第72話 猿飛さん家の家庭の事情

 俺は道場の事務所にある給湯室でコップを3つ用意し、冷蔵庫の中から麦茶が入ったポットを取り出してそれぞれのコップに麦茶を注いだ。

 そしてそれらをお盆に載せ、ため息を一つ。


「……俺が淹れるんかい!」


 ひとりノリ突っ込みは侘しい給湯室に虚しく響きわたり、盆の上の麦茶の表面を騒がせた。


 事務所の向かいにある応接室は十畳程の広さの和室となっており、その真ん中には大きめのテーブルがある。

 婦長と乱子はその部屋でテーブルを挟んで向かい合う様に座っていた。


「俺が淹れるんかい!」

 入室と同時に俺は再びノリ突っ込んでみたが、ふたりに完全無視されたので諦めて茶坊主に徹することにした。

 最早もはや金沼家次期当主のプライドなど木っ端微塵の微細粉末であった。



 実は、俺は鳥山婦長の事をよく知らない。


 正直、いつから婦長が金沼家ウチで使用人をしているかすらも知らない。

 金沼家の使用人の中で最も有能で最も強いと言われているが、その具体的な実績を知っているわけでもない。


「だったら調べてみるといい。まずはそこから話を始めよう」

 それは乱子の提案だった。



鳥山凛子とりやまりんこ……旧姓、猿飛。猿飛凛子」

 俺は金沼家の人間のみが閲覧を許されるデータベースにスマートフォンからアクセスし、婦長のデータを検索した。

 当然、婦長の許可を得た上でだ。


「……それ以外、何も無いぞ……!?」

 婦長のデータは名前以外何もなかった。

 履歴書のページは白紙。

 個人情報のページもほぼ白紙。

 唯一、住所と生年月日のみは記載があったが、住所は金沼家の使用人寮の住所だった。

 そして年齢は、生年月日から計算すると……!


「39歳!?」


 俺は本気で20代なんじゃないかと思っていただけにマジで驚いた。


 俺の通う高校に36歳の女性教師がいるが…………まぁアレだ。婦長の方が年上だと思う人間は真剣ガチで皆無だろう。


 それ程に婦長は若いというか、老化してないというか、綺麗というか、可愛いというか、とにかくどんなスキンケアをすればそんなに綺麗な肌を保てるのか等々、不思議というか疑問に思う程なのである。


「……総国様。私の年齢に何か?」

 ちょっとだけむすっとしたような表情の婦長。つい声を上げてしまったが、悪い意味では決してない。むしろ逆だ。


「い、いや、その……年齢よりもずっと若々しいなと思って……」

「あら、そうですか? 嬉しいっ!」

 ぱっと花が咲いたような表情へと早変わりした婦長。


 ……うーん、やっぱ可愛いわ、この人。


「おい総国。お前、熟女好きか? 私は逆だと思っていたが。とにかくそういうのは後にしろよ」

 乱子が不愉快そうに突っ込んできた。

 そうだ、今はこんな事に時間を割いている時ではない。


 俺は再び色々なデータベースを検索してみたが、結局名前と住所と生年月日しか確証に足るデータは無かった。


「……婦長、こんな事は有り得ない。だが、婦長を長い間見てきた俺には故意的な不正だとも思えない。あなたは一体何者なんだ? 鳥山婦長」

「……」

 婦長は俺の言葉を咀嚼するような間を一寸置き、答えた。


「私は大旦那様から直接スカウトをされ、金沼家の使用人になりました。その際、一切の学歴も経歴も問わないと言われたので履歴書を提出しませんでした。だから経歴が白紙なのでしょう。試験のようなものもありませんでした。ただ……」

「……父と一対一で戦ったんだな、婦長」

 俺の問いに、婦長は静かに頷いてみせた。



 自慢じゃないが、金沼家は世界規模の金持ちだ。そして、ただ単に資産があるだけじゃない。

 金沼家は金を使って金を回す『商売』で成り立っている。

 金融業、証券取引、不動産売買、各種利権……ゴールドメンバーズという私設部隊が必要な程度に荒事も行う。


 だが基本はクリーンな事業展開で財を成しているので、真っ当な『商売』で運営しているひとつの『企業』であると俺は考えている。


 それらの『業務』を実行するのは金沼家のグループ企業だが、金沼家そのものにも『本店』としての役割がある。

 その役割を果たすのはこの家の使用人達……つまり、犬飼や鳥山婦長もとしての仕事を担ってもらっているのだ。


 腕が立つだけの筋肉バカではこの仕事は務まらない。金沼家の使用人となるには世界規模の大手企業から内定をもぎ取る程度の基礎能力が求められるのだ。

 

 それを踏まえた上で、経歴が白紙である理由は一つ。

『この人物が必要だ』と、父が直接認めた人間であるということだ。


 父の『人を見る目』は確かだ。

 基礎的な能力は勿論、戦闘能力も重視する。文武ともに桁外れの実力を持つ人間でなければ、父が直接拳を交える……つまり、スカウトをすることはない。


 そんな父が直々に勧誘スカウトをしたとなれば、それは婦長の能力の高さを裏付ける証拠だ。

 しかし、父のお墨付きを得るための代償は高くついたことだろう。



「勝敗は……聞くまでもないか」

 失礼な物言いかもしれないが、婦長もそこは納得している様子だった。

「始めは互角の勝負だと感じていたのですが……」


「いや、完敗だったよ」

 そう答えたのは乱子だった。


 婦長は横槍を入れられた格好だったが、文句を言ったりはしなかった。

「強かったよ、総国おまえの親父は。あんなに強い奴がいるとは嬉しい誤算というかなんというか。それまで凛子は誰とやっても負け無しだったんだがな」


 思い出話を語るように和やかな顔をしている乱子に、鬼の様な形相で婦長が噛み付いた。


「それはあなたがそうさせたんでしょう乱子! 私はむやみに戦ったりしたくなかったのに!」

「戦闘欲の様なものは誰しもが持つ本能だ。お前はその欲求に抗う事ができなかっただけだろう。私のせいにするな」

「うるさい! あなたが私をそそのかしてたんじゃないの! まだ愛子も小さかったのに道場破りやストリートファイトに明け暮れて……!」

「だから私は単なる技術提供者だというのに。まるで私がお前を操縦して名のある格闘家や武道家を潰して回っていたみたいな言い方はやめてほしいなぁ」

「なんですって!? 全部あなたの指図でしょう! 勝手なことばっかり言って!!」

「指示した覚えはないぞ? お前が気持ちよくなりたいからやってたんだろう。お前は昔からそうやって文句ばかり言って。少しは愛子の素直さを見習えよ」

「い、いい加減なことばかり言って! もう許さない!!」

「お、なんだ? やるか?」



 道場破りとかストリートファイトとか格闘家潰しとか……そんなことをやっていたのか。


「ううむ……」

 俺は思わず唸った。

 そして腕を組んで沈思する。


 ふたりは激しい舌戦を繰り広げるが、とりあえず殴り合うような雰囲気ではないので放っておこう。


 やはり、婦長は父と戦っていたのだ。

 その上で認められ、金沼家の使用人として雇われた。

 でなければあんなデータは有り得ない。


 そう考えると点と点が結ばれていく。


 婦長の技と乱子の技が共通していること。

 猿飛愛子と婦長が初対面の頃から不思議と打ち解けていたこと。

 婦長と乱子がVIPルームで対峙した時、異様に険悪だったこと。


 そしてあの時、乱子が婦長の技をまともに喰ったにも関わらずノーダメージだったのは、自分自身の技でもあるから見切っていたということか。


 乱子は全て承知の上で初対面を装い、その上で喧嘩をふっかけ、自分の相手に婦長が相応しいとのか。


 そうでなければ1からふたりの関係性を有仁子に説明しなければならないし、それをあのチンパンジー程度の知能しかない女が理解できる訳が無い。

 乱子は婦長との対決を最速かつ最善の方法で実現したということか。

(そうか、だからあの時、「ひっかかった」と言ったのか……流石だな)


『そうだったのか』と思わせることはまだまだあるが、乱子と婦長の関係性を裏付けるには現時点の材料で十分だろう。


 よし、ここまではいい。

 ここからが大事なところだ。


 俺はコホンと咳払いをひとつ。

「ええと、ちょっとよろしいですかおふたり共」

 まるで子供のように取っ組み合い始めたふたりの間に俺は割って入った。


「ここまでの事は分かった。猿飛家の血筋に乱子という超常的な存在が居て、さらに戦って気持ちよくなってしまうたちの者が出現する事もわかった。ここからは俺の推察だが、乱子は敗北とともに消えるが、血筋の他の者に新たに憑依してしまうんじゃないか?」


 俺がそう言うと、婦長は真相を一発で看破されて呆気にとられた様な顔をしたが、乱子は「冴えてるゥ」と言わんばかりに俺を指差した。


「ご明察。その通りだ総国。ただ、敗北したのはお前の父親とやった時が初めてで、普段は依代よりしろの死と共に次の依代へと向かう。あの時は愛子が近くにいたし、もう猿飛の血筋は愛子しかいなかったから自動的に愛子に憑依したというか、せざるを得なかったんだよ」

「自動的にって……えらく雑だな」

「簡便だと言ってくれ」


 なんとも適当な世代交代だ。

 そんなお手軽さで先祖の霊が乗り移ってくるのはお手軽さの割にヘビーである。


 そのお手軽さの被害者である鳥山婦長は怒り心頭であった。

「だからこそ私はあなたを徹底的に敗北させる必要があるのよ乱子! そうすれば、行く宛のないあなたは消滅する! 大人しく消え去りなさい!! この亡霊女ぁ!!」

「痛って! 髪を掴むな! これは愛子の髪でもあるんだぞ!!」



 なるほど、やはりそういうことか。

 乱子が自分の事を記憶云々と言っていたのにもこれで合点がいった。

 乱子は代々受け継がれてきた『初代・忍者猿飛』そのものというわけか。


 俄には信じがたいが、もう受け入れるしかあるまい。

 だが、それはそれとして俺にはまだまだ気になることがあった。

 俺は再び始まったキャットファイトに巻き込まれぬように一歩下がった。


「ところで、なんで母であることを伏せて尚且なおかつ離れて暮らしてるんだ? それに、猿飛のお父さんは……」

 

 ぴたり。

 そんな音がするように、ふたりは静止してしまった。


 あ、やばい。

 聞いたらマズイ系のことだったか……。

「あー、話しにくいことなら別にいいんだけどね」


 取り繕ってみたものの、全然取り繕えてない。

(わざとじゃないにしても、家庭の事情に踏み込んでしまった……猿飛あいつ、ただでさえ複雑そうだもんなぁ)


 ふたりが一気に静かになってしまった。

 気まず過ぎて俺の汗がどんどん冷えていくが、その汗を拭う様に乱子が言った。

「案ずるな。別に暗い理由ではない。ただ、こればっかりは私にも非が無くもないというか、なんというか」


 あの乱子が珍しくばつの悪そうな、申し訳なさそうな顔をしている。

 そして婦長は一気に泣きそうな顔になり、嗚咽を噛み締めながら言った。

「あの人は……武者修行に出てしまったんです!」


 ……は?

 武者修行??


 予想だにしなかった理由に絶句する俺に、乱子はなんともいえない深みのある表情かおで言った。


「丁度いい。私の出自から、順を追って話をするとしよう」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る