第78話 タッチ
その後どうやって家に帰ったのか、断片的な記憶しかない。
恋子が恋子で無いように弱ってしまった事に俺も焦っていたし、どう対処したものか模索することに手一杯で他の事に気を回す余裕もなかった。
ただ、帰りのシャトルバスを待つ気力もなかったので店の正面玄関で客待ちをしていたタクシーを使った事は覚えている。
だから俺の記憶はフードコートからタクシー車内まで飛んでしまっていた。
お陰で予想外の出費が重なってしまったが、もうそんなことはどうでもいいのだ。
今は恋子を一番に考えたい。
彼女はまるで大失恋でもした少女のように儚く、少しでも力を込めれば壊れてしまいそうだった。
こんな風に儚さと脆さが混在するデリケートな存在と向き合った経験のない俺は、自らの潜在能力を限界まで引き出してもこの場から逃げ出さないでいることがやっとだ。
かといって何が出来るわけでもなく、掛ける言葉すら見当たらない。
情けないことに脇汗だけがその能力をこれでもかと見せつけ、お陰で俺の脇はタクシーの冷房で冷やされたこともあって非常にひんやりしていた。
タクシーの後部座席で彼女はずっと黙っていた。
黙りこくって俯いたまま、右手で俺のシャツを摘まむようにしている。
俺が本当に逃げ出さない様に捕まえている様にも思えたし、自分が流されて何処かへ行ってしまわないようにしているようにも思えた。
その重みすら感じる気がした。
思えば、恋子には乱子と違って戦うための大義名分がない。
愛子の様な中毒性も無い。
恋子はただ単に『勝負事』が好きなのだろう。
……そう、恋子にとって『戦う』という事は、どちらかと言えばスポーツに近い感覚なのだ。
現に恋子の喧嘩には愛子の様な『戦闘への執着』は見受けられないし、乱子の様な
恋子は3人の人格の中で最もニュートラルなファイターと言えるだろう。
そんな恋子には自分自身の存在を左右するような「戦う理由」は、凄まじいプレッシャーに違いない。
彼女達の中で、ある意味で
そんな人間が、この苛烈な戦いの渦中で正気を保てるのか……?
自問自答の答えが出ないまま、俺達は帰宅した。
時計は午後9時を回っていた。
「恋子、大丈夫か?」
彼女はなんとか歩くことは出来るものの、その歩みは弱々しく、俯いたままで何も喋らない。
今まで抱えていた精神的苦痛を吐露した事で何か堰のようなものが切れてしまったのだろう。
こういうときは下手に励ましたりしない方がいいとかなんとか、あの
「……もう寝るか? 恋子」
とりあえず休ませた方がいいかと思い、俺は恋子の部屋へと向かった。
そして彼女の部屋のドアを開け、部屋の隅のベッドへと近付く。
「今日はこのまま寝た方が――」
そう声を掛けた、その時だった。
「っ!?」
思わず息が詰まった。
体勢の急変があったのだ。
……何事かと判断が遅れたが、気が付いたときには俺は恋子の背中に乗っていた。
背負い投げをされたのだ。
って、何でいきなり背負い投げ??
俺は混乱の最中で反射的に受け身の体勢に移ったが……、
「うわっ?!」
急に体がふわっと浮いた。
恋子は投げの加速を突然緩め、投げ落とすのではなく優しく着地させるようにして背負い投げを完了させたのだ。
結果、俺は背中から彼女のベッドに落下したものの当然ダメージはなく、それよりも仰向けになった俺に跨がってきた恋子の方が問題だった 。
つーか、なんで俺の上に乗ってるんだ?!
「な、なんだよお前、いきなり……」
恋子は何も答えなかった。
投げ技からのマウントポジションだ。流石の技のキレで、俺はあっという間に劣勢へと追い詰められたのだが……。
「恋子……」
灯りのついていない薄暗い部屋。
外からの月明かりが俺を見下ろす少女の顔を優しく照らしていた。
今にも零れ落ちてしまいそうな、
崩れ落ちてしまいそうな、
弱々しい、少女の顔だった。
男とは不思議なものだ。
つくづく頭が悪い。
それは多分、あまり物事を真剣に考えていないからだろう。
もっと本能的に、体で考えてしまう。
……というか、動いてしまう。
正直に告白しよう。
俺は、恋子のその表情に心を奪われたのだ。
……心を奪われた?
何を格好つけているんだ。
理性を手放した、が正しいだろう。
心の中で、もうひとりの俺が笑っていた。
「……怖いよ……総国くん、あたし……怖いよぅ……」
か細く呻く恋子。
助けを求める掠れた声が、俺を奮い起たせた。
加えて俺に跨がるその太股の暖かさと、小さな体を支える華奢な掌。
微かな吐息が俺の頬を撫でるのを意識した瞬間、下腹部を中心に猛烈な熱の発生を感じた。
ばたっ、ばたばたっ。
乱暴な音が闇に響く。
ぎし、ぎし……。
ベッドが軋んだ。
俺の体がひとりでに動いた。
いや、暴れたのだ。
全身が熱い。
血流の音が聞こえる。
息が荒い。
この
そんな感情に打ち震えた。
そして気が付いたときには、俺は恋子を押し倒し返していた。
守ってやりたい。
そう感じたはずなのに、なんでこの選択なのか。
男は本当に単純で馬鹿な生き物だ。
だが、それが最善だとその時の俺は信じて疑わなかった。
ああ、やばいな。
殆ど熱暴走した脳みその僅かに残ったまともな部分が呟いた。
だがその部分もすぐに灼けた鉄のようになるだろう。
なぜなら、全てを受け入れる様な瞳で俺をじっと見つめていた恋子が、そっと瞼を閉じたのだ。
それが意味するものはつまり。
『……助けてよ』
恋子の声だ。
しかし、今この時の声ではない。
その声は俺の心の奥底、記憶の断片から聞こえてきたのだ。
それは彼女の家の地下通路で聞いた、あの時の願い。
切なる思い。
ハッとした。
俺の右手は恋子の胸元にあった。
薄いシャツと下着の感触。
そしてその肌の柔らかさを確かに感じていた。
大きく上下し、激しく脈打つ彼女の鼓動を直に感じた。
俺も同じ様に息を荒くし、視界が揺れる程に鼓動は激しい。
暗闇に響く荒い吐息はお互いを求める合図だ。
その合図に呼応した俺の右手は、彼女の柔らかな素肌に触れていた。
まるで白磁の様に滑らかな、彼女の頬。
俺の右手は、彼女の頬に触れていた。
なんて小さな顔なんだろうか。
なんて華奢な体なんだろうか。
恋子は……乱子は、そして愛子は、こんなにも普通の女の子なのか。
それぞれがそれぞれの過去や理由や不安を抱えて、戦っている。
こんなにも小さな身体で……。
そう感じた瞬間、俺は彼女を抱きしめていた。
ただ、彼女が愛しかった。
ふたりとも無言だった。
しかし不安でもなんでもない。
むしろ心地よい静寂。
それを先に破ったのは恋子だった。
「……好きよ。総国くん……」
その言葉は俺の心に染みた。
植物の茎が水を吸い上げて花を咲かせる様な、温かな感覚。
「俺も、お前の事が……」
告白の直前、恋子はそれを遮った。
「それって、あたし? ……それとも愛子? ……乱子?」
彼女は本当に小さな声で、弱々しい声で、しかし真摯に問うていた。
俺は、子供の頃から友達がいなかった。
周りの奴らは俺を利用しようとするばかりで、自分に向けられた好意の裏にはいつでも下心が透けて見えていた。
信頼できるのは犬飼や鳥山婦長といった限られた大人達だけで、しかし彼らとのそれも雇用というくくりのなかでの関係に過ぎない。
俺は彼らを信頼しているが、万が一金沼家が破産でもしたら犬飼も婦長も霞のように消えてしまうのではないかという不安はいつでもあった。
そんな俺にとって、猿飛は『特別』だった。
彼女は最初から一切の下心無く、俺に接してくれたのだ。
俺にすり寄ってくる連中はいつも俺にたかるばかりで
笑えて笑えて、そこから俺は友人を作れなくなった。
『どうせお前も俺の財産が目当てなんだろう』
……そんな台詞を吐いた事もあった。
いつしか『誰かを好き』という感情がどんなものか分からなくなったのだ。
いや、初めから知らなかったのかもしれない。
猿飛とは地下闘技場絡みの利害関係はあるが、彼女からの金品の要求は皆無だった。
むしろ俺が一千万円欲しさに彼女に頼っている状況だ。
いつも
家を追い出された俺の面倒を見てくれた。
飯を食わせてくれた。
友人として接してくれた。
嬉しかった。
楽しかった。
愛子との生活も
恋子との共闘も
乱子との関係も
俺にとってはかけがえのないものだったのだ。
それに気が付いたのは、今ではない。
俺はもっと前から……。
「……俺は」
続く言葉は
俺の告白は
唐突に遮られた。
彼女の小さな唇によって
塞がれるようにして
優しく閉じ込められたのだった。
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