第一章 新たなる出会い(2)

 次の瞬間、船の周囲の海面に、無数の水柱が天を衝かんばかりに上がった。

 そして、そんな水柱を割って現れたのは、巨大な触手だ。その表面には大きな吸盤がびっしりと並んでおり、見る者に生理的な嫌悪感を禁じ得ない。

 やがて、船の傍に大渦が巻き起こり、その中心部から巨大な”本体”が姿を現す。

 この船など比べ物にならないほど大きい、そのイカのような姿をした怪物こそが、有史以来、数多の船乗り達を海の藻屑へと帰してきた忌むべき海魔――クラーケン。

 胴体にある二つの巨大な眼球が、甲板上にいる者達をギョロリと睥睨する。

 そして、本日の餌を見つけたとばかりに、その巨体をゆっくりと船へ近づけてくるのであった。

「う、うわぁああああああああ!?」

「あ……ああ……ああぁ……」

 蛇に睨まれた蛙とはまさに、このことだ。

 ランディはパニックに陥り、アニーは呆然としてその場にペタンとへたり込む。

 この甲板上には、彼らの他にもエストリア魔法学院の新入生と思しき者達が大勢いたのだが……誰も彼も、悲鳴を上げて逃げ惑うばかりだった。

「くそう、なんてこった! この海域に海魔が出るなんてありえないぞ!」

 ほどなくして、船長や乗組員と思しき者達が、泡を食って甲板上にやってくる。

「ど、どうします、船長!?」

「あの軟体に、剣や大砲は効かねえ……対抗できるのは魔法しかねえんだ!」

「しかし、本来、ここは魔物のいない安全海域ですぜ!? 魔術師の護衛なんて一人も雇っていやせん!」

「くっ、探せ! 乗客の中で魔法の使えるやつを! 幸いこの船はエストリア行きだ! いるだろ、魔法で戦えるやつが!」

 そんな感じで、お客様の中に魔術師の方はいませんかー? の流れになっていた。

 慌ただしい乗組員達の様子をぼんやり眺めながら、リクスは物思う。

(魔術師は世界一潰しが利く職業。中には、当然、戦闘関連の仕事もある……まぁ、俺は将来、そんなのやるつもりないけどな!)

 それはさておき、とりあえずはあの海魔をなんとかしなければならないだろう。

 巨大イカの餌は、さすがに嫌だ。

 リクスは、ランディとアニーを振り返る。

 そして、ファイト! と、言わんばかりに良い笑顔で親指を立てて言った。

「よし。出番だぞ、君達! アレを魔法でやっつけてくれ!」

 すると、そんなリクスへランディが吠えかかる。

「じょ、冗談じゃねえ! お前のような特別なやつとは違って、俺達はまだ魔法は使えねえんだよ! ”スフィア”を開いてねえんだから!」

「……スフィア?」

 キョトンとするリクスへ、アニーが震えながら続ける。

「うん……多分、この船に乗り合わせた新入生の多くが、まだ魔法を使えないと思う……それに……たとえ使えたとしても……」

 船に接近してくる恐るべき海魔を、アニーはちらりと見る。

 それは偶然か意図的か、海魔の目玉がギョロリと動き、アニーと目が合ってしまう。

「ひっ……」

 たちまちアニーは真っ青になり、そのまま自分の肩を抱いて、涙目でカタカタと震え始めてしまった。

「そうか……確かに戦えないよね、キモいもの。

 くっ! せめて、見た目が可愛ければ……ッ!」

「違う! そういう問題じゃない!」

 こんな状況でも、リクスへの突っ込みを忘れないランディであった。

 そして案の定、甲板上の他の新入生達もパニックに陥るだけで、立ち向かおうとする者は一人もいないようだった。

 そうこうしているうちに、船に肉薄した海魔が触手を振り上げ――船の甲板へ叩きつけるように振り下ろした。

 と、その時だった。

 アニーとランディは見た。見てしまった。

「あっ!」

「あの子……ッ!」

 向こう側の甲板のへりに、一人の少女が取り残されている。

 白い髪が印象的な少女だ。

 目前に迫り来る海魔の姿に、呆然自失しているのだろうか?

 少女は逃げようとも隠れようともしていない。

 そんな少女の頭上に、海魔が振り下ろした触手が落ちてくる――

「おい! そこのお前! 危ねえぞ!」

「に、逃げて!」

 そんなランディとアニーの叫びも虚しく。

 巨大な触手が、少女のいた場所へ無慈悲に叩きつけられようとしていた――

 ――その時だった。


 斬ッ!


 突然、切断された触手が空を舞って、明後日の方向へ飛んで行く。

 そして、船から離れた海面に盛大に着水し、沈んでいく……

「えっ!?」

「なっ……」

 見れば、白い髪の少女の前に、抜き身の剣を振り抜いたリクスの姿があった。

 海魔から少女を庇うように立っている。

「り、リクス君!?」

「あ、あれぇ!? あいつ、いつの間にあんな所に!?」

 アニーとランディは驚きの表情で、今、リクスがいる場所と自分達のいる場所を見比べる。

 どう見ても結構な距離がある。決して一足で行ける距離ではない。

 なのに、今の今までここにいたのに、気付けばもうあの場所にいた。

 しかも……状況から察するに、剣の一撃で海魔の触手を斬り飛ばしたらしい。

「噓……一体、どうなっているの……?」

「まさか……ひょっとしてこれが、あいつの魔法なのか!?」

「空間転移魔法に、剣への強力な付呪魔法……どっちも凄いレベルだよ!?」

「特待生は伊達じゃねえってことか! 凄えよ、リクス!」

 そんな風に盛り上がる二人の前で。

(いや……普通に駆け寄って、普通に剣で斬っただけなんですけど……?)

 なんだか微妙な気分になるリクスであった。

 実際、リクスは魔法なんて欠片も使ってない。というより使えない。

 剣も、最近、適当な武器屋で新しく買い換えた普通の剣だ(以前の剣は、人や魔物の血と脂で真っ黒に汚れてて、人前で見せるのはさすがにちょっと恥ずかしかった)。

 だから、だ。

(まぁ、今はそんなことより……)

 ちらり、と。リクスは背後を振り返る。

 そこには、白い髪の少女が相変わらず、ちょこんと立っていた。

 奇妙な少女だった。

 燃え尽きた灰のような真っ白な髪。穢れ一つない雪も欺く白い肌。切れ長のアイスブルーの瞳はまるで氷のようだ。

 だが、少女はどこも見ていない。少女を助けたリクスの姿も、たった今、彼女の命を奪おうとした海魔の存在すらも。

 彼女の瞳が湛える光は、無限の虚無色だ。

 彼女は、怯えて竦んでいたのではなかった。

 ただ、興味がなかったのだ。海魔も、自分の命すらも。

(な、なんなんだ、この子は……?)

 異様な在り方の少女に、さしものリクスも背筋を走る薄ら寒いものを禁じ得ない。

 だがそれ以上に、それを超えて――少女は美しかった。息を呑むほどに。

 まるで妖精のような可憐な美貌。清楚さと艶美さを合わせ持つ身体のライン。

 飾りっ気など何一つないのに、少女はあまりにも芸術的に完成されている。

 何も見ていない虚無の視線を虚空に彷徨わせながら、吹き流れる潮風が白い髪を嬲るままに任せている……そんな佇まいだけで一枚の絵画となる。

 人の手で触れがたい、神性不可侵の魔性の硝子細工……それが彼女だ。

「大丈夫か、君」

 いつまでも、その少女を眺めていたくなる衝動に駆られるが、そこは歴戦の傭兵。

 リクスは思考をカチリと戦闘モードに切り替えて、少女から視線を切り、目の前で苦痛にのたうつ海魔に向き直る。

「危ないから下がっててくれ」

 リクスがそう警告し、眼前の海魔に集中しはじめた、その時だった。

 リクスは聞いた。少女の呟きを。

 はっきりと、確実に。確かにこう呟いたのだ。

「……

 どこか退廃的で疲れきった、この世界の全てを諦めたかのような呟き。

(えっ?)

 どういうことだと、リクスが思わず振り返りたくなっていると。


 業ッ!


 突如、眼前の海魔が、猛烈な火勢の炎に包まれていた。

 炎は渦を巻いて、海魔を焼いていく。

 船を触手で絡め取って沈めようとしていた海魔が、海面で激しくのたうち回る。

 不思議なことに、燃える身体を海水に浸しても、炎はなかなか消える気配がない。

 消えない炎をなんとか消し止めようと、海魔は船そっちのけで暴れ回っていた。

(なんだ!?)

 叩きつけられる熱気と熱風に、リクスが微かに見開いて警戒していると。


「むぅ、残念じゃ……一番槍は取られてしまったか」


 いつの間にか、リクスの隣に新たな少女が並び立っていた。

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