第54話 猿飛恋子 VS 蛇乃目兵
蛇乃目 兵という男を見くびっていたつもりはない。
あいつの危険性はよく理解しているし、それを踏まえて
だが、『奇襲』という最も起こり得るであろう事態を許してしまった今、この瞬間で全てが瓦解した。
『10分間』
その間は安全だという油断に付け込まれた。
俺は悔しさよりも焦燥感に苛まれていた。
本当に音も無く、突然現れたというより『降ってきた』蛇乃目。
天井裏に潜んでいたのか、それとも爬虫類よろしく壁にへばりついていたのかわからないが、いずれにしても着地点は狙い済ました様に恋子の背後だったのだ。
蛇乃目の姿に観客達が気がついた時には、彼の両手が恋子の小さな顔を前後から包み込んでいた。最悪の形がすでに完成されていたのである。
あの両手を錐揉みよろしく回転させれば、それで全てが終わる。
手練れの荒事師にとって少女の頚椎をへし折るなんて小枝程度の手応えしかないだろう。
果実を枝からもぎ取るように、恋子の頭部を
そして、当然のように自分は勝利するのだ。
その確信に満ちた蛇乃目の瞳はいつになく
俺も観客もただ見ている事しかできないであろう幕切れに、ただ一人奇声を上げて抵抗する者がいた。
誰あろう、蛇乃目本人だった。
「ふぐぉっ?!」
豚の鳴き声のような奇声を上げ、蛇乃目が仰け反ったのだ。
「んおほっ! んごおほっ! んごおおお?!」
折角モノにしたチャンスを投げ出し、激しく咳き込む蛇乃目。狂ったように顔面を拭っている様を一言で表現するのであれば『悶絶』……その一言に尽きた。
――???
一体何がどうなった?
何が起きた?
誰にも何も分からない状況の中、恋子だけが全てを把握していた。
「ここまで完璧に引っ掛かってくれると逆に面白くないよ? 蛇乃目さん」
そう言って恋子は手にしていた小さな瓶をポイと放り投げた。
あれは、胡椒……?
観客の誰かがそう呟いた。
赤いキャップに赤いラベル。
食卓の脇に並べるには丁度良い小振りなガラス瓶……そうだ、あれは胡椒だ!
世代を超えてお馴染みのS&Bのテーブルコショーだ!!
観客から『俺の家にもあるぞ!』と、どこか嬉しそうな声が上がった。
つまり、恋子は瓶のキャップを外して蛇乃目の顔面目掛け、その中身をぶちまけたのだ!
流石……と言って良いのかどうか迷うところだが、恋子はこの戦いが尋常なモノではないことをよく理解していた。
熊谷を倒した実力に見合う判断力と機転には只々驚嘆させられる。
彼女は一時休戦の際、キッチンでお茶を飲んでいた。胡椒を忍ばせるのであればタイミングはそこしかない。
つまり、恋子はその時点で蛇乃目の不意打ちを予見していたのだ。無論、俺は恋子のその行動に全く気がつかなかったし、不意打ちなんて意識すらしていなかった。
まさかここまでとは。彼女の底知れないポテンシャルに戦慄すら覚える。
「蛇乃目さんなら背後を取りたがるだろうと思ってたよ。当然、不意打ちでね」
恋子は悠々と歩を進め、蛇乃目との距離を詰めた。
蛇乃目は顔面に胡椒をぶっかけられたせいでほとんど行動不能状態だ。呻き声のようなくしゃみが滑稽ですらあった。
「あんたみたいなタイプが時間っつーか約束を守るなんて最初から信じてなかったよ。だからって正面から来るわけないし、かといって物陰からそーっとってタイプでもない。カメラもたくさんあるし、生中継見てる人の目も警戒もするでしょ。だったらもう上しかないよね。そうすれば後ろも捕れるし一撃必殺も狙える。だからあたしはそこだけ警戒してれば良かったわけ。……読み通りだったね」
「くッ……糞がぁッッ!!」
全てを見透かされていた蛇乃目。
怒りと苛立ちと胡椒のダメージで冷静さを欠いたか、乱暴に振り回すようなパンチを繰り出したが、恋子にとってそんな雑な攻撃は驚異でも何でもなかった。
彼女はそのパンチを易々と避け、そのまま腕を捕って思いきり引きずり倒してしまった。
ワッ!!
急展開に会場が沸く。
そして蛇乃目の長い腕を脇で抱え込む様にして固定。
シンプルにして強力な関節技・『脇固め』は、いとも簡単に完了した。
俺の隣でその様子を観戦していた犬飼が、ため息混じりに呟いた。
「……
俺も心底驚いていた。あの蛇乃目 兵をここまで鮮やかに仕留めるなんて、まるで夢でも見ている心持ちだ。
そう、まるで夢でも……。
「……いや、待て」
いつだってそうだ。
夢は醒めるものだ。
俺の儚い夢を醒まさせたのは、蛇乃目の薄気味悪い笑顔だった。
ニヤニヤと厭らしく歪むその顔。
難攻不落の脇固めを喰らっている最中にも関わらず、余裕綽々で蛇乃目は笑う。
「ククク……いやはや、素晴らしい。マーヴェラス……ッ!」
それは決して強がり等ではない。
蛇乃目はいつも通りの
いや、本当に嘘だったのか?
「ククク……面白い。実に面白い。愉快だよ、猿飛恋子くん。手近なものを上手く利用するその機転。熊谷のような頭の固い理論派には真似できない芸当だよ」
薄ら笑いで語る蛇乃目に危機感は無い。むしろ、余裕すら感じさせる声色だった。
――
その言葉が脳裏を掠めると同時に体の芯から凍えるような、嫌な感覚が俺を襲った。
胡椒のダメージは演技だったのだ。
いや、だとしたらこの状況はなんだ?
あいつはわざと脇固めを喰らったのか?
そう簡単に抜けられる技でもないのに何故だ?
―――ッ!
なんだ?
このゾッとする感じは。
俺の背筋を冷やすこの感覚。
理解を越えたモノに対する畏怖と嫌悪。
文字通り、蛇に睨まれたようなこの……焦燥感はなんなんだ??
肩関節を完全に極めらているにも関わらず、蛇乃目は苦しむ様子も無かった。
「さぁ、折ってしまいなさい。キミならやれるだろう、恋子くん!!」
俺は我が耳を疑った。
だから1度目は聞き間違いかと流したが、聞き間違いなどではない。
蛇乃目は今、確かに恋子を恋子と呼んだ。
俺と彼女しか知り得ない秘密を、どうして蛇乃目が知っている……?
様々な疑問が湧いて出てくるが、それらを拾い集める余裕すら無い。俺は焦燥感で焦げ付きそうだった。
「おや、折らないのかな? それとも折れないのかな? ククク……」
ほくそ笑む蛇乃目。
……様子がおかしい。
圧倒的優位であった筈の恋子と蛇乃目の間に、
そして、恋子の表情もそんな蛇乃目に対して焦りを帯びているように見受けられた。
「相手が悪かったね、恋子くん」
その瞬間、恋子が不自然なほどのけ反った。
がくんと支えを失ったかのように、蛇乃目の背中に恋子の背中が乗り掛かる程だった。
折った!
恋子が蛇乃目の肩を破壊した……!
俺の目にはそう映った。
だが、違う。
蛇乃目は痛みを露にするどころか、恋子がのけ反った反動で拘束が緩んだ隙に極められていた右腕を引き抜き、素早く飛び退いて恋子との距離を取った。
「ククク……これで分かったかな? キミに勝機は無いんだよ」
蛇乃目にダメージは見受けられない。何がどうなったか俺には全くわからなかった。
恋子は状況を咀嚼しきれない様子だったが、最上級の警戒を蛇乃目に向けいている事だけは火を見るより明らかだった。
蛇乃目は自由になった右肩を優しくさすりながら言った。
「恋子くん。いや、愛子くんかな? キミの事をどう呼べばいいのか、私は迷っているんだよ」
薄気味悪い笑みを顔面に張り付け、蛇乃目はククク、と笑うのだった。
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