。私も付き合うよ」


 やがて辺りは暗くなり、夜空にぽっかりとまるい月が浮かんだ。小さな公園は、その神秘的で優しい月明かりに包まれた。

 

 リリの姿が月光に縁取られて金色に輝いている。お母さんのことを思っているのだろうか?


 私もまた、月明かりの中で自分の母を思った。

 

──あの日、母が突然消えてから、どれくらいの月日が流れたのだろう。目を閉じると、あの日の情景がおぼろ気に浮かんでは消えた。


 あの日──幼い私が初めてのタイムリープを試み、そして成功した日。あの場所は一体どこだったのだろう?


 かすかに覚えているのは、高いビルとビルの連絡通路のような場所。キャットウォークだったかもしれない……


 辺りでは赤いランプが点滅し、何かの危険を知らせるサイレンが鳴り響いていた。逃げ惑う人々が右往左往している光景。幼い私は不安におびえて母にしがみついていたはずだ。


 そんな私の視界には、しゃがんで目線をあわせた優しい母の顔があった。


「大丈夫だよ、あなたはお母さんの子だから大丈夫」


「お母さん……」


 母は優しく頭を撫でてくれながら、私が両手に抱える二眼カメラのダイヤルを回し、ファインダーを開いた。


「ここでちゃんと待っているから、安心して行ってらっしゃい」


 母との会話のやり取りはうろ覚えだが、頭に乗せられた手の温かさと、その後母がかけてくれた言葉が、不安だった気持ちを和らげたのを覚えている。


 しかし──母のその言葉が何だったのかは思い出せない。


「それじゃ、一緒にいつもの魔法の呪文を唱えようね」


「うん!」


 母と一緒なら大丈夫。私は大きく頷く。そして……


「真実を、見極める!!」


 これが、私の覚えている最後の母の言葉だった。


 ──初めて過去へ跳ぶことに成功した私は、母に言われた通りすぐに元の時間に戻って来た。


 タイムリープの不思議な光が消えたら、目の前に母が両手を広げて待っているはずだった。きっと私を抱きしめて、うまくできたねと褒めてくれるはずだった。


 しかし、母の笑顔が待っているはずのその場所には──誰もいなかった。辺りを見回しても、動くものや音や光は一つもない。 まるで世界が終わってしまったかのようだった。


 私は泣きながら、声が枯れるまで何度も何度も母を呼び続けた。


 疲れ果てしゃがみ込んだその時、不意にスカートのポケットが震えた。涙を拭ってポケットを探ると出てきたのは、母がいつも使っていた黄色い携帯電話だった。


 液晶パネルには一つの電話番号が浮かび上がっていた。


「お母さん……!!」


 すがるような気持ちで通話ボタンを押すと、やがて優しい男性の声が応じた。その男性こそが、母がいつも親友と言っていたアニだったのだ。


 こうして私は、恩人アニの元へ託された。


 今思うと、母がここを頼れと予めアラームを仕掛けて置いたのだろう。


 やがて成長した私は、アニの元で犬猫専門探偵をしながら、母の手がかりを探すようになる。


 アニにユッキーにコマルママ。周りには私を大切に思ってくれる人たちがいて、幸せを感じる瞬間はもちろん数えきれないほどあった。けれど、母を思って泣いた夜もそれと同じくらいある。


 ──泣きじゃくり母を呼びながらさまよった、あの日の幼い自分の姿がリリと重なる。


「リリ、私たち仲間だね……会いたいね、お母さんに」


 私はそっとリリの頭を撫で、一緒に女性の帰りを信じて待とうと思った。


 月は高く昇り、星はきらきらと輝き、しんとした夜の静けさが私とリリを包み込んだ。


 足元一面に咲いたツキミソウが月明かりを受けて、その可憐な姿から淡いピンク色の光を放っている。


 私はそれに見とれながら、ユッキーにもらったコーヒーのタンブラーとサクランボのタルトを取り出す。


 タンブラーの蓋を開けてみると、まるい月がコーヒーに写り込んで光り輝いていた。


「わ、月見コーヒーだ、ロマンチックだね。──ユッキーのスペシャルコーヒー、美味しいなぁ……タルトも絶品……」


 じわりとこみ上げてきた涙を、私は冷めてしまったコーヒーとタルトと一緒に飲み込む。リリがそんな私にそっと寄り添った。


 私たちは月明かりの中で優しい静謐な時間に身をまかせ、それぞれの母に思いを馳せた。


      4


 顔に当たるまぶしい朝日と猫の鳴き声で目が覚めた。

 

「リリ…?」


「あ……起こしちゃってごめんなさいね。──この子と一晩一緒にいてくれたのね、何てお礼を言ったらいいか」


 昨日倒れていたあの女性がいつの間にかそばに座り、リリがミャーミャー鳴きながらその顔を舐め回していた。


 私は慌ててベンチから起き上がり、しわくちゃのワンピースと乱れまくった髪を撫で付ける。


「──すぐに帰ってこられたんですね、良かった…

 もう大丈夫なんですか?」


「ええ、持病があるのでね、良くある発作なの。

 昨日は薬を切らしていたものだから、この子に心細い思いをさせちゃったけど…本当にありがとう」


 女性は膝に乗せたリリの背を優しく撫で、リリは目を細めてその手に頬を擦り付けている。


「良かった……良かったね、リリ」


 胸を熱くしてその光景を見ていた私に、彼女は微笑みかけた。


「最近大切な人を失ってね、消えてしまいたいと絶望していた時、この子に出逢ったの。生きる希望をなくしていた私を、この子が救ってくれたんです」


 彼女たちの間には、すでに深い絆が芽生えているのがわかった。


 私はそっとカメラを構え、2人の幸せな時間を大切に一枚の写真に収めた。


 その瞬間、私の心は揺れ動いた。リリが新しい家族を見つけ、幸せに暮らす姿を確認できたことへの安堵、そして私自身がまだ母を見つけられていないという事実の切なさ。


 私はそっと瞳を閉じ、一度深呼吸をした。

 

 そしてカメラを手にし、2人の邪魔をしないよう静かに公園をあとにした。


      5


 再びタイムリープし、元の時間に帰った私は、リリとあの女性の写真を依頼主に見せ、リリが幸せに暮らしていることを伝えた。


 依頼主は目を潤ませて写真を見つめ、


「そうですか、良かった……本当に良かった……」


と何度も繰り返した。


 その帰り道、私の心は一仕事終えた達成感と、母への思いでいっぱいだった。


 ふと空を見上げると、こちらの時間軸でもやはり綺麗な月が輝いていた。辺りに人はいない。


 私は大きく息を吸い込み叫ぶ。


「──会いたいよ、お母さん!!」


 私の声が月明かりに照らされた街にこだまする。


『どんなに時間がかかっても、必ず見つけるよ、お母さん──』


 それがこの不思議なチカラを持つ自分の使命なのだと、いつからか私は思うようになっていた。



「ただいま、アニ、ユッキー!」


 「Closed」の看板を下げた「ニケ」の店内はオレンジ色の明かりで満たされ、アニとユッキーがコーヒーを前に私の帰りを待っていてくれた。


「お疲れさま、ルミ。今回も良くやったね。依頼主はとても喜んでいたよ」


 アニがいつものあたたかい声で労ってくれる。


「ルミちゃん、おかえり!無事に解決してほんとに良かったね。コーヒーにする、それともココア?」


 癒しのユッキーのとびきりの笑顔。


「ありがとうユッキー。うーん、今日は飲んじゃおうかなぁ」


「あら、ワイン?珍しい。座って座って、今グラス出すから。赤?白?」


「赤!」


 私は座り心地の良い椅子にゆったりもたれて、赤ワインのグラスを手に、見慣れた店内を見回す。


 古いスピーカーから低く流れるジャズピアノと、淹れたてのコーヒーの香り。


「明日もまた、お母さんを探しに行こう……」


 ほろ酔いで思わずそう呟くと、アニが依頼書をめくりながらサラッと一言。


「明日は豪徳寺ごうとくじのマダムの猫探しの依頼が入ってるよ。というわけでルミ、明日もよろしく」


「えー、アニ、本当に人使いが荒いなぁ」


 アニとユッキーは楽しそうに笑い出す。


「ルミちゃん、私も今日は一杯付き合うよ」


 ユッキーがワイングラスを持ち上げて私にウインクして見せる。


「あー、久々のコマルママのカレー、しみるなあ…」


 いつの間にか、私の持ち帰った「スーパースペシャルガンジスカレー」を温め直したアニが、感涙にむせび泣いていた。


 やはり何があっても、私の帰る場所はここだ。


 ───写真喫茶店「ニケ」のレトロな赤い屋根を、柔らかい月の光が照らし出していた。

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