怪を語れば戒に到る
目々
初怪・業務委託
「
死にかけの夏がまだ熱気を残す夜道で、
所属している天文研サークルの月に二回の例会、その夏休み明けの初例会だった。普段は飲み会ぐらいにしか顔を出さないようなやつらも長期休みの後ともなると余裕があるのか、出席率はそれなりだった。内容としては夏季休業中の活動──恒例行事の県外への天体観測とサークル員の交流を目的とした合宿──に関わる報告や後期の活動計画などの地味なものだったが、それについてはいつものことだ。
『普段は飲み会ぐらいにしか参加しないやつ』であるところの俺も、久々に顔を合わせた友人とのやり取りや予想外の人数に気力を削られて例会後もなんとなくだらだらと歩いていたところ、背後から肩を掴まれたのだ。
驚いて振り返った途端にこの一言だ。先輩に捕まったこと自体はどうせ最寄り駅までは同じ道を使って帰るのだから別段変わったことでも何でもないが、それでもこんな不穏な切り出し方をされれば続く内容に警戒しないのも難しい。
納井先輩は夜目にも鮮やかな濃赤のアロハの襟を弄りながら、俺の目を見て続けた。
「頼みごとがあるんだけどさ。サークルの部誌、あれの記事、書いてほしいんだけど」
「嫌ですよ」
「躊躇ゼロじゃん。何でよ」
「俺研究テーマとかないですもん。天文研やってるってだけの文学部ですからね」
新入生の時分に友人のサークル巡りに付き合ってそのまま一緒に入ってしまったというだけで、別に天文に興味があるわけでもない。二年生になった今でも続いているのが自分でも意外だ。それでも大人数だからこその層の広さ──いわゆる
納井先輩も天文研の中では比較的エンジョイ勢──典型的な
俺のような平凡な田舎者からすればなんだかよく分からない生き物にしか見えないが、意外とニッチなバンドや偏った映画の趣味を起点に飲み会やなんやを合間に挟んだ交流を経て、それなりに良好な関係を築けている。
だから部誌の記事を頼まれても関係的には不自然ではないが、そもそも俺自身に書けることなど何もないのは先輩自身がよく知っているはずではある。
街灯の下でもアロハは灼けるように赤い。相対的に先輩の顔はどことなく青白く見えた。
「そんなむごいこと言うなよ。頼むよ国文学科二年天文研所属の
「人の属性を全部呼ぶのやめてください。プライバシーとかそういうの、心配になるじゃないですか」
「大丈夫、研究テーマとかなくても問題ないから。文学部らしい内容、ていうか天文関係なしで、お前のタイピングスキルを当てにしてるだけだから」
「は?」
「ちょっと前にデータ打ち込みの
そういえば五月の飲み会でそんなことを話したような気がするが、そんな昔のことを当てにされるとは思っていなかった。
「してましたし、してますけど……え、俺にできるような内容なんですか。編集とかはできませんよ俺。本当に原稿を打ち込むだけで」
「大丈夫だいじょうぶそんだけできれば。対象言語日本語だし、いけるって」
先輩の軽薄な言葉により不安になる。俺は何をやらされようとしているのだろう。
「何打たせる気ですか。手書きであんまり読めない字の原稿とかだったら俺はやりませんし何ならサークルも辞めますよ」
「いや、音声データなんだよね。書き起こし」
「……やったことないんですけど」
今まで俺がやってきたのはアンケートやよく知らない町内会の手書き原稿の書き起こしぐらいだ。そもそも音声データの書き起こしというのには特殊なスキルが必要ではないのか。俺にあるのは精々が中学のときに内心目当てで取得した漢字検定と英検ぐらいだ。
先輩は気軽な調子で続けた。
「夏合宿でさ、怪談会みたいなのしてんの知ってるだろ? んで、今年は録音したんだよ。そしたら結構面白い話が多かったから、どうせなら書き起こして部誌の目玉にしようかなって」
天文研初の試みだぞと何故か自慢げに納井先輩は胸を張る。耳元のアクセサリーに街灯の微かな光がちらちらと跳ねた。
夏合宿──天文研の恒例行事である、天体観測とサークル員の交流を目的とした合宿──で、
「……天文研に怪談、関係ないですからね。そりゃあ初の試みでしょ」
「いいんだよ、何にでも初回挑戦ってだけで一定の価値はあるもんだから」
俺の吐いた嫌味を平然と受け流して、納井先輩は目を細めた。
「そんで記事にするには原稿にしなきゃなってことで、手空いてるやついないかなーって探してたら、お前が良さそうだったから」
「あるんじゃないんですか書き起こしって、ソフトとか」
「んー……ああいうの、ちゃんとしたのってそれなりに金かかるんだよね。うちただでさえ機材に金かかるから余裕ないし」
じゃあやらなきゃいいだろ。
そう口に出しそうになって、寸前で思いとどまる。別に先輩に対して失礼だからというわけではない。代わりに紙面を埋めるだけの案を出せと言われたら困ることに気づいたからだ。
いつものようにへらへらと軽薄に笑いながら、先輩は続けた。
「別にさあ、一字一句きっちりやれってわけじゃないよ。大まかに内容が合ってれば大丈夫。原案参加者、作者お前みたいなさ」
「あれですか、ざっくり読める体裁で、話した人間と内容が致命的に間違っていなければ大丈夫、みたいな基準で話してます?」
「そうだね。一応俺も確認するし、そんなに気負わなくていいよってのは本当。一蓮托生よお前と俺で」
「……話中で明らかに矛盾している場合はどう対応しますか」
「あ、突然業務モードじゃん。ええとね、基本的にそのまま書いてくれればいいや。単語の明らかな誤用みたいなやつは直してくれればいいけど、とりあえずお前の役目としては文字データにしてくれればいいってことだから」
先輩の言う内容からすれば形式や単語の開き方に指定もないのだろう。ただの平打ちということだ。それも、こちらで随分融通が利く。
「量はどのくらいですか」
「十五人くらいいて、あー……たぶん三十話ぐらいじゃないかな。細かい話が多かったから」
「期限は」
「ん、早いと嬉しいけどね。最悪あれだ、年末の忘年会までに出してくれればいいよ」
忘年会を期限とするなら、今が八月末だから三ヶ月ある計算になる。
それだけあれば大丈夫だろう。授業の課題や諸々はあるだろうが、それこそ一年生と二年の前期でできるだけの単位を取っておいたこともあり、これから後期で入院沙汰にでもならない限りはそこまで切羽詰まることもないはずだ。そもそも対象のデータにしても、素人の語りでそこまで分量のある話が出てくるとも思えない。
「業務なら報酬が必要なんですけど」
「やっぱ要求するか。俺に免じて便宜とか図ったりは」
「しません。受ける時点で俺としては結構な譲歩だと思っています」
サークル活動の一環なんだけどなと先輩は口先を大人げなく尖らせてから、
「そうだな……サークルとしては出せないけど、あれだ、終わったら個人的に飯奢るよ。あとは、合宿先で美味かった酒一升瓶でプレゼント。蔵調べたから通販できんの」
そのあたりでどうよと先輩がこちらを覗き込む。薄闇の中で一瞬だけ双眸が光って、俺は目を逸らした。
先輩からの奢りの一食と、一升瓶。業務ならしかるべきところに訴えるような対価だが、サークル活動だということを言い出されては仕方がない。
名前だけ置いて飲み会くらいしか顔を出さないような不良部員でも、四年に一回くらいはサークル員として貢献してもいいだろう。
たかだが
「じゃあ、いいですよ。引き受けますけど、あんまり期待はしないでくださいよ」
「ありがと。じゃあメアド教えて。データとか色々やりとりするから」
頼りにしてるぞ平枝、と先輩は笑い慣れていないように片目だけを細めてみせる。
その笑みの目元に一瞬だけ不安じみた色が滲んだように見えたのは、街灯の光の加減だということにした。
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