第40話 インフルエンザ流行ってるもんねぇ〜
中止?
突拍子が無さすぎて初めは何の事かわからなかったが、猿飛がものすごい剣幕で有仁子に詰め寄ったので、そこでその意味を理解できた。
「えええ!? 有仁子さん!! 中止ってどういう事ですか!」
最早絶叫という悲痛な叫びで有仁子の肩を激しく揺する猿飛に、有仁子は前後にぐわんぐわん揺れながら不満そうな顔で言った。
「いやァ、あたしだってやりたいよ? だけど愛子ちゃんの対戦相手がインフルエンザにかかっちゃってよォ。闘いたくてもフラフラで喧嘩になんねーんだとよ」
何が愛子ちゃんだ馴れ馴れしい。
それにインフルエンザだと?
予定していた対戦相手は地下のファイターのくせに自分の体調管理も出来ないようなヤツなのか?
「おい有仁子、中止だなんてお前本気か?」
取り乱す猿飛を落ち着かせながら俺が前へ出ると、有仁子は「あン?」とヤンキー丸出しのダサい威嚇を挟んで答えた。
「本気もクソも、演者が居なきゃ舞台が成り立たねーだろ馬鹿が」
「それで観客が納得すると思うか? さっき会場を見て来たが満員じゃないか。今さら中止だなんて言ったら暴動が起こるぞ」
「うるせーなァお前の知ったこっちゃねーだろ。今さっき『ひとり1万円あげるから大人しくお帰り願いませんか』って言ってみたらみーんな素直に頷いたぜ。貧乏人なんざチョロいモンだぜ」
クズ・オブ・クズ有仁子。
いつかこいつにバチがあたりますように。
……しかし、そんなことで観客達は納得できるのだろうか。
いや、こいつの事だ、どうせ拳銃片手に脅しでも入れたのだろう。
1万円もらって命も助かるなら俺だって大人しく帰って寝る。
「そんな! 納得できません!!」
だがここにひとり命知らずがいる。我らが猿飛愛子だ。
彼女は
「しょうがないだろ愛子ちゃん、インフルエンザ
「でも! でもでもでも!」
こんな猿飛は初めて見る。
同時に、こんなに
完全に取り残された俺と犬飼は顔を見合せ、対応を検討した。
「……総国様、これは好機かと」
「俺もそう思ってるよ」
犬飼の言わんとする事はつまり……。
俺は一歩前へ出て有仁子に問うた。
「おい有仁子、今回の試合は延期か? もしそうなら今後のスケジュール的に無理が出る。今回の延期がそちら都合なら、こちらで今後の予定を組み直させてもらうぞ」
先ずは牽制だ。こうやって相手の混乱に乗じて自分達の有利な条件で事を進める……俺も犬飼も、ここは『交渉』すべきだと考えたのだ。
少なくとも前回のような酷すぎる条件での闘いは回避できそうだ。理想は不戦勝を引っ張り出す事だが、流石にそれは無理だろう。
「どうなんだ有仁子、それでいいな?」
有仁子は苦虫を噛み潰した様な、直視に耐えない醜い顔で答えた。
「クッソムカつくけどよォ、今回はうちらの敗けでいいよ。下手こいたのはこっちだからな、それなりの落とし前はつけるぜ」
え?
マジ??
……不気味なまでの潔さだ。
目の前に居るのは本当に有仁子か?
地震、雷、火事、有仁子と恐れられるあの有仁子なのか??
「し、信用できるか。お前のような度し難い外道の……」
そう言いかけたが、寸前で飲み込んだ。
(ん? これってつまり不戦勝じゃない?)
そんなアイコンタクトを犬飼に送ると、彼もまた同じような目をしていた。
有仁子はクソ外道だが、外道には外道の
どうでもいいが、それを利用しない手はない。
「そんなああああああっ!」
猿飛がその場に崩れ落ち、震える手で有仁子の服の裾を摘まんだ。
「そ、それってつまり今回はナシってことですか? 2戦目は無しでいきなり最終戦ってことですか?」
「まーそうなるな。ごめんな愛子ちゃん。次の相手は飛びっきりのやつ連れてくるからさ」
「それはそうしてほしいですけどおおおお!! 今回はホントにナシなんですかああああ!?」
絶望にうちひしがれる猿飛の襟首をむんずと掴み、俺は出口へと向かった。有仁子の気が変わらないうちにここを去りたい。
あいつの性格から言って前言撤回は普通にあり得るが、こちらに有利な流れは変わらない。作戦を練る時間も稼げるだろう。
「帰るぞ猿飛。今回の事は残念だが諦めろ」
「ちょっと金沼くん、放してよっ!」
突然の強制帰宅に猿飛は激しく抵抗。
やたら暴れるので彼女の小さい拳や肘が容赦なく俺を打った。
「痛ッ! いいから帰るぞ痛ッ!」
「なんで!? 諦めたらそこで試合終了だよ!?」
「そもそも試合してねーし。それにまだあと一回やれるだろ? 我慢しろ」
「いや! いやだ! いやあああっ!」
そんなに喧嘩が好きなのか。俺には全く理解に苦しむ嗜好だ。
俺は嫌がる猿飛を抱えて会場を後にしたわけだが、家に着くまで彼女は抵抗し続けた。
その間犬飼が必死に説得というかなだめたりご機嫌取りをしてくれたおかげで幾分落ち着いてはくれたものの、猿飛らしくない有仁子顔負けの仏頂面に、俺は恐怖すら感じていた。
「……それでは総国様、猿飛様、私はここで失礼いたします」
猿飛家の門扉で犬飼は深々と頭を垂れた。
「えっ!? もう帰っちゃうの? ちょ、ちょっとお茶でも飲んでいけよ犬飼。疲れただろ?」
ここで犬飼に帰られたら不機嫌すぎる猿飛とふたりっきりになってしまう。
それだけは避けたい俺は自分の家でもないのに図々しくそんな提案をしてみたが、犬飼は明らかに疲れきった表情で、
「ええ。とても疲れましたので、お先に失礼いたします」
そう言い残して彼は去っていった。
参った。不機嫌全開の猿飛を押し付けすぎたか。
女の機嫌を直すのは重労働だって言うしなぁ……やったことないけど。
「……ねぇちょっと、降ろしてくんないかな」
猿飛がぼそっと呟いた。
彼女らしからぬ低いトーンの口調が俺の心をざわつかせる。
「え!? あ、すまんっ!」
俺は猿飛を抱えたままだったのだ。
速やかに彼女を降ろしたはいいがどうしたものか。
「と、とりあえず家の中に入ろうか」
玄関先では間が持たん。
先ずはコーヒーでも飲んで落ち着けば猿飛だって少しは機嫌を直す――可能性はゼロではない、はず!
何事もチャレンジ精神が肝要なのである。
というわけで俺は彼女を
……?
開けた?
どうして開くんだ?
俺はまだ解錠していない。
急いでいたので、鍵を無視してそのままドアノブに手を掛けた。
そうしたら、開いてしまったのだ。
俺の記憶では、猿飛は家を出る際に施錠をしていたはずだが……?
(……なんだ? この嫌な感じは……!?)
いつもと同じ玄関先でいつもとは違う何かを感じ、そのよくわからない何かが爪先からじわじわ上ってくるような感覚に俺は寒気すら覚えていた。
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