第一巻【黒蝶】

鞍馬一族

…時は、戦国時代。


人と人とが、国を奪うために殺し合いを繰り広げていた。



力のある者は領土を広げ、大勢の兵を従え勢力を増す。



…しかし、そんな強者たちにも、絶対に足を踏み入れてはならない場所があった。



それは、北の地にあると言われる…岩肌が剥き出しの険しい山。



…その名は、幻宝山(ゲンポウザン)。



一年中霧に包まれ、その姿を見せることがない古の山。


太古の昔から、『幻の宝がある』という伝説が伝えられていた。



その宝を求めて、山に入った者は数知れず…。


しかし、誰一人として還ってきた者はいなかった。



…人々は言う。



『幻宝山に入るべからず。さもなくば、獣に喰い殺されるであろう』



幻宝山には、獣が棲んでいる。



そう言い伝えられるようになってからは、幻宝山に足を踏み入れる者はいなくなった。



幻宝山の獣…。


その正体とは……。




「いや〜。今日は、いつにも増して大漁だなっ」


「そうだね、父ちゃん!」


「それじゃあ、戻るか」


「うん!」



勢いよく跳ねる大漁の魚の入った網を肩に担ぎ、川をあとにする親子。



見たところ、一見普通の親子のように見える。



しかし彼らは、断崖絶壁を手も使わずに脚力だけで登り、十数メートルはあるであろう谷を弧を描くように飛び越える。



霧に包まれた森を抜け、底の見えない崖を飛び降りた先にあるのは…。



鞍馬(クラマ)一族という忍が暮らす、隠れ里だった。




「よう!今日はどうだった?」


「大漁大漁!そっちはどうだなんだ?」


「今日は、牛が手に入ったんだ」


「そりゃいい!今夜は、豪勢な食事になりそうだ」


「ああ。なんてったって、今日は由羅(ユラ)様の生誕祭だからな」



顔を合わせる者同士、今日の漁の成果を伝え合う。



川のほとりに家々が並ぶ、100人にも満たない小さな里。


なんの変哲もない里に見えるが、ここに住む者すべてが鞍馬一族の忍者。



鞍馬の忍たちは数百年もの間、環境の厳しいこの幻宝山で暮らしている。




陽が西の山に沈む頃…。



「由羅様たちが、帰ってきたぞー!」



その声を合図に、里の者たちは一斉に外へ飛び出す。



その先にいるのは、黒いマントを被り、身を隠す者たちの姿が。



7人組の先頭に立つのは、マントで顔を隠す小柄な背丈の者…。


そのマントを剥ぎ取ると、まだ幼さ残る顔付きの女の子が顔を見せた。



彼女の名は、由羅。



頭の後ろで一つに束ねた、絹のように柔らかい黒髪。


そして、群青色に澄んだ美しい瞳の持ち主だ。



彼女は鞍馬一族の長、陽蔵(ヨウゾウ)の娘であり、里一番の忍でもある。



由羅は里の者の憧れの存在で、皆が彼女を慕っている。



由羅とそのあとに続く6人の忍たちは、一直線に里の中にある高殿に向かう。




「父上、只今戻りました」



断崖絶壁の崖の中腹にある高殿。


その奥に腰を掛けているのが、この鞍馬一族の長、陽蔵である。



「ご苦労であった」


「いえ。今回の依頼は、大したものでもなかったので」


「あの依頼が難しくないと…。さすがは、私の娘だっ」



今回の報告をしている最中に、高殿の空いた窓から一羽の鷹が入ってきた。


陽蔵が腕を出すと、鷹は吸い寄せられるように陽蔵の腕に留まる。



その鷹の足には、紙が括り付けられていた。


陽蔵は慣れた手つきで、鷹の脚から紙を取る。



紙に目を通し、由羅たちに視線を移す。



「次の依頼だ」




陽蔵たちの言う『依頼』とは、忍者の仕事のようなもの。



その依頼の内容とは様々…。


時にはスパイとして忍び込み、時には宝を盗み、時には暗殺をも請け負う。



依頼主は、将軍や大名などの名声と地位のある者たち。



依頼文は、こうして鷹に結わえて鞍馬一族に届けられる。



鞍馬一族は与えられた依頼内容を遂行し、依頼主は依頼完了後に報酬を納める。



報酬は、幻宝山の麓にある社に納めるようになっている。



期限は10日。


常人であれば、幻宝山の麓まで3日でなんとか辿り着くことができる。



万が一、報酬を収めなかった場合…。


その者の命はない。



また、幻宝山の麓より先に進入した者を、鞍馬一族は決して許さない。


一族以外との関わりを持たない鞍馬の忍は、幻宝山へ入り、自分たちの暮らしを脅かそうとする者を瞬時に消す。



『幻宝山に入るべからず。さもなくば、獣に喰い殺されるであろう』



言い伝えの獣とは、鞍馬一族の忍のことを指していた。




鞍馬一族は、厳しい環境でありながらも、食料に恵まれた幻宝山で自給自足で生活をする。


そして、時には依頼内容の遂行で報酬を得る。



里の者はなに不自由のない暮らしをし、平穏を保っていた。




いつにも増して、人々が慌ただしく行き交う里。



それもそのはず。


今夜は、17回目の由羅の生誕祭。



里の者たちは、朝から祭りの準備で大忙しだった。




陽が完全に沈むと、里はお祭り騒ぎ。



中央に設けられた大釜で、今日捌いたばかりの牛が煮込まれている。


そこへ、黒の着物に身を包んだ由羅が現れる。



「由羅様!」


「なんと、お綺麗なこと!」



里の者は、由羅を讃える。



月明かりに照らされると、青や紫色に怪しく輝く着物。


由羅は、里の者たちに微笑みながら祭壇へ向かう。



その祭壇の上では、里の長の陽蔵が待っていた。



由羅は腰を低くすると、陽蔵から手渡された盃を受け取る。



そして月明かりの下、盃に汲まれた酒を一気に飲み干した。



その光景に、人々は歓喜する。


これが、鞍馬一族の生誕祭伝統の儀式。




その後、里の者たちは思い思いに生誕祭を祝う。


歌い、踊り、ここが忍者の隠れ里だと忘れてしまうような、楽しげな風景が広がる。



そんな場を避けるかのように、滝の上にある大きな岩に腰をかける人影…。



由羅だ。



冷静沈着で物静かな由羅は、祭り事のような賑やかな場が苦手であった。


滝の上にあるこの岩場が、由羅の憩いの場所。




「やっぱり、ここにいた〜」



そこへ、1人の青年がやってきた。



「なんだ、お前か…」


「なんだとは、なんだよ〜」



栗色の髪に、耳飾りを付けたこの者の名前は、颯(ハヤテ)。



颯は、軽々と由羅のいる岩に飛び乗る。



「今夜の主役はお前なんだから、こんなところで夜風に吹かれて、ぼーっとしててどーすんだよ」


「なにを今さら…。颯も知っているだろう?私があのような場が苦手なことくらい」


「まぁなー」



颯は、足をぶらぶらさせる。



颯も由羅に継ぐ、優秀な忍の1人。



2人は、同い年で幼なじみ。


物心ついた頃から、共に修行をしていた。



そのため、2人のコンビネーションは抜群。


言葉を交わさなくとも、お互いの行動が手に取るようにわかる。




「さっき、みんな言ってたぞ?」


「…なにをだ?」


「由羅様が笑ってくれたって」


「…ああ、盃を交わす前のときか」



由羅は、乾いたため息を吐く。



陽蔵の娘であり、里一番の由羅は必然的に目立つ存在。


しかし由羅にとっては、持て囃されることも自分のことが話題にされるのも苦手であった。



「お前、ああいうときでしか笑わねーもんなぁ。まぁ笑うっつーか、微笑んだって言った方が正しいけど」


「私だって、場の空気くらいは読んでいる」


「場の空気を読む読まねぇじゃなくてさー。もっとこう…自然に笑えねーの?」


「笑えない」


「なんで?」


「苦手だからだっ。何度も同じことを言わすな」



由羅は、顔を背ける。



そのとき…。



「由羅様ー!」



髪に真っ白なユリの花を挿した女の子が、崖を登ってきた。



「もー。由羅様、急にどっかに行っちゃうから探してたんですっ」



小柄で、まだあどけない表情のこの子の名は、美影(ミカゲ)。



「美影、“様”はよせ。あと、いつも通りに話せ」


「でも、ちゃんとしないと周りに示しがつかないって言われて…」



美影は、いじけたように口を尖らせる。



「そんなことは気にしなくていい。お前は、私の妹なんだから」



由羅がそう言うと、美影は恥ずかしそうにはにかむ。



「…エヘヘへ。由羅姉(ユラネェ)がそう言ってくれるならっ…♪」



美影は由羅に抱きつく。


その美影の頭を、由羅は優しく撫でる。



この2人は、実の姉妹ではない。


しかし面倒見のよい由羅を、美影は本当の姉のように慕っている。




「あたしも早く、依頼を任されるようになりたいな〜」


「美影。お前、そんなことを思っていたのか?」


「当たり前だよー。由羅姉かっこいいもん!あたしも由羅姉みたいに、立派に依頼をこなせるようになりたいっ」


「依頼は、そんなに簡単な内容ではないぞ」



依頼の難しさを指摘する由羅に対して、美影は戯けたように軽く躱す。



「だって由羅姉、いつも涼しい顔して帰ってくるじゃん」



そんな美影に、颯が声をかける。



「それは、由羅だからだよっ」



キョトンとする美影。



美影がそう思うのにも、無理はなかった。



なぜなら、由羅は今まで、依頼内容を失敗したことがない。


必ず、遂行して帰ってくる。




「颯様も失敗したことあるの?」


「そりゃもちろん!誰だって、1回や2回の失敗はあるよ」


「颯は、詰めが甘いだけだ」


「…おいっ、それを言うなっ。自分でもわかってるんだからさー」



楽しげに笑う美影と、頬を緩める由羅。


颯を含めた3人の姿は、優しく見守る月に照らされていた。

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