走る犬

上雲楽

犬ども

 ドッグランで知り合った高木さんの息子さんは、

「自分は珍しくヘレンケラーの『ウォーター』を理解できた人だったのかもしれないです」

と吠えるブルテリアを見て表情筋を使わず言って、高木さんが「苦笑いなんです」と注釈した。

「失礼ながら、耳にご不自由はないようにお見受けしましたが」

私がそう高木さんの息子さんに問いかけると、表情筋のゆるみがさらに増大したように感じて、苦笑いが目の前で繰り広げられていることを直観した。

 高木さんの息子さんが言うには、少し前まで、言葉で思考することはなかったそうだ。

「自閉症と診断されていました」

高木さんが付け加える。

 高木さんの飼っている柴犬が走って帰ってきて、衝突を前提としているように高木さんの息子さんの胸に抱かれた。

「アニマルセラピーの一環ですか」

私は高木さんの柴犬を撫でさせてもらいながら尋ねる。

「そうでもありましたが、私たちは代々犬を飼ってきたんです」

高木さんの息子さんが答える。

 高木さんの息子さんが初めて喃語を発したのは、柴犬を飼い始めてからしばらく経ってからだったらしい。同世代の子供たちはすでに学校を卒業したり働いたりする時期だった。

 柴犬は当然、最初は吠えていた。高木さんの息子さんはそれを見ながら、原始的な母音を発した。高木さんはそれに感動したと同時に困難さを理解した。その発された二重母音は日本語にない発音だった。

 柴犬が吠えると同時に高木さんは大きな声で「だめ」と言ってしつけた。

「私の犬も同じ方法です」

私がそう言うと高木さんの息子さんが、

「どこも同じなんですね」

と退屈そうに言ったが、この人の話し方を考えてみると、それは共感の歓びだったのかもしれない。

 柴犬と同時に、高木さんは、高木さんの息子さんが日本語にない発音を発するたびに「だめ」と大声を出した。

「母語というのは喃語を忘れて初めて生まれるんです。初めて声帯を使ったときはもちろんうれしかったです。だけど次はコミュニケーションの世界に参画しないといけない。喃語という可能性を少しずつ削いでいってようやく会話できるんです」

「聞き分けるの大変そうですね」

「そうでもありません。犬も意味のある吠えとない吠えがあるでしょう。どちらも禁止こそしますが、意味のある吠えはわかるでしょう。犬にとってはすべてに意味があるのかもしれませんが、同じように、意味のある言葉だけ話させる訓練をしたんです。息子はわかってくれました。息子がæと言ったとき、つねりました。それをやめさせるために。だけど箸を落としてæと言ったとき、『だめ』とは言っても禁止はしませんでした」

「外国語が苦手な私からすればうらやましい悩みに聞こえますよ」

私がそう言ってしまって、嫌味っぽいとすぐに後悔したが、二人は反応を示さなかった。

「息子は少しずつ発音を忘れてくれました。どんどん粘土みたいに日本語を捏ねあげてくれました」

「自分の中で、言うことと言わないことの区別ができてきたのはそれからです。犬にご飯をあげる前に『まて』を言っているのと、自分たちがご飯を食べる前に『いただきます』を言うことの区別が少しずつはっきりしてきました」

「私の母語が祖国で禁止されたときは悲しかったですけどね」

「でも日本語お上手じゃないですか」

高木さんがそう言ったので、私は理解してもらうのをやめた。理解してほしかったのは悲しみというか怒りだった気もする。

「自分が初めになんて言ったと思いますか」

高木さんの息子さんが純朴な目で私を犬のようにみつめる。

「『papa』か『mama』が一般的ですかね」

「近いかも。『あ』です。うちの犬の名前の一部です」

高木さんの息子さんがくすくす笑った。私もそれに乗じようとしたが、高木さんにとってそれは面白いエピソードではなかったらしく、苦い顔をしていたので、私はただ

「そうなんんですね」

と言った。

「それから自分はたくさんの言葉を覚えました。たくさん忘れる練習をしてきたから早かったです。例えば、『それから』、『自分』、『たくさん』、『言葉』、なんかは初めの方に覚えました」

 私はにこやかにしていたが、許せない気持ちになるのを抑えきれなかった。しかし、これは高木さんの息子さんに起きるのが遅かっただけで、自分にも起きたプロセスなんだと言い聞かせた。喃語という可能性を忘れて母語を得るのは事実だった。

「まだ言葉を覚える前の景色を覚えてるんですよね」

これは敵意だったが、高木さんの息子さんはやっと歯を見せて笑った。

「そうです。言葉が考えを別けてくれる前の気持ちがまだあります。今では善い考えと悪い考えが同時に浮かんでいた頃の記憶が不思議ですが」

「『water』と発音できますか」

「ウォーター」

高木さんの息子さんが恥ずかしそうに発音すると、私の犬も走って帰ってきた。私が犬を抱きかかえると、もう一度向こうでブルテリアが吠えた。

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