第79話 お前はそれでいいんだよ

 ど

 ど

 ど


 どん、ずん、

 そのどちらとも違う地響きのような音。


 暫くすると、

 かっ

 かっ

 かかっ

 と、軽快な乾いた音。



 雀の鳴き声に混ざる奇妙な音で、俺は深い眠りから目覚めた。


 枕元の目覚まし時計は午前8時丁度。

 でもこれは俺の目覚まし時計じゃない。 

 そして俺の寝ているベッドも俺のベッドじゃない。

 そもそも、ここは俺の部屋じゃない。


 ここは整理整頓が行き届いた6畳間。

 内装はシンプルだが、部屋に置いてある物から一見して女子の部屋であることは明らかだった。

 そんな部屋に、俺はひとりで居た。


 ここは猿飛の部屋だ。

 このベッドは猿飛のベッドだ。


 そうだ、俺達はあのまま……。



 俺は昨夜のことを思い出しながら、彼女が居たはずの場所を撫でた。

「……」

 既に温もりはない。

 彼女がここを離れてから随分経っているようだ。


 ただ、彼女の香りはそこに残っていた。

 俺の体にその香りが移っていたのかもしれない。

 鼻腔をくすぐるそれは芳香と表現する以外ない。

 その感性に、我ながらいやらしい男だとため息をついた。



 俺はそのまま猿飛の部屋を出て、先程から軽快だったり重厚だったりと奇妙な音の発信源を探った。


(……庭か?)

 庭に近づくにつれてその音が明瞭になっていく。

 どこかで聞いたことのある音だな、と思いながら庭にたどり着くと、やはりそこには俺の知っている物があった。


木人もくじん……」

 思わず声に出た。

 視線の先には、直立する奇妙な形状の等身大の……一般家庭にはまずあり得ない木製の物体がそこにあったのだ。


 『木人もくじん』とは木人椿もくじんとうと呼ばれる中国拳法の鍛錬に使う人間を模した道具で、太い丸太からそれこそ手足のように棒状の突起が数本突き出た奇妙な形をしている。

 それを直接打撃したり、突き出た棒を避ける、受ける等の防御をしたりと対人間の接近戦を想定した鍛錬が出来る優れ物だが、でかい上に場所を取り、さらに普通の生活をしていく上ではまず必要無い。


 そんな代物を朝っぱらからガンガン突きまっているのはやはりというか当然というか、猿飛だった。


 が、が、が、かん、かん、かっ、がん。


 彼女の両手両足はまるでドラムを演奏するかの様に舞う。

 素早く且つ正確に攻撃と防御を織り混ぜるその技は見事の一言に尽きた。


 ウチの使用人に中国拳法の使い手がいるが、そいつと比べても彼女のうまさはすべてにおいて際立っていた。

 美しさすら感じるその技の数々に、俺はただ言葉を失って見惚れていた。


「総国」

 突然、彼女はその手を止めて俺の方を見た。


 自信に満ちたその瞳。

 悠然とした佇まい。

 そして偉そうな雰囲気。

 確認しなくても、もう分かる。

 そこにいたのは乱子だった。


「おはよう総国。よい朝だな」

「あ、ああ。おはよう……乱子」

「もう少し寝ていてもよかったのに」

 乱子は側に置いてあったタオルを手にとって汗を拭った。


 どのくらいそうしていたのか、彼女の着ているTシャツは汗でびっしょりと濡れていた。

「……なんだ総国。さっきから視線が熱いぞ? 私の顔に何か?」

「ん、いや、ええと……め、珍しいもの持ってんだな」

「木人か? 凛子が昔、知り合いから貰ったんだ」

「そ、そうか……」


 ……恋子は?

 とは聞けなかった。



「ふう、いい汗をかいた。たまには木人椿もくじんとうも悪くない」

 清々しい乱子の顔を見ていると『朝のランニングみたいに言うなよ』とか『木人くれる知り合いってどんな奴だよ』といった類いの突っ込みは霧散してしまう。


 なんというか、昨夜の恋子と乱子がオーバーラップするのだ。


 ていうか見た目は同一人物なのだが、あの弱々しかった少女が今は出陣前の武将みたいなイイ顔をしている。

 そのギャップに、俺は戸惑っていた。


 それをつぶさに感じ取ったか、乱子は見透かしたようにくすりと笑んだ。

「どうした総国?」

 挙動不審な俺に、不敵な笑みでもって乱子は問う。底意地の悪いやつだ。


「い、いや。その……」

「なんだ? はっきり言えよ」

「き、昨日の晩は……」

「ああ、あれか。な」

「っ!!」


 心臓を貫かれたような心持ちだった。

 やっばりなのか……客観的に見てやっばりそうなのか、と自分が情けなくなって色々としぼんでいく。


 そんな俺を眺め、乱子は『フン』と鼻を鳴らした。

「折角のチャンスだったのに……」

 やれやれ、と呆れたように天を仰ぐ乱子。

「勿体無いなぁ、総国よ」

 ため息混じりに、彼女はじとっとした瞳で俺を見て呟いた。

「あそこまでお膳立てが調っていたというのに。女に恥をかかせおって……」




 親愛なる読者諸兄よ。

 申し訳ない……謝罪させてくれ!

 サーセンッ!

 サーセンシタッッッ!!


 俺は昨夜、結局のだ。

 

 恋子はあの後、俺にしがみつくように抱きついてきた。

 甘えるようなその仕草は男女の情欲によるものというより、子供が大人にするような、何かに頼りたいという感覚だった。

 ……彼女の不安が、触れた体から、全身から直接伝わってきたのだ。


 だから俺も彼女を抱き締め、その不安を少しでも自分のものにしようとした。

 ひとりで背負うには重すぎる。

 でも、ふたりなら……。


 そうしていると安心したのか、恋子はすぐに寝息をたて始めた。

 本当に子供のように安らかな彼女の寝顔を見詰めていたら、俺も次第に眠りに落ちて……気が付いたら朝だった、というわけだ。


 普段から次世代王者だの何だのと偉そうなことを言っておきながら、俺はいざとなったらチキン野郎そのものだった。

 否、豚野郎でしかなかったのだ。


 このていたらくを父が知ったら俺は釈明すら許されず手足をふん掴まれてヌンチャクのように高速でブン回され、そのあまりの速さに俺の体が残像効果で半透明に見えるまで振り回されるキッツいお仕置きを受けることだろう。


 要するに、俺は童貞のまま朝を迎えたというわけだ。



「この意気地無しが!」

 乱子は俺のハートをグシャグシャにしてやンよと言わんばかりに一喝した。


 これ以上なじられたら、男のプライドもろとも崩壊してしまう。

 しかし、乱子は容赦をしなかった。

「貴様はそれでも男か! そこにぶら下げているモノは飾りか!!」

「くっ……うう、あ、ああ……」

「この○○○野郎が!」


 中身はどうあれ同級生女子にこんな暴言吐かれる身にもなってみろ。

 彼女の容赦ない追撃が俺の精神と肉体を蝕み、ガクガクと膝が笑い始めた。

 次第に寒気がしてきてマジで嘔吐する直前、本当にの、その時だった。

「……ふふ、ははは、あーっはっはっは!」


 突然笑い出した乱子。

 俺は意味もわからずただ唖然とするしかなかった。


「ははは、すまんすまん。言い過ぎたよ。悪かった」

 ペコリと頭を下げる乱子。

 全く意味がわからず、認識もできず、俺は自分が遂に狂ってしまったかと正直怖くなってきた。


「ふふ、総国よ。お前は意気地無しでも臆病者でもない。実に紳士だよ。昨日の晩も、立派な紳士の振る舞いだった」

 さっきまでの侮辱が一転、いきなり誉められたのでもう何がなんだかわからなかった。まさに狂気の沙汰である。


「……あれでよかったんだ、総国。むしろあのまま事に及んでいたら私が出ていって必殺三角絞めで貴様を朝まで眠らせてやったよ」

「は? え?  な、何が……どういう事だ?」

「恋子には私や愛子の様な戦う為の深い理由が無かったからな。自分の存在を懸けた戦いなんて、彼女には重すぎたんだ」

「戦う理由……」

「大袈裟な言い方かもしれないが、私はそう思っている」


 乱子が言う事については俺も考えていた。

 恋子にとってこの戦いは、正面から受け止めるにはその動機が弱いのではないかと危惧していたのだ。

 普段から楽観的な恋子には、尚更やりにくい戦いに違いない。


「恋子は以前から不安を抱えて、迷っていた。戦うことにもそうだが、自分自身の在り方についてもな。だからお前に助けを求めたんだ、総国」

「……俺に?」

「お前のような朴念仁にはわからんかもしれんが、不安だとどうしても人恋しくなるんだよ。特に私達のようなうら若き乙女はな。時として誰かに抱かれていたくなりもするのさ」


 どきりとした。

 昨夜の恋子が見せた、すべてを受け入れたあの表情が脳裏を掠めたのだ。

 それを察してかどうか、乱子はどこか可笑しそうに続けた。


「しかし、それは勢い余って……という場合が殆どだ。そのまま流れに任せれば往々にして後悔が待っている。男も女もな」

「……だから、あれでよかったのか……?」

 俺の問いかけに、乱子は「そうだが、少し違う」と首を振った。


「昨日の恋子は決戦を控えて極端に弱っていた。しかしお前はそこに付け入る事なく、優しく彼女を受け止めた。心のこもらない体のやりとりに頼らず、恋子の心を慰めて勇気づけてくれたんだ。お前みたいなヤりたい盛りの童貞にはそうそう出来ることではないぞ」

「い、いや、俺はただ単に……」

「いいんだ総国。これでいいんだ。ありがとう、総国」


 乱子はとても同い年の少女とは思えない、深みのある笑顔で言った。

 こんな顔をされては二の句なんて簡単に引っ込んでしまう。


 乱子は汗を拭ったタオルを置くと、一際胸を張って言った。

「これで全ての杞憂は消え去った。これで私達はまさに一丸となって今夜の戦いに挑める。全ての力を出しきることが出来るだろう。どのような結果になろうとも、後悔だけはしない戦いが出来るだろう」


 乱子の表情には一点の曇りもない。まさに戦う直前の武人の顔だった。


「……でもな、総国」

 ニヤリとしながら乱子は俺を見た。

「な、なんだよ」

「お前になら、私個人的には抱かれてもよかったぞ」

「っ!!」


 突然の告白に、俺は全身が逆立つ思いだった。

「は? お、お前、なに言ってんだよ?!」

「だが愛子はまだ処女だからな。彼女の許可なく勝手に抱かれるわけにもいかん。恋子も分かっている筈なのに、後先考えずに先走りよって……」


 処女、というフレーズに妙な安心感みたいなものを覚えた俺を軽蔑するならするが良い。だが俺も童貞だから赦されると信じている。


 乱子は再び木人の前に立つと、迷い無く掌底突きを打った。


『ッ!!』


 がん、と激しい衝突音と共に、重たそうな木人が一瞬ぐらついた。


「愛子が倒したあの総合格闘家」

 乱子が言っているのはかつての強敵乃会王者・浜崎阿修羅の事だ。


 そして乱子は木人へ顔面からボディーへのコンビネーションを放った。


『ッ!! ッッ!! ッッッ!!!』


 ガンガンガン、と激しい音が続き、木人が激しく揺れた。


「そして、だるま」

 地下格闘アンダーグラウンドの元・王者、だるまクンの事だ。

「ゴールドメンバーズ・熊谷、蛇乃目 兵……」

 乱子はコンビネーションからまるで舞踏のような動きで木人を激しく打ち始めた。


『ッ! ッ! ッ!』


 激しい衝突音が豪雨の様に鳴り響く。


「……彼らは決して弱く無かった。誰もが強敵だった」


 木人から響く衝突音が破壊音へと変わり始めた。あの重い巨体がぐらぐらと激しく揺れる。


「今夜の戦い。もし、もし万が一にも私が敗北けたなら……」

 打たれ続けた木人が激しく軋む。

 めきめきと嫌な音が漏れる……!


「怒るんだろうなぁ、あいつら!」


『ばきん! 』


 凄まじい音だった。


 乱子の美しいまでの後ろ廻し蹴りが木人を真っ二つにへし折ってしまったのだ。


「……さあ、飯にしよう総国。腹が減っては戦は出来ぬだ」


 そう言って、乱子は抑えきれない興奮が伝わってくるような、本当に楽しそうな笑顔を俺に向けたのだった。



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